2013年12月30日月曜日

いち音楽ファンとして今年認識を新たにした三つのこと

 今年(2013年)も残すところあとわずか。
 総括すべきことはいろいろあるのですが、今回はいち音楽ファンとして今年認識を新たにした三つのことについて綴ってみます。

 今年の音楽シーンを振り返るとか、そういう評論めいた話ではなく、きわめて個人的な事柄です。

 まず一つ目は、ビル・エヴァンスの良さにようやく気付いたこと。

 私だって『waltz for debby』くらいは昔から持ってたし、リバーサイド四部作は全部聴いたことがあるけれど、いまひとつピンときていなかったのです(『アンダーカレント』もそこそこイイとは思いましたが…)。
 でも、最近『I Will Say Goodbye』と『you must believe in spring』を聴いて「なるほど、こりゃワン・アンド・オンリーのピアニストだわ」とはじめて納得がいきました。食わず嫌いならぬ聴かず嫌いでした。ビル・エヴァンスならリバーサイド四部作に限る、と言った人をちょっと恨みたい気持ちです。

 二つ目は、ウエスト・コースト・ジャズを見直したこと。

 イースト・コーストにおいて目覚ましく進化を遂げたジャズに対して、まるで大衆文学を純文学の下に置くようにツーランクくらい下に見られるウエスト・コースト・ジャズ。私もアンサンブルの面白さは認めるとして、いまひとつ深みに欠けると思っていました。

 でも、仕事でつかれた体で聴いてみると違うんです。リロイ・ビネガーのウォーキング・ベースに「救い」のようなものを感じたんです。
 スコット・ラファロやエディ・ゴメスをディスるつもりは毛頭ないけれど、彼らのように理屈っぽくない明るさ、明快さが、少なくともいまの私が欲しているものであることは間違いありません。

 三つ目は、「アルフィー」というスタンダード・ナンバーが大好きになったこと。

 ソニー・ロリンズの「アルフィーのテーマ」ではなく、バート・バカラックのほうです。
  
 きっかけは今夏ライブで、種子田博邦さん(pf)、蒲谷克典さん(chello)のデュオを聴いたこと(ライブ自体はサックス付きの変則トリオでしたが、この曲のみおふたりで演奏されました)。

 もともと知っていた曲でしたが、こんなに美しく切ない曲だとは思っていませんでした。なんて美しいメロディだろうと思い、いろいろ探してみたのですが、彼らの演奏ほどのものにはなかなか出合えません。絶唱といわれるD・ワーウィックの歌声(すごくキュートです)を聴いても、バカラック自身の弾き語りを聴いても、さほどの感動はないんです。

 音楽性とか、演奏力とか、そういうことを語る資格は私にはありませんが、この曲はピアノとチェロという編成にピタリとはまっているし、歌手がtoo muchな情感を込めて歌うよりも、素直なインストルメンタルとして演奏するほうが、より楽曲の魅力が生きる気がしています。


ディウォンヌ・ワーウィック 『アルフィー』

http://www.youtube.com/watch?v=Gx6zm2lGF90

 





2013年12月29日日曜日

諫言を容れる度量

 一人親方というのは孤独なので、SNSなどについ「自分がいかに頑張っているか」めいた内容の投稿をしがちです(私も含めて)。もちろん、良いと思います、度を超さなければ。

 専業主婦も似たような立場かもしれません。毎日八面六臂の活躍をしても、誰かに褒めてもらえることなどまずないでしょうから。

 かかる投稿は「頑張ってるね。偉いね。」というような反応を期待してのものでしょうし、たいていは期待通り、誰かが反応してくれることでしょう。

 ただ、SNSではなかなか得にくい反応もあります。それは「相手を慮ってのネガティブな反応」、すなわち助言・忠告の類いです(注)。

 相手(投稿者)がわだかまりなく素直に助言・忠告に耳を傾けてくれるであろう信頼なしに、この手のコメントはできません。

 内心、アチャーと思いつつも、あえて火中の栗を拾う(相手から疎まれる危険をはらんだ損な役回り)必要を感じないのが普通であろうからです。

 かつて手厳しい批判を素直に受け止められることが「将たる器」とされた時代がありました。

 黒田官兵衛孝高の息子である黒田長政は、「異見会」というものを月に何度か開いていたそうです。これは、主だった家臣を集めて、相互に思ったことを意見し合うというもの。何を言われても腹を立ててはダメ、過ちは素直に認め、謝罪しなければならない、というルールで運営されていたそうです。

 黒田家は武勇の家柄。「黒田節」に謳われた母里太兵衛をはじめ、孝高以来の古参の重臣も多かったことから、長政に対してじつに手厳しい批判が向けられることもあったようです。
 長政は、ときには涙目になったり、顔を赤くしたり青くしたりしながら、家来たちの言い分に黙って耳を傾けました。
 すこしでも怒りの気配が見えると、「これはどういうことでございますか。怒っておられるように見えます!」と厳しく指摘が飛んできますから、長政も一生懸命平静を装ったことでしょう。

 「天下の軍師」官兵衛から見れば不肖の息子だったとも言われる長政ですが、じつに優れた人物ではありませんか。

 私自身、胸に手を当てて考えてみるに、他人の忠告が耳障りなのは、自分が無意識下で避けて通っていることに目を向けさせられるからなのかもしれません。人の声を自分の「姿見」として生かせる心の余裕を持てたらな、と思うのですが。

 何よりまず、「相手から疎まれる危険をはらんだ損な役回り」を引き受けてくれる誰かとの信頼関係を育てたいものだと思います。

(注)はなから投稿者を誹謗中傷する目的でネガティブなコメントを投げる人等もいるでしょうが、ここでは「相手によかれと思っての忠告」について述べています。






2013年11月20日水曜日

鶴崎城を描いた短編小説 ~ 岩井護 『女の城』

 妙林尼は、戦国時代、島津氏が豊後に侵攻してきた際、銃後に残った老人や女子供を指揮して鶴崎城(大分市南鶴崎)で敵を迎え撃った女傑として知られています。

 今週末(11月23日)、ご当地である大分市の鶴崎公民館で「妙林尼」を主人公とする戦国劇が上演されるそうです。

 裸城同然の鶴崎城を戸板や畳で防御し、攻め寄せた精強な島津勢を落とし穴・仕掛け罠などで翻弄した彼女は、落城必至と見るや一転、鎧武者姿から尼僧姿に変身し、開城して島津勢を歓待し、懐柔を図ります(注)。
 ついに島津勢が撤退するその日、巧みに撤退路を訊き出した妙林尼は、部下に命じて待ち伏せさせ、見事耳川で討ち死にした夫の仇を討ったというのです。

 妙林尼を主人公にとりあげた小説として私がまず思い浮かべるのは、今年一月に鬼籍に入られた歴史作家の岩井護(いわいまもる)さんの『女の城』という短編です〔『西国の城・下巻』(講談社 1976年、絶版) 所収〕。

 彼の短編小説は、いつも最後の段落が実にいいのです。

 読後に何とも物悲しいような余韻が残る、そんな文章でしめくくります。この小説の最後の段落は次のようでした。

『悲惨な合戦の中で、その一人の女は、なにやらひどくなまめいた存在として語り伝えられていった。できればそんな女だけの城を攻めてみたいものよと男たちは笑い合った。合戦で愛する男を奪われた女たちの怒りや哀しみが、女たちをそのような戦いに駆り立てたということに考え及ぶ者もなかった。』

 彼は、小説中、妙林尼は「城主であった吉岡掃部助の妻であったと言う者がいた」としながらも、彼女を飽くまで出自の不明な謎の女で、自然発生的にリーダーになったように描きました。

 その意図はどこにあったか。

 作者は「妙林尼こそ近親者を奪われ、生活を破壊された女たちの怨嗟や憤怒の化身であったのだ」と言いたかったのではないでしょうか。

(注)妙林尼は、豊後三老のひとりに数えられた吉岡長増の息子・鑑興(のち鎮興)の夫人だったといわれています。夫の鎮興が、大友勢が島津勢に大敗を喫した耳川の戦いで戦死したため、息子統増が家督を継いでいましたが、このときは兵を率いて出陣、城を留守にしていました。







2013年11月3日日曜日

大友宗麟は「偉人」でなくてはならないか~遠藤周作「王の挽歌」

 今年8月、大分市で「南蛮文化国際フォーラム」が開催されました。

 そこでのパネル討論によると、大友宗麟は「江戸幕府による情報統制により不当に低評価を受けている」そうです。
 どこかの国もびっくりの謀略史観だ、と申し上げたらお叱りをうけるでしょうか。

 でも、私の印象では、宗麟という人はまるで「苦労知らずで育った老舗優良企業の御曹司社長」のように思えます。
 有能で、先見の明もあったのでしょうが、いかんせん人の気持ちが理解できず、人心掌握という点では多分に問題があったと思うのです。史実を虚心に見れば、「優秀な部下や豊かな財力など経営資源に恵まれ、頭もよかった老舗の若社長が、人情の機微が理解できないことと行動力不足ゆえに名門企業をつぶしてしまった」というのが、当たらずといえども遠からずという気がします。

 そういった意味では、「弱い人間」宗麟が信仰に縋り、目覚めていく過程を描いた遠藤周作『王の挽歌』は一読の価値のある小説です。
  大分県のヒーローである大友宗麟という人物があまり魅力的に描かれていないせいで、大分県民としてはスカッとしない点は否めませんが、歴史小説の主人公はヒーローでなければ、強くなければ、善人でなければ、正しくなければならない、という既成観念から自由である点に、まず魅力を感じないではいられません。

 冒頭触れた宗麟再評価の背景には、「歴史を観光資源にするうえで、屈指の有名人である大友宗麟はヒーローでなくてはならない」という地元の都合も透けて見えます。
 しかしながら、「歴史の観光資源化=歴史上の人物の個人崇拝」という発想そのものが一種の思考停止とはいえないでしょうか。

 大友宗麟という英明な領主がつくった豊後府内の街はどんなところで、人々はどんな暮らしをしていたか。それがまるでポンペイ遺跡のように、一夜にして灰燼に帰したのはなぜか(注1)。
 大分市の歴史的観光資源のキモはそこだと思います。


 蛇足ですが、この小説の最も感動的な場面は、大友宗麟の登場しない、大要次のくだりです。

 有能な日本人医師和田強善が、アルメイダ(注2)が豊後府内に開院した病院を訪れます。和田医師は、アルメイダとその病院に多分に胡散臭さを感じていました。

 施術の様子を見た和田医師は、あらためて自分の疑念は当たっていたと思います。アルメイダの医療技術は稚拙で、高い医術を身に付けた和田医師には遠く及ばないものだったからです。

 見かねた和田が特効のある漢方の処方を助言すると、アルメイダは「忝のうございます、忝のうございます」と心からの感謝の言葉を何度も述べました。
 
 翌日、助言の成果を見届けに再びアルメイダのもとを訪れた和田医師は驚きます。喉が詰まって苦しんでいる子供を抱きかかえたアルメイダが、その子の口に口をあて、痰を吸い出しはじめたのです。

 治療のためにここまでやるのか…この人にとっては患者を救うことがすべてなのだ、その信念の前では医療技術の巧拙など何が問題だろう、と感じた和田医師は、思わず叫んでいました。

 「私をここで働かせて下さるまいか。」

(注1)かつて我が国を焦土とし、たくさんの民間人の命を奪ったのは米軍。でも日本人の多くは、その責任を我が国の戦争指導者に求める。豊後府内を焼き尽くし、暴虐を働いたのは島津勢だが、太平洋戦争の伝でいくなら、惨禍の責任は大友宗麟・義統父子にあるということになる。彼らは豊後国に君臨しながら、島津勢の豊後侵攻になすすべなかった。否、積極的に手を打たなかった。

(注2)ルイス・デ・アルメイダは、ポルトガルの貿易商人。東方貿易で莫大な富を手中にしたが、宣教師たちとの出会いを通して思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にとどまって医療活動に従事した。小説に描かれた通り、医学校出身とはいえもともと商人であったアルメイダの医療技術は決して高くなかったと推測されるが、患者に献身する真摯な姿勢はいまも大分の医療従事者たちの模範となっている。








2013年10月25日金曜日

士業とネット販促

 不動産鑑定士である私のところには、ネットに関わる販促プロモーションについてさまざまな勧誘があります。

「リスティング広告が効果的ですよ!」「士業の専門サイトに登録しませんか?」

 そうしたアプローチは、100%電話です(時間が勿体ないので丁重にお断りしています)。

 でも、ここで疑問が生じませんか?

 リスティング広告がそんなに効果的なら、なぜ彼らは最初のアプローチにリスティング広告をまず用いようとしないのでしょうか。

「不動産鑑定士の人たちはネットに疎いので、リスティング広告にはなじまない」
「この手のアプローチ手段としては、費用対効果が薄い」
「込み入った話なので、サイトでは十分魅力が伝わらない」とでも言うのでしょうか。

 ならば、なぜ不動産鑑定評価の需要者が、ネットに強く、リスティング広告に適し、費用対効果も十分見込めて、魅力をきちんと伝えられると判断したのでしょうか

 そもそも、不動産鑑定評価の需要者属性や発注意思決定過程をどのように捉えてのご提案なのでしょうか
 B to Bでは(とりわけ専門サービス利用シーンでは)サービスや商品をウェブで探す、というのは極めて例外的な顧客行動です。依頼内容が一義的に定まっており、誰に頼んでも同じようなクオリティが期待できるようなケース等に限られるのではないでしょうか。

 じつは、この手の「ナントカ・マーケティング」「カッコ書きマーケティング」(注1)は、不思議なほどに世の中に氾濫しています。成功例を因果関係の見きわめもなしに喧伝したり、需要者の購買行動のあり方について無頓着だったり。彼らが言っていることがどこかおかしいことぐらいは、マーケティングの専門家でない私でもわかります。

 マーケティング・セミナーに行くことは無駄とは言いませんが、質疑応答の際に積極的に講師に質問するとか、後日メールでお尋ねするとか、生じた疑問やわからない点を解消できるよう努めることは必須です。質問のコツは、自分に即して尋ねること。その講師がニセモノでなければ、逃げを打つような回答はしないはずです(注2)(注3)。


(注1)本来のマーケティングとは次元を異にするものだ、という認識から、個人的にこう読んでいます。

(注2)逃げを打つような回答とは、特定のケースを前提とした質問に対し、一般論で答えるような回答を言います。
 たとえば、本稿について、「B to Bの専門サービスでもネット販促が非常に有効なケースはある」と反論するようなこと。
 私は不動産鑑定業について話しているわけで、そうした一般論に関心はありません。このサービスはこのような特性があるので、需要者はこのように行動する。だからネットでどう誘導し、こういう点を訴求すると極めて有効だ、というようなお話なら、興味があります。
 ところで、不動産鑑定業でもB to Cのネット販促モデルは考えられます。たとえば、個人の破産同時廃止の場合の免責申立てに必要な財産価額の評定。当事者が誰かに相談がしにくい(しかも若年層が比較的多い)ため、ネットでの告知は彼らの便宜に資するものだと考えられます。当事者が不動産鑑定士に電話でこの件を相談するのは、大変勇気のいることだと思われますから。

(注3)問題の根本には「まず手段から考える」姿勢があります。手段の有効性の説明の多くは後付け。「ある属性の人々は、こういう行動特性を持っているから、この人たちにアクセスするには、この手段がいいな」と順序立てて検討すべきです。「ネット上では」などと無用な限定をせずに。


<後記>
 対価が数十万円にも及び、しかも具体的に何を依頼すればいいのかわからない案件を、たまたまクリックしたサイトで見た業者に発注するでしょうか?
 もっとも合理的に想定しうるのは「誰か信頼できる第三者に(誰に頼めばいいか)助言を求める」という需要者行動です。この場合の第三者は、顧問税理士や顧問弁護士だったり、先輩経営者だったり、取引金融機関だったりするでしょう。そうした助言者を持たない人や、助言を求められない事情がある人、遠隔地にいて地元の事情に疎い人などがネット検索を端緒にアクセスして来られるケースが多いと認識しています。
 かかるケースであっても、まずは県士協会に問い合わせたり、県士協会のサイトで業者の顔ぶれを確認したのちに、特定の業者のサイトに来訪するのが通常だと思います。






2013年10月21日月曜日

吉田戦車氏が語るやなせたかし氏「現役に対する飢え」

 漫画家・吉田戦車さんは、私とほぼ同世代で、私が社会に出た頃ちょうど『ビッグコミックスピリッツ』誌に『伝染るんです。』を連載開始したと記憶しています。

 独身寮で同期の仲間から、これ読んで見てよ、と渡された『伝染るんです。』は、私にとって浅いのか深いのか分からない、衝撃の問題作でした。

 その吉田戦車さんのツイートがさきごろ話題になりました。

 発端は、やなせたかし氏のインタビューで「無償の仕事の依頼は実に多い。僕はすごく軽く見られてるんだよ。」という述懐を目にした吉田さんが義憤に駆られて次のツイートをしたことです。

@yojizen: やなせたかしさんの対談いくつかを読むにつけ、あの人の「タダ働き」に甘えてきた多くの自治体とか組織は恥じろ、と思いますね。(ボランティアが適切である場合は、もちろん除いて)

 これが、吉田戦車の激烈批判!のような取り上げ方をされたわけですが、ご覧の通り、やなせたかし氏に対する深いリスペクトから出でたごく冷静な批判文に過ぎません。

@yojizen: タダでもキャラ描くよ、っていうのは、高齢になってしんどいとおっしゃりながらなお「現役に対する飢え」があったからだと思われ、ものすごいことだと思いますが、そこに甘えて描かせたほうの気軽さはちょっといやだ。

 この指摘は、やなせ氏が『なぜ軽く見られつつも多くの無償の仕事を手掛けてきたか』の理由を見事に言い当てているのではないでしょうか。「仕事の報酬は仕事だ」などとカッコいいことを言わぬまでも、「この俺が最適任だろう」と思える仕事は、報酬如何によらず、何としても手掛けたいと思うのがプロだと思います。とりわけ過去に、力を発揮する機会に恵まれない時期を経験したことのあるプロは、仕事にたいして何か飢餓感めいたものを秘めているものだという気もします。
 でも、それを逆手に取るのは如何なものか、という点も同感。

 かかる鋭い指摘をしつつも、吉田さんは次の言葉で一連のツイートを締めくくられました。

@yojizen: 『ほぼ日』対談記事の「原稿料なしで…」「すごく軽く見られてるんだよ」というやなせ氏のお言葉にカッとなってしまい、タダ働きさせた連中恥じろ、というきつい言葉が出てしまったわけですが、その人たちも今悲しんでいるということまで頭が回らなかった。申し訳ありませんでした。

 吉田戦車さんって、思いやりのある方ですね。今般の注目の浴び方は、吉田さんご自身にとってはやや不本意だったかもしれませんが、全体を通して見ると「吉田戦車が男を上げた」出来事と評価していいように思われます。




2013年10月18日金曜日

「二の次」にすべきはどこか?

 国策という言葉を辞書で引くと、「国の政策。特に、一般の政策に対して、国家の基本的方針の意で用いられる。」とありました。

 この言葉が軍人官僚たちにしばしば用いられた昭和初期には「軍事行動を中核とする国の重要政策」のことを指すのが一般的であったようです。

 専門用語が一般名詞に転用される過程で、意味の変化が起こることはよく見られる現象です。
 でもそれには、まるでケモノであるイノシシが家畜としてのブタに変化するようなおもむきがあることも否めません。その変化は進化とも呼べる一方で、大切な要素の欠落であるようにも思われるのです。

 「戦略」という軍事用語にも、それに似た響きを感じます。経営実務の領域では、きこえのいい総花的な施策群を戦略と呼んだり、売り上げ・コスト等各方面にもれなく目配りした施策を戦略と称したりする傾向が強いように思うのです。
 
 乾坤一擲、ある一点にフォーカスした経営政策を「その戦略はバランスがよくない」などとしたり顔で言う人もいますが、戦略というのは、むしろ跛行的なもの、偏ったものではないかという気がします。

 かつて古川公成先生は、『戦略には様々な定義があるけれども、ありていにいうなら「最後の勝利をつかむために、ここでは負けていい」という判断のことだろう』とおっしゃいました。

 つまり「何をやるか」というアプローチより「何をやらないか」「何を捨てるか」というアプローチのほうが、戦略的見地に立ちやすいということではないでしょうか。
 実際のところ、いきなり「どこで勝つか」と発想すると、「その勝利をより確実にするためには、これも必要だ」と、戦略とは名ばかりの戦力分散が行われがちです。

 スティーブ・ジョブスの名言のひとつとされる『方向を間違えたり、やりすぎたりしないようにするには、まず本当は重要でもなんでもない1000のことにノーと言う必要がある』も、これに通底する考え方だと思います。





2013年10月17日木曜日

ネットでよく見る言い間違い

 スマートフォンやiPadでの投稿が増えたせいもあるのか、ネット上では相変わらず言葉の誤用が目につきます。

 投稿文は一度ノートパッドに書いてみて、推敲してから投稿することにしている私ですら、自分の投稿に入力ミスを見つけることはしばしばです。

 とくによく目にするのは、下記に掲げた3つでしょうか。

× 初期の目的
〇 所期の目的

× 肝に命じる
〇 肝に銘じる

× 的を得る
〇 的を射る
〇 当を得る

 私自身も新入社員の頃、研修レポートに「肝に命じる」と書いて、研修指導担当の方に朱書き修正されたことがあります(この表記は間違いやすいので肝に銘じておくように、と添書きがありました…)。

 でも、本文の趣旨は「こんな間違いは恥ずかしいぞ!」ということではありません。ミスは必ずあるのです。
 だからこそ、ビジネス文書や成果物を今一度見直す、自分以外の誰かにチェックしてもらう(目を変えてみる)ということの大切さをあらためて噛みしめてみる必要があるのではないか、と言いたいのです。

 ミスがあったら謝ればいい、誤りを指摘されたら修正すればいいという発想は、つまるところ相手方を軽んじていることに他ならないのではないでしょうか。

2013年10月14日月曜日

若き日の大友宗麟を描いた歴史エンターテイメント~風早恵介『大友宗麟-道を求め続けた男』

 映画化もされた和田竜のベストセラー『のぼうの城』は「歴史エンターテインメント小説」と呼ばれるジャンルを切り開いたと言われています。その特徴は史実性よりもエンターテインメント性を重視する姿勢にあります。

 主人公であるのぼう様こと成田長親のキャラクター。功を焦って周りが見えない石田三成と、長親の器量にいち早く気づく大谷吉継の対比。加えて正木丹波や酒巻靱負ら城方の侍たちの活写ぶり。
 船上で狙撃された長親がニヤリと笑いながら湖中に落ちていくシーンと、それを境に無表情だった領民たちが石田勢への敵意を露わにするようになるコントラストは、本作のハイライトと言っていいと思います。
 
 今回取り上げた、風早恵介『大友宗麟-道を求め続けた男』も、必ずしも史実に拘らず、様々な仕掛けで大友宗麟の生い立ちから二階崩れの変を経て大友家当主となるまでを生き生きと描いた快作です。

 本作を面白くしているのは(まったくの創作と思われますが)、塩法師丸(大友宗麟の幼名)出生の秘密、塩法師丸を守る素性不明の若侍・松永久秀(!)、高崎山を本拠とする細作(忍者)集団の統領(覆面の謎の人物)という三つの仕掛けです(注)

 出生の秘密については、おそらく豊後大友氏の祖である大友能直の頼朝ご落胤説をヒントにしたものと思われます。
 また、松永久秀なる若者がのちに織田信長を悩ませた怪人と同一人物かどうかは本作ではあきらかにされません。
 なお、細作の統領は、じつは本作に登場する重要人物のもうひとつの顔なのですが、宗麟はそれを見抜き、統領は「あなた様こそ御館となるべきお方」と覆面をとって忠誠を誓います。

 蛇足ですが、私はこの種の小説を読むとき、登場人物のキャスティングを勝手にイメージしながら読んでいます。ちなみに本作では、戸次鑑連に平幹二郎、臼杵鑑速に藤岡弘、大友義鑑に高橋秀樹、松永久秀に永澤俊矢といった感じでした。

 どうです?読んでみたくなりませんか?


(注)じつはもうひとり、作中幾度となく怪しい動きを繰り返す人物がいます。この人物の不穏な行動はすべて、終盤の大きな形勢変化の伏線なのですが、これ以上はネタバレとなるので控えておきます。


2013年10月11日金曜日

堺雅人に学ぶ「超断捨離」

 一昨日(10月9日)、俳優の堺雅人さんが、「笑っていいとも」テレフォンショッキングのコーナーに出演、自らの「超断捨離生活」について語っていました。

 何しろ、自宅には遊びに来た友達から「楽屋か!」と驚かれるほど何もない、徹底した断捨離派らしい。スーパーのレジ袋も大小各1枚しかとっておかない由(でも奥様はそうではないそうです)。

 その極意は、彼によればこうです。

 『ペンディング箱』をつくっておき、来たものは何でもそれに放り込んで、箱がいっぱいになったらそのまま捨てる。これだけ。

 もちろん、「公共料金関係の書類」や「年金関係の書類」など大切なものまで捨ててしまい、後悔することも多いそうで、そのままこれに倣うわけにはいきませんが、ペンディング箱というのはいいアイデアですね。

 郵便物はその場で処理しろとか、メールには即対応という人もいますが、それもまた効率が良くないし、事情が許さないケースも少なくなさそうです。でも、後で見ようとどこかに置いたが最後、見つけるのに苦労することもしばしば。

 この点、郵便物やEメールのプリントアウトをペンディング箱に入れておき、週末など時間がとれるときに捨てるもの、ファイルするもの、何らかの対応をとるものに仕分けするのもいいなと思いました。

 箱を使ったファイリングといえば、私は比較的関連資料のかさばる案件(たとえば経営計画策定支援や大型物件の鑑定評価など)についてはダンボール箱にすべての書類をひとまとめにしています。

 これは、精神科医の和田秀樹氏がかつて受験指南本で提唱していたアイデアの応用です。和田氏のアイデアというのは、各受験科目につき一つのダンボール箱を割当て、赤本、ノート、模試の答案、参考書、問題集などを全部ひとまとめにしておくというものです。

 こうすることで、探し物も減るし、例えば英語モードから数学モードへの転換もスムーズというわけです。

 さあ、私もペンディング箱を用意することにしましょう。








2013年10月9日水曜日

大友家にとっての関ヶ原~滝口康彦『悪名の旗』

 田原紹忍(たばる・じょうにん)。義鎮(宗麟)・義統(吉)二代に仕えた大友家の重臣です。

 奈多八幡の大宮司で、大友家の部将でもあった奈多鑑基(なだあきもと)の子として生まれた紹忍は、大友庶流の名家である田原家の養子となり、田原親賢(たばるちかかた)と称しました。その後、彼は田原家の勢力と主君・大友宗麟の義兄宗麟の妻は奈多鑑基の子)という立場を背景に、大友家中の実力者として急速に力をつけ、その絶頂期には、宗麟すら遠慮したほどの威勢を誇ったといわれています。

 耳川の合戦は言うに及ばず、歴史の表舞台で、紹忍ほど大友家没落につながる局面にことごとくネガティブに絡んでくる部将はほかにいません。私自身もこれまで、田原紹忍に大友家の獅子身中の虫のような「悪役」のイメージを抱いてきました。

 しかし、名作『 拝領妻始末』の作者として知られる歴史作家・滝口康彦は、本作で田原紹忍を「大友家再興のために奔走する忠臣」として描いています。

 大友氏改易後、豊後竹田の中川秀成に仕えていた紹忍は、徳川家康と石田三成が覇権を争う中央の不穏な情勢を「大友家再興の好機」と捉え、同じく旧臣である宗像鎮続と謀議を重ねます。しかし、肝心の大友義統がいけない。気弱で決断力がなく、誰が見ても将たる器ではないのです。

 でも、紹忍はこの不肖の甥が可愛くてならない。たしかに将たる器ではないけれど、純粋でやさしく、憎めない義統(この義統の人物描写に、作者の温かい目線が感じられて、大分県民としては嬉しくなります)。結局、宗像鎮続も、勇将吉弘統幸も、義統の愛すべき人柄には抗しえず、勝ち目のない戦に引きずられていくのです。

 大恩ある中川秀成を裏切り、将来ある吉弘統幸を死なせ、悪名に悪名を塗り重ねても、紹忍の願いが天に通じることはついにありませんでした。

 悪名を不本意に思いつつ、それでも自らの信じるところを貫く紹忍に、思った通りにことが運ばないわが身を重ねつつ読んでいる自分に気付いた作品でした。




2013年10月7日月曜日

大人の勉強と子供の勉強

 子供の勉強は、すでにある答えを習うもの。これに対して、大人の勉強は、正解のない問題について自分なりの答えを出す側面が強いように思います。

 学ぶ側にしてみれば、大人の勉強の方がより自由度があります。なにせ明らかな不正解はないわけですから。でも、教え導く立場から見ると、大人の勉強の方が余程大変です。

 大人に勉強を教えるには、各人各様の妥当な結論に行き着くよう導けるだけの力量が求められるからです。

 換言すれば、大人の勉強をも、まるで子供の勉強のように扱うならば、教える側は非常にラクになります(各人に個別の示唆をもたらすのは大変ですが、ダメ出しをするだけなら簡単です)。でも、学び手が本来得るべき「気づき」は限られたものになるでしょう。
 それゆえ、教える側がまず学び手に伝えるべきは「大人としての勉強のあり方」だと思います。

 もとより、誰かを(自分も知らない)正解へと導くというのは、並大抵のことではありません。でも、ここに教え導くという行為の深淵さとやり甲斐があると思うのです。

 ごく狭い自分の知識や経験だけに照らして(あるいは何かの書物などに依拠して)、さもそれが唯一の正解のように振る舞う講師を見ると、『この人は自分の力で自分なりの答えに行き着いたことがないんだろうなあ~』とちょっぴり気の毒になります。



2013年9月27日金曜日

画期的(?)な肩こり解消法を発見しました!

 根を詰めると、すぐ肩こりが出る私。

 「肩こり解消法」でネット検索をかけると、いろいろ見つかるので都度実践してみるのですが、なかなか効果が実感できないでいました。
 じつは最近、自己流でアレコレやっているうちに、画期的(?)な肩こり解消法を発見したので、ご紹介しようと思います。

ステップ1
布団の上にラクな感じで横になる。体は横向きに。左右どちらかの耳が下になるイメージ。

ステップ2
上になった方の腕を、肩の付け根から大きくゆっくりグルグル回す。
このとき、腕の回し方を少しずつ変えてみて、なるべく肩甲骨が大きく動くのが望ましい。

ステップ3
胸、脇、背中など、肩の周りの筋肉の凝っているところを指圧してほぐす。強く押しすぎると逆効果なのでご注意を。

 するとどうでしょう!翌朝起きたとき、あなたの肩はとっても軽くなっているはずです。
 この方法は、多くの「肩こり解消法」同様、単に肩甲骨周りの筋肉を動かしてほぐすだけのものに過ぎません。大事なのは「寝転がって、全身が弛緩した状態で行う」ことです。椅子に座った状態では、さほどの効果が実感できません。

 肩こり・首こりは、単に肩や首が凝っているわけではなく、腰や背中の張りに引っ張られて起きていることが多いようです。
 このように胸から背中までの広い範囲の筋肉をこまめにほぐしておくと、深刻な肩こりに陥ることはまずありません。


2013年9月25日水曜日

石垣原合戦・吉弘統幸陣所跡(別府市観海寺)

 前回は「落日の大友家を彩ったスターたち」と題して、佐伯惟定、志賀親次、吉弘統幸の三人を採り上げました。
 今回は、その続編として、これら三名の中でもっとも悲運の最期を遂げた吉弘統幸について書きます。

 天正6年(1578年)、理想郷「むじか」建設のため日向遠征を企てた大友宗麟は、耳川の戦いで劣勢の島津勢に歴史的大敗を喫しました(注)。

 この戦いで父・鎮信を失った統幸は、弱冠14歳で家督を継ぐこととなります。
 天正20年(1592年)、文禄の役に参陣した統幸は、明の総司令官格・李如松(りじょしょう)の軍旗を奪う働きで、豊臣秀吉から「無双の槍使い」と絶賛され、一躍武名を高めました。大友氏改易ののちは、従兄弟である柳川城主・立花宗茂に二千石で仕え、慶長の役では立花軍の四番隊を任されたとされます。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに臨み、統幸は西軍についた立花家を暇請いします。大友家当主・大友義乗が徳川家に仕えていたからです。
 しかし、大友家の旧恩に酬いようと義乗の元へ向う道中、大友家の再興を狙う前当主・大友義統に出会ったことが、統幸の運命を大きく狂わせてしまいます。

 統幸は義統に対し懸命に東軍加担を説きますが、西軍総大将・毛利輝元の「西軍勝利の暁には豊前豊後二か国を進呈する」との甘言に乗せられた義統は聞き入れません。とうとう統幸も旧主に従う決断をせざるを得ませんでした。

 大友勢が東軍・黒田如水の軍勢と激突した「石垣原の戦い」で、統幸は獅子奮迅の活躍を見せます。しかし、奮戦の甲斐なく次第に大友方の劣勢が明らかとなると、統幸は別れの挨拶をすべく大友義統の本陣を訪れます。

 義統に別れを告げたのち、統幸は残った手勢30余騎を率いて黒田勢に突撃、七つ石(現・別府市荘園町)において戦死しました。

 彼が義統に述べた惜別の辞は、次のように伝えられています。

臣ハ累代厚恩ヲ蒙リ、死ヲ以テ君恩ニ報ント存レ共、

是ノ度ノ戦ハ縦ヘ一旦利ヲ得ル共、後ノ利運トハ成難シ、

臣今軍陣ノ中ニ入リ、生テ再ビ歸ラズ。

然レバ今君ノ尊顔ヲ拝スルモ現世ノ御名残ニ候

 「声涙ともに下る」というのは、こういうシーンを表現する言葉だと思わないではいられません。
 知将統幸には、最初から見えていた結果だったでしょう。

 「結果を出してこそプロ」という人もいます。確かにそうかもしれません。でも、望ましい結果が得られないことがわかっていても、プロとしての仕事をやり遂げないではいられないのがプロというのもまた、一面の真理と思えるのです。

 「無双の槍使い」として「忠義の士」として、まさに本物の侍(プロフェッショナル)であった統幸の最期を知り、こんな関係のないことを考えてしまいました。

 下の写真は別府市観海寺、杉乃井ホテルに上る坂の途中にある吉弘統幸陣所跡です。


(注)この戦いで軍事的統制のなさを露呈し、その結果角隈石宗、佐伯惟教らの有力武将を失った大友家は、以後没落への一途を辿ることになりました。


<参考サイト>
大友氏の終焉・石垣原の戦い
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/ishigaki/ishigaki.html

2013年9月23日月曜日

落日の大友家を彩ったスターたち

 戦国シミュレーションゲーム「信長の野望」をやったことのある方なら、わかっていただけると思うのですが…。
 このゲームで、プレイする戦国大名を「大友義鑑あるいはその息子の義鎮(のちの宗麟)にする」というのは、比較的天下を狙いやすいチョイスと言えるのではないでしょうか。

 何しろ、北部九州の数か国を領し、自らも能力値が高いうえ、軍事面では戸次鑑連(立花道雪)、吉弘鑑理、内政面では臼杵鑑速、吉岡長増ら有能な部下に恵まれています。周辺諸国にさほど強大な敵がいない点も大きなアドバンテージです。

 しかしながら、現実の大友宗麟は、相次ぐ家臣の叛乱への対応に追われ、天下を狙うどころではありませんでした。
 気がつけば強大化した南の島津、北の毛利に圧迫され、秀吉の助けを借りてようやく豊後一国を安堵される始末。後継者に恵まれなかった(息子の大友義統は将器ではなかったと言われます)こともあって、宗麟の死から6年後、大友氏は義統の文禄の役における敵前逃亡を理由に改易され、とうとう本領であった豊後からも追われてしまいました。
 しかし、耳川の合戦以来、没落の一途をたどった大友家も、そこは名門企業、数々のスターを輩出しています。

 その代表と言えるのが、居城・栂牟礼城(とがむれじょう、現佐伯市)に攻め寄せた島津家久の軍を堅田合戦に代表されるゲリラ戦で撃退した佐伯惟定(さいきこれさだ)、居城・岡城(おかじょう、現竹田市)に立て籠もって島津義弘率いる大軍をわずかな兵力で何度も撃退した志賀親次(しがちかつぐ)、豊後三老のひとり吉弘鑑理の孫で、朝鮮での活躍により豊臣秀吉から朱柄の槍を遣わされた槍の名手、吉弘統幸(よしひろむねゆき)らでしょう。

 当時すでに全国的な知名度をもつスター武将であった彼らは、会社(大友家)が潰れても職にあぶれる心配はありませんでした。多くの大名が競って高禄で召し抱えようとしたからです。輝かしい戦歴をもつ剛勇の士を家来に持つことは、大名たちにとって実益を兼ねたステイタスシンボルだったのです。

 大友氏改易後の彼らの消息については諸説ありますが、佐伯惟定は藤堂高虎に仕え、幾度も加増されてついには4,500石を得たようです。志賀親次は、他主に仕えることを潔しとせず隠遁したとも、豊臣秀吉や細川忠興らに仕えたとも言われます。そして吉弘統幸は、三人の中でもっとも悲劇的な最期を遂げました。

 次回は、そんな統幸の最期にまつわる史跡を採り上げます。




<参考サイト>
市報おおいた「大友宗麟の実像」
http://www.city.oita.oita.jp/www/contents/1363338481774/index.html




2013年9月17日火曜日

真田広之に学ぶ「口出しの仕方」

 現在、劇場公開中のアメリカ映画「ウルヴァリン:SAMURAI」(ジェームズ・マンゴールド監督)に重要な役どころで出演されている俳優の真田広之さんは、その制作過程で、煙たがられることは覚悟の上で、撮影スタッフに殺陣や時代考証について、思ったことをどんどん口出ししたそうです。

 もちろん映画「ラストサムライ」での実績あってこそのことでしょうが、「いい映画にしたい」「日本の描写を珍妙なものにしたくない」という彼の熱意はスタッフに伝わり、ついには事前に衣装やセットの図面を見せられ、意見を求められるようにもなったとのことです。

 テレビでのインタビューによれば、撮影中次のようなやりとりもあった由。

 スタッフ 「(剣術の)道場のセットの図面だ。おかしいところがあったら指摘して欲しい。」
 真田 「床に貼ってある格子状のものは何かな?」
 スタッフ 「ああ、それはタタミシートだ。」
 真田 「(そりゃ柔道だよ、と思いつつ)タタミはダークな色合いのフローリングに代えてくれ。」

 彼の話で印象に残ったことがふたつありました(一言一句正確ではありません)。

 ひとつは「口出しの仕方」について。

 『他人の作品や持ち場に口出しすることは、重大な越権行為で、本来は許されないことです。でも、言い方さえ間違えなければ、相当なところまで受け入れてもらえると感じています。』

 もうひとつは「助言者が持つべき視点」について。

 『専門家だと『これはあり得ません』で終わりになってしまう。映画作りの事情、ハリウッドの人たちのイメージも尊重して折衷案を提示できる人間が実はいないんです。』

 よりよい実践に貢献するという助言の目的を達するためには、相手に受け入れられなければいけません。ならば、相手が助言を受け入れやすくする工夫は不可欠です(その工夫とは、相手に恥をかかせたり、徹底的にやりこめたりすることでは決してないでしょう)。

 また、現時点で実行困難な理想論を説いても、よりよい実践につながることはまずありません。お料理に例えれば、帝国ホテルのレシピを完璧に伝授されるより、いま冷蔵庫にある材料で(その人が作れる)なるべく旨いメニューを教えてくれるほうが、よほど有難いわけです。

 かくいう私自身の助言が、はたして十分これら二点を踏まえたものになっているだろうかと考えると、はなはだ疑問。
 今日は、思わぬところで反省の機会を得ることになりました。


<参考サイト>
真田広之だから「ハリウッド」口出しOK
http://news.goo.ne.jp/article/nikkangeinou/entertainment/p-et-tp0-130906-0009.html




2013年9月12日木曜日

借地借家法第10条第2項の重み

 最近、借地借家法第10条第2項(借地権の対抗力等)という条項の重みについて考えさせられる案件がありました。

借地借家法第10条は次のようにいっています。

1  借地権は、その登記がなくても、土地の上に借地権者が登記されている建物を所有するときは、これをもって第三者に対抗することができる。

2  前項の場合において、建物の滅失があっても、借地権者が、その建物を特定するために必要な事項、その滅失があった日及び建物を新たに築造する旨を土地の上の見やすい場所に掲示するときは、借地権は、なお同項の効力を有する。ただし、建物の滅失があった日から二年を経過した後にあっては、その前に建物を新たに築造し、かつ、その建物につき登記した場合に限る。

 同条1項により借地権者は、借地権そのものについては登記をしていなくても、借地上に所有する建物について登記を有する場合には、未登記借地権について「対抗力」が認められることになります。

 しかしこの場合、もし借地期間中に建物が滅失したときは、建物滅失以前に目的土地に権利を取得した第三者には従来どおり借地権を対抗できるものの、建物滅失後目的土地に物権や土地賃借権を得た第三者には借地権を対抗することができないことになってしまいます。

 そこで同法は、かかる場合に借地権者を救済するため、同条2項を置いて、一定の要件を満たせば、建物が滅失したときでもなお、対抗要件が維持されることとしたわけです。

 「滅失」には、自然災害によるものも、人為的なものも含むとされています(澤野後掲268ページ、根拠は示されていません)。だとすれば、朽廃目前の借地権付建物といえども、潜在的には再築により新築の借地権付建物に変身する可能性を持っていることになります。
  
 このように、同条2項の経済的インパクトは極めて大きいのですが、新法(借地借家法)における新設規定であることや、借地権慣行の未成熟な地で業務を営んでいる関係上、情報量が少ないことに困惑させられているのが実情です。

 とまれ、同項をめぐる不動産鑑定評価上の論点は、これがもたらすロス(経済的損失リスク)とベネフィット(経済的利益)をどう定量化するかということでしょう。すなわち、ロスとベネフィットは表裏一体であるものの、保守的観点からは、底地所有者の不利益を、借地権者の将来利益よりも大きくみることが妥当ではないかと思っています。

 上記の通り、私はまだ借地借家法第10条第2項について知見らしきものをほとんど持っていません。そこで、現実の法現象としてどのようなことが起こっているか等、何かご教示をいただけるきっかけになればと思い、投稿した次第です。

参考図書
澤野順彦編 『実務解説借地借家法』 青林書院 2008
稲本洋之助・澤野順彦編 『コンメンタール借地借家法第3版』 日本評論社 2010










2013年9月9日月曜日

プレゼンテーションの本質~言語版「北風と太陽」

 9月8日早朝(日本時間)、2020年の第32回夏季五輪・パラリンピック大会の開催都市が東京に決定しました。その興奮はいまだ冷めやらぬ趣きで、テレビはオリンピック関連の話題で持ちきりです。

 本日の「ひるおび! (TBS)では、招致成功のキーポイントとなった最終プレゼンテーションを取り上げていました。

 高円宮妃久子さまの後をうけた最終プレゼンテーションのトップバッターは、走り幅跳びでパラリンピック3度出場の佐藤真海(さとうまみ)さんでした。

 明るく快活だけど、それでいてやわらかな調子でスピーチを始めた彼女は、事故で脚を失ったくだりではやや声を落とすなど、ともすれば「元気だけど単調」になりがちなこの種のスピーチを感情豊かだけど自然に表現し、見事に「自分を救ったスポーツの力」を訴えることに成功していました。

 これをテクニックの勝利とか、プロによる入念なコーチングの成果とか言うのは、間違いにないにせよ、どこか本質を突いていない気がします。

 「ひるおび!」のコメンテータたちも口々に彼女のスピーチを称えていましたが、その中でもっとも「佐藤真海のスピーチのよさ」を的確に言い表したのは、三雲孝江さんの大要次のようなコメントだろうと思いました。

 『もし彼女がもっと強い調子で自らの主張を訴えていたとしたなら、彼女が持つ明るくやわらかなムードが生かされず、説得力が削がれていただろう』

 かつて丸谷才一は、文章の本質を達意自分の考えが十分に相手に理解されるように表現すること)であると指摘しました。

 プレゼンテーションも同じでしょう。スピーカーが自分の言いたいことをありったけまくし立てて、相手に伝わるはずがないのです。

 聴き手のもつ共感能力を刺激するのは、朗々たる大きな声でも、大言壮語でも、美辞麗句でもありません。

 では、何が聴き手の共感能力を刺激するのか。
 それは、スピーカーが自分自身とテーマとの関わりを「もっとも自分らしく」表現することです。佐藤真海さんがしたように。
 聴き手は、自分の身におきかえて考えざるを得なくなります。そこにこそ共感が生まれますし、強く印象に残ります(感極まって絶句したスピーカーって印象に残るではありませんか)。

 IOCロゲ会長がスピーチを終えた佐藤真海さんに囁いたほめ言葉もまさに「インプレッシブ」だったとのことです。


<参考サイト>
秘策!佐藤真海プレゼンが五輪引き寄せた






2013年9月7日土曜日

先生と呼ばれるほどの…

 「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という言葉があります。

  「先生」と呼ばれて得意となっている者を嗤う一方で、むやみに人のことを先生呼ばわりする風潮を皮肉っているのでしょう。

 「先生」というのは便利な言葉なので気軽に使われますが、特段敬意が込められているわけではないように思います。むしろ馬鹿にされていることすらある(明らかにバカにしているとき雑誌などでは「センセイ」とカタカナで書きますね)。

 士業のはしくれである私自身も 「先生」と呼ばれることがあります。一部の業界には、士業は一応センセイと呼んでおけ、というコンセンサスがあるようです。自分たち自身でも互いを先生呼ばわりしている士業の人たちもいます。

 士業はみなセンセイならば、一級建築士も土地家屋調査士もセンセイだろうと思い、そう呼んでみると、彼らはたいがい困った顔をして「その呼び方、やめてくれない?」と言うことが多いです。
 彼らのこの感覚は、きわめて正常だと思いました。同時に、自分がセンセイと呼ばれることに少なからず疑問を抱くようになりました。

 一級建築士の人たちの気持ちを忖度すると、一級建築士という資格者の中でも、建築家として名を成した人たちだけが先生だ、ということなのかもしれません。

 センセイと呼ばれて良かったこともないわけではありません。某行政機関のA課長は非常に仕事の出来る方で、ご在任中たいへんお世話になったのですが、彼はケースによって呼び方が変わるのです。普段は「長野さん」と呼んでくださるのですが、何か頼みがあるときは「長野先生」。彼から「長野先生、近々少しお時間を頂戴したい。」といわれると「ははあ、込み入った案件だな」と前もって心の準備ができたものです。

 閑話休題(ってイヤな言い方ですね、ぜんぶ閑話なのに)。「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」とはよく言ったものだと思うのは、それが呼ばれた側のためになっていないと感じるからです。先生と持ち上げられたことで慢心する人もいるし、逆に先生と呼ばれたために偉い人間を演じようとする人もいます。

 セミナーや講演で偉そうに振る舞う講師は少なくない(注1)ですが、彼らとて「講師は先生だから偉くあらねばならない」というドグマに囚われた犠牲者という一面もあります。

 彼らがいかに偉そうに振る舞おうが、他者より高い視点を持ち得ていない者が垂れるべき高説などこの世にないことは、水が高きから低きに流れるがごとく当たり前のことです。

 先生なんて呼ばれてていいのかと思いつつ、面と向かって「私を先生と呼ばないで」とはなかなか言い出せないでいました。言われた方は困惑するかもしれないし、いい気持ちがしないかもしれません。「せっかくセンセイと呼んでやってるのにグズグズ言うな」と思われるやもしれません(注2)。

 なので、ここに書きます。

 私は、ほんとうはセンセイと呼ばれるより「長野さん」と言われるほうが嬉しいです。その方がしっくりくる。ちなみにプライベートでは「けんちゃん」「研さん」と呼んでくれる人もいます(後者はなんだか高倉健みたいで恥ずかしいですが…)。街で見かけたら、そう呼んでくださっても結構です(注3)。

 どうぞよろしく…。




(注1)さりとて「私はこんなところでしゃべる資格はないのに主催者がぜひにと…」などと言い訳を述べるのも受講者に失礼です。講師が銘記すべきは、セミナーの目的、すなわち受講生にどんな行動を起こしてもらいたいか、に資することのみのはずです。世間はセミナー花盛りで「受講生に前向きな気持ちになってもらいたい」という目的のセミナーも少なからず見受けられますが、そんな「勉強する振り」に時間を割くくらいなら、綾小路きみまろの独演会にでも行った方がずっと元気になれること請け合いです。

(注2)実際には、こんなガラの悪い方は私のお知り合いにいません。

(注3)柳家喬太郎師匠だって高座の枕で「街で見かけたらキョンキョン、って呼んで♥」って言うじゃありませんか。

2013年9月4日水曜日

合元寺の赤壁(中津市寺町)

 いまやカーアイランド九州屈指の自動車工業集積地となった大分県中津市は、来年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で盛り上がっており、まちのいたるところに『黒田官兵衛孝高』の幟が立っています。

 天正15年(1587年)九州を平定した豊臣秀吉は、側近の黒田孝高を豊前中津12万石に封じました。すぐれた軍略家である孝高を九州の抑えとする意図もあったでしょうが、あまりに頭の切れる彼を恐れた秀吉が中央から遠ざけたともいわれます。

 孝高が築いたとされる中津城は、中津川河口にいまも三角形の遺構を残しています。福沢通りを挟んでその南東方の寺町界隈は、城下町の風情が感じられる散策路が整備され、格好の観光スポットとなっています。今日は、その中ほどにある合元寺(ごうがんじ)を訪れました。


 じつは、このお寺には、中津城、黒田孝高あるいはその息子の黒田長政を語る時、決して触れないわけにはいかない「いきさつ」があるのです。

 中津城主となった孝高には、目の上のたんこぶともいえる人物がいました。豊前守護職の家柄で代々当地に勢力を張る城井谷城主の宇都宮鎮房(「信長の野望」では城井鎮房の名で登場します)です。
 秀吉が命じた伊予国への移封を鎮房が拒否したことから、事態は深刻化し、ついには鎮房が城井谷城に立てこもるまでになりました。
 孝高の息子長政は、城井谷城を攻撃しますが、なにぶん天然の要害であり、度々戦上手の鎮房に翻弄されます。

 最終的には和議を受け入れて中津城に赴いた鎮房でしたが、城内で謀殺され、合元寺にとどめ置かれた家来たちも皆殺しされたということです。

 合元寺境内の案内板には次のような記述があります。

 天正17年4月孝高が前領主宇都宮鎮房を謀略結婚により中津城内に誘致したときその従臣らが中津城を脱出してこの寺を拠点として奮戦し最後をとげた。
 以来門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになった。当時の激戦の様子は現在も境内の大黒柱に刀の痕が点々と残されている。


 作家の井沢元彦さんは、『日本の歴史を理解するキーは、ケガレ思想と怨霊信仰だ』と述べ、その文脈で『神社の造営の中心人物を特定すれば、事件の黒幕が分かる』という趣旨の発言をしています。
 要するに『太宰府天満宮を建てた人が、菅原道真追放の張本人だ』というようなことです。ちなみに、宇都宮鎮房を祀る城井(きい)神社を建てたのは、黒田孝高(官兵衛)でした。

 しかし、本当はどうなのでしょう?以下は私の勝手な憶測です。

 秀吉に肥後54万国を与えられた佐々成政は、国人一揆がおこった責任を問われ切腹を命じられました。秀吉が鎮房に対して飽くまで強硬であったのは、じつは孝高を難しい立場に追い込み、ついには失政の責任を問うための策略であったとしたら…。





2013年8月31日土曜日

長宗我部信親終焉の地(大分市大字上戸次)

 大分市最南端、上戸次地区の大野川右岸には、大分市と県南諸地域を結ぶ大動脈である国道10号が走っています。
 クルマの流れも早いので見逃しやすいのですが(大分市方面から南下する際に)左手を注意してみると「長宗我部信親終焉の地 御供七百余人」という碑が建っています。


 じつはこの地こそ、四国の雄・長宗我部元親の生涯を描いた司馬遼太郎の佳作『夏草の賦』終盤のクライマックスの舞台なのでした。

 天正14年(1586年)、島津勢の豊後侵攻に際し、大友宗麟の救援要請をうけた天下人豊臣秀吉は、九州平定のための大軍を発します。いわゆる九州征伐です。

 その先遣部隊として急派されたのが、長宗我部元親・十河存保・仙石秀久の各部隊を基幹とする四国連合軍でした。落城の危機に立たされた鶴賀城(大分市上戸次)救援のため、豊後府内から南下してきた彼らは、ここで島津家久率いる島津勢と激突することになります(戸次川の戦い)。

 劣勢であったため、元親は慎重論を説きますが、軍監仙石秀久(人気マンガ「センゴク」の主人公です)は、戸次川の渡河を強く主張し、結局元親らもこれに従わざるを得ませんでした。
 大軍を野に伏せて待ち構えていた島津勢は、川を渡り切るのをみはからって急襲、虚を衝かれた秀久が敗走したため、元親率いる土佐勢は大混乱となります。

 三隊からなる土佐勢のうち一隊を率いていた元親の長男・信親は、当時数えの二十二歳。長身白皙の英明な美青年で、武勇は家中随一、性格は温和で、部下や領民を非常に大切にしたため、周囲から深く敬愛されていました。

 元親は、この自慢の息子に惜しみなく愛情を注ぎ、かつ後継者として大いに期待を寄せていました。信親の英明ぶりは隣国まできこえ、元親と敵対していた土豪たちも「あのような優秀な後継者を擁する長宗我部に歯向かっても先がない」と、元親の軍門に下ったとまで言われます。

 さて、話を戸次川の戦いに戻しましょう。
 信親は奮戦しますが、敵の大軍の中に孤立したことを悟り、ここを死地と定めます。このとき信親麾下七百名余りの土佐兵は、口々に「御供」と叫んで信親と運命を共にしたそうです(このエピソードはNHK歴史秘話ヒストリアにも取り上げられました)。


 この戦いの死傷者数は、当時としても類例をみないほど多数に上ったようです。それは島津勢の精強ぶり、仙石秀久の失策の反映であるとともに、信親がいかに部下たちに慕われていたか、土佐兵のメンタリティがどのようなものであったかを物語るものとも言えそうです。

 下の写真は、当地の北東方の丘陵にある信親の墓。合戦当日に当たる12月12日には毎年慰霊祭が行われます。この地の人々は、遠く四国から豊後を守るためにやってきて、ここで命を落とした未来ある若者と、それに殉じた人たちのことをいまも忘れていません。



<参考サイト>

歴史秘話ヒストリア 美しき武将 戦国アニキの秘密~長宗我部元親 信長・秀吉と戦う~
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/159.html


戸次川合戦
http://www.oct-net.ne.jp/~faulen13/ktsp/hetugi.html













2013年8月25日日曜日

企業と就職希望者の「ご縁」

 企業の採用担当者が、応募してきた学生にお断りの連絡をいれる時、しばしば「今回はご縁が無かった」という表現を用います。

 私はこの、ご縁が無かった、という言い方が好きです。
 なぜなら、採用の成否というのはまさに両者の相性の問題であって、どちらかが振った振られた、というものではないと思うからです。

 長い就職氷河期は、企業側が一方的に学生を選ぶかのような風潮を生んだきらいがありますが、それは錯覚です。

 以前NHK教育テレビで放送されていた「地頭クイズ・ソクラテスの人事」は見ていて不快でした。
 この番組は、企業の人事担当者が出演し、解答者の中から誰を採用したいかを判定するものでしたが、いかにバラエティ番組とはいえ、「企業もまた学生から値踏みされているのだ」という視点を没却しているように感じたからです。

 採用の場面だけではありません。モノやサービスの供給者と需要者の関係も、一方的に需要者が選ぶものではなく、両者は本来対等に結びつくものです。
 業界によって(業者によって)違いはあるようですが、専ら選ばれるだけの供給者というのはある意味不健全ではないでしょうか。悪いのは選んだ側で、選ばれた自分はしようがなかった、自分はニーズに応えただけだ、という言い訳めいたムードをつねにまとっている感じがするのです。

 閑話休題(すべてが閑話かも知れませんが)。以前、信頼できる国際派のビジネスパースンに『採用に当たって、選考のポイントにしているのはどのようなことですか?』とお尋ねしたとき、返ってきた答えは次のようでした。

『知識には期待していないけれど、ある状況にどう対処するかを、これまでの知識を総動員して一生懸命考える人。そんな人を僕らの仲間として迎えたい。』

 その答えに、採用担当者を一方的な高みにおいて無いものねだりをするのでない、応募者と対等なスタンスを感じ、爽やかな気持ちにさせられたことを思い出します。








2013年8月23日金曜日

読書で出会う理想のリーダー像(その2)

 読書で出会う理想のリーダー像、二人目は、プロ野球史に残る名監督・三原脩です。

 水原茂、上田利治、広岡達郎、森祇晶。「知将」と呼ばれた名監督は何人もいますが、「魔術師」と呼ばれたのは、この三原をおいて他にいません。

 その彼の輝かしい球歴のなかでも、ひときわ光を放っているのが、九州の野武士軍団・西鉄ライオンズを率いて三年連続日本一に輝いた昭和31~33年と、6年連続セ・リーグ最下位に甘んじていた大洋ホエールズをいきなり日本一に押し上げた昭和35年の采配ぶりでしょう。

 後者のてんまつを関係者の証言をもとに再現したスポーツノンフィクションライター富永俊治の力作・『三原脩の昭和三十五年―「超二流」たちが放ったいちど限りの閃光』(宝島社)を書店で見つけたのは、ちょうど横浜ベイスターズが38年ぶりのリーグ優勝に向けて快進撃を続けていた頃だったと記憶しています。

 ところで、いま世間には「経験を活かす」と言いつつ、ある特定のケースでの成功体験を一般的に適用しようとする風潮がありますが、ほんとうに経験豊かなプロフェッショナル達は、じつに融通無碍に事を運びます

 大洋ホエールズに乗り込んだ三原もそうでした。ひとりひとりの選手たちにそれぞれ違ったやり方で接し、彼らに染み付いた「負け犬根性」を正すとともに、いまひとつパッとしない二流選手たちを「超二流選手」へと変えていきます。
 超二流選手とは三原の造語で、一流とは言えないけれど、(三原の示唆によって)自らの持ち味と持ち場を理解した選手たちのこと。三原は、不遇な二流選手たちを絶妙な起用で超二流選手に変身させ、ひいてはチームを変えていきました。

 権藤正利は、かつて新人王に輝いたほどの好投手でしたが、持病の胃下垂からくるスタミナ不足もあって勝ち星を挙げられず、このころには自信喪失から引退を決意していました。三原の説得で引退を思いとどまったこの年、彼はリリーフに転向し、防御率1.42の好成績を挙げました。

 王貞治が最も苦手とした投手として知られるサウスポー鈴木隆は、個性的過ぎてチームから浮き上がるきらいもある”ジャジャ馬”でした。三原は彼の侠気に訴え、当時は二線級の役割とされたリリーフに転向させます。最初は反発した鈴木でしたが、やがて自らの役割を理解するようになりました。誰よりも強気でここ一番に頼りがいのある鈴木がリリーフにまわったことで、大洋は俄然接戦に強くなっていきます。

 秋山登は、最下位チーム大洋にあって「掃き溜めに鶴」のようなリーグ屈指の好投手でしたが、味方の貧打・拙守に泣かされ続けるうち、ある意味目標を失い、一時の精彩を欠いていました。
 しかしこの年、快進撃の立役者となった彼は、シーズンMVPを獲得、日本シリーズでも4連投で日本一に貢献しました。(気がつけば投手ばかり例に引いてしまいました。申し訳ありません。)

 西鉄時代の三原にはこんな話もあります。こちらは、豊田泰光『風雲録―西鉄ライオンズの栄光と終末』(葦書房)から。

 昭和31年の日本シリーズに臨んだ西鉄ライオンズの選手たちは、「監督を男にするんだ」と鼻息荒かったといいます。巨人を追われて九州にきた三原の悔しかった身の上を知っていたからです。

 そんなガチガチに緊張した若い選手たちを前にして、並みのマネジャーなら「リラックスしていこう」と声を掛けるのかもしれませんが、魔術師はそんなことは言いません。彼はこう言いました。

『巨人は日本でいちばんいいチームだ。そして、強い。だから今日は勝たなくていい。ただ、よおく見ておきなさい。』

 力が抜けた豊田らは(三原の言いつけどおりなのか)初戦こそ落としましたが、二戦目以降は本来の実力を発揮し、見事日本一を手にしたということです。


<参考サイト>
これぞ三原マジック!大洋 最下位からの初優勝!!

2013年8月19日月曜日

読書で出会う理想のリーダー像(その1)

 前回は『リーダーは優れた人間でなくてはならないか』と題して、リーダーシップに関する話題をとりあげました。

 言わんとしたのは、今日的な理想のリーダーは「ひそかなリーダーシップでメンバーのリーダーシップを喚起する」人物なのではないかということです。

 しかし書物をひもとくと、かかる人物は昔からいたのだということがわかります。
 たとえば中国戦国時代の代表的兵法家である孫臏が著した『孫臏兵法』。孫臏は『孫子』の作者孫武の子孫で、斉の軍師としてその辣腕を天下に知られた人物です。

 以下は、その孫臏のエピソードです。

 魏恵王が邯鄲を攻めようと、将軍龐涓に命じて8万の兵を茬丘に進めさせたときのこと。斉威王は将軍田忌に迎撃を命じたが地の利は明らかに敵方にあった。

 田忌はすぐさま攻撃を受けている衛を救おうとするが、孫臏はこれを制止した。「衛を救わずにどうするのか」と問う田忌に、孫臏は「南下して平陵をお攻めください」。斉軍は進軍して平陵に急行した。

 孫臏は「参軍している将軍たちの中で、無能な者は誰でしょうか」と問うた。 田忌は「斉城と高唐であろう」と答えた。孫臏は「斉城と高唐に敵を攻めさせてください」と言った。
 斉城と高唐が平陵に攻め寄せると、魏軍はたちまちその背後に迂回してこれを挟撃したため、斉軍は大敗、斉城と高唐は戦死した。

 田忌は孫臏に「平陵は攻め取ることもできず、斉城と高唐は敵に破られた。どうしたらよかろう」と言った。孫臏は「どうか身軽な兵車部隊を作り、 大敗の腹いせに大梁で略奪行為を働いているよう見せかけ、敵を激怒させましょう。さらに軍を分散して進軍させ、寡兵であると見せかけましょう」と答えた。

 こうした斉軍のありさまを見て、敵将龐涓は輜重を捨てて昼夜兼行でかけつけてきた。斉軍は愚かで士気も低く、戦力は低下している。まさに勝機とみたのである。

 しかし、斉軍が繰り返した数々の拙攻は、魏軍に自ら地の利を捨てさせるためのワナだった。満を持した斉軍はついに強行軍に疲れ切った魏軍を桂陵でさんざんに打ち負かし、龐涓を捕えた。

 このエピソードに感嘆したのは、じつは孫臏の知略縦横ぶりゆえではありません。田忌将軍の器の大きさというか、忍耐と揺るがない姿勢に心を打たれたのです。

 田忌将軍と孫臏のやりとりは、まるでドラマ「相棒」における杉下警部と神戸くん(または甲斐くん)の関係のようではありませんか?田忌将軍のほうがはるかに目上なのに。しかも、孫臏は献策の真意を田忌将軍に伝えようとはしていません。

杉下警部 『これで事件の全貌がわかりました。』
神戸くん 『どうわかったんでしょう?』
杉下警部 『きみにもすぐわかります。』
神戸くん 『いま教えてくれないんだ。(独白)』 というような感じ。

 それでも年の功か、田忌将軍は素直に孫臏の献策を受け入れ続けました。田忌という優れた上司がいなければ、斉の勝利も、孫臏の名が天下に轟くこともなかったというべきでしょう。


なお、上記エピソードは、以下のサイトの記事を参考に再構成したものです。

   孫臏兵法  http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/book24.html



2013年8月16日金曜日

リーダーは優れた人間でなくてはならないか

 組織ときくと、ついピラミッド型の組織構造を連想し、リーダーときくとその頂点に立つ実力者を連想しませんか。

 しかしながら「リーダーは組織の中でいちばん優れた人間でなくてはならない」と考えるリーダーが率いる組織のパフォーマンスは、そのリーダーの力量に制約されます。

 なぜなら、そのリーダーは、「優れているはずの」自分の理解の及ばない意見具申を採り上げるわけにはいかないし、自分以外のメンバーが指導的立場に立つことも許容できなくなるからです。リーダーの姿勢は自然と、組織のパフォーマンスを最大化することより、自分が主導権を握ることに重きを置きがちになります(しかも残念なことに、リーダーが組織の中で最も優れた人間である保証はまったくないのです)

 そもそも本来のリーダーの使命は、ゴール(目的・到達点)を明らかにし、組織構成員の持ち味をつかみ、貢献意欲を引き出し、その貢献を無駄なく組み合わせてゴールを目指すことです。
 ゆえに、リーダーはつねに「目的は何か」に照らして発言し、行動する(ときにはむしろ自制することも大切でしょう)よう心掛けなくてはなりません。かかるリーダーの役割が全うされれば、組織のパフォーマンスは自ずとリーダーの力量以上になるはずです。

 川村 尚也『「王様のレストラン」の経営学入門―人が成長する組織のつくりかた』(扶桑社 1996)は、フジテレビの人気ドラマを題材に「クリエイティブなチームを作るにはどうすればよいか」を論じた興味深い本でした。
 本書が提示した組織のビジョンは「素晴らしい能力を持ったリーダーはいらない。チームメンバー個々が状況に応じてそれぞれの特性を活かしてリーダーシップをとれるようになっていく。」というもの。
 つまり「リーダーシップを発揮する人物」は組織にとって不可欠ですが、「リーダーという肩書の人物」は必要ないわけです。

 逆説的ですが「リーダーの経験能力はさほどでもないのにパフォーマンスが高い」組織のリーダーこそ、本当は優れたリーダーなのかもしれませんね。




2013年8月15日木曜日

戦争詩を愛でてはいけないのですか

 きょうは終戦の日。前々回、前回に続き、もうひとつだけ太平洋戦争の話題をとりあげます。

二つなき祖国のためと

二つなき命のみかは

妻も子も親族(うから)も捨てて

出でましし彼の兵の

徴ばかりの御骨は還り給ひぬ

 三好達治の詩「おんたまを故山に迎ふ」の一節です。

 この詩を知ったのは、TBSが1997年に放送したドラマ『向田邦子終戦特別企画「蛍の宿」』がきっかけでした。

 航空隊基地のある町で遊廓を営むすず子(岸惠子)を母のように慕う航空隊士官・稲垣(椎名桔平)が好きだった詩、という設定でした。一貫して空襲の場面も特攻の場面も出てきませんが、戦争を描いて人のこころをうつのにそれは必要ないことを見事に証明したドラマでした。終盤、ナレーター黒柳徹子の語りが涙声になったことをいまでも鮮明に覚えています。

 この詩の作者である三好達治は、その旺盛な創作活動の割には、詩人として評価されていない印象を受けます。それは戦時中、多くの戦争詩をつくって「戦争に協力した」ことが大きく作用しているのだと思います。

 当時、多くの文学者や芸術家が創作活動や戦地報道・慰問などさまざまな形で戦争に協力しました。残された戦争絵画や音楽には素晴らしいものも少なくありません。
 しかしながら、現在に至るも、それらに光があてられることは少なく、とりあげられる場合も否定的なニュアンスであることがほとんどです。
 その背景には、大東亜戦争はあってはならない戦争だったのだから、その戦争に協力したものは罪人であり、戦争協力的な色彩を帯びた文学や音楽には積極的な評価を与えてはならない、という無言の合意があるのでしょう。

 芸術家の戦争協力を批判的にとりあげた図書としてまっさきに思い浮かぶのは森脇佐喜子「山田耕筰さん、あなたたちに戦争責任はないのですか」(梨の木舎1994)です。たしか、恵泉女学園大学の学生であった彼女の卒業論文をベースにした著書だったと記憶しています。

 内容に惹かれ一読しましたが、山田の戦争協力の経緯を史料に基づいて丹念に追っており、「大学生の卒業論文としてはまさに出色の出来栄え」でした。しかし、私の記憶の限りでは、本書のどこにも「戦争責任とは何か」についての突っ込んだ記述はなかったと思います。

 わたしは常々、現在の「護憲」「改憲」「脱原発」「教育再生」といった活動に積極的に取り組まれている方々に対し、主張の違いを超えて敬意を表したいと思っていますが、彼ら「率先者」もいつか「何もしなかった人たち」や「たんなる追従者たち」に断罪される日が来るのかもしれません。

<参考サイト>

評価されない偉人、山田耕筰

 http://www.tsurukame.com/hall/critique9608.html










2013年8月13日火曜日

大洲総合運動公園の石碑のはなし

前回に続き、太平洋戦争にちなんだ話題をとりあげます。今回は、私の住む大分市にちなんだ話題です。

大分市の大洲総合運動公園は、旧大分空港跡地を公園として整備したもので、敷地内には野球場・プール・体育館などが配置されています。その中ほど、テニスコートとバレーコートに挟まれた庭園の南端に、小さな石碑があることに気付くはずです。


表には「神風特別攻撃隊発進之地」の文字。裏には「昭和二十年八月十五日午後四時三十分 太平洋戦争最後の特別攻撃隊はこの地より出撃せり その時沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名 左の如し…」として18人の名が刻まれています。

 つまり彼らは、玉音放送を聞いたのち出撃していったわけで、それゆえ後年さまざまな批判や疑問が投げかけられることになりました。曰く、搭乗員は終戦を知らされていなかったのではないか…などと。
まず、ひととおりこの事件(以下、「宇垣特攻」といいます)の一般的な説明をすれば、次の通りです。

終戦当時、南九州方面の特攻迎撃を担当していた第五航空艦隊(基地航空部隊)は、司令部を大分海軍航空隊(現在の大分市津留・大洲地区)に置いていました。
第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏中将は、昭和二十年八月十五日、玉音放送の後、彗星艦上爆撃機11機とその搭乗員を道連れに特攻自決をしたといわれています。これが宇垣特攻の概略です。

 この特攻自決をテーマにした著作としては、松下竜一『私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち』、城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』が知られています。両著作の記述のニュアンスの違いもまた興味深いものです。

松下竜一『私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち』城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』


 なお、以下の関連サイトには、この事件についてのさまざまな解説・分析などが掲げられており、興味がつきません。

鳥飼行博研究室・宇垣纒司令官による最後の特攻

 →関係者のコメントや写真で事件の全容をわかりやすく解説しておられます。これを読むと、遺族を含む関係者らが事件をどう受け止めたのかまでわかります。

老兵の繰り言・「私兵特攻」に疑問

 →松下の著書『私兵特攻』を名著と認めたうえで、本書の記述に即して「宇垣特攻はじつは八月十六日だったのではないか。そう考えると不可解な点のつじつまが合う。」と問題提起をされています。きわめて説得力に富む記述です。



2013年8月11日日曜日

”犬死”はさせない~撃墜王と中攻のエピソード

 八月は、私たち日本人にとって、過去を振り返り、亡くなった人に思いを馳せる月。

 ブログの主旨からは逸脱しますが、今月は太平洋戦争にちなんだ話題をとりあげたいと思います(もうずいぶん前から「不動産鑑定士の隣接周辺業務」というメインテーマから離れっぱなしという気もしますが…)。

 坂井三郎といえば、64機撃墜の記録を持つ零戦のエースパイロット。著書『大空のサムライ』の原著である『坂井三郎空戦記録』は、『SAMURAI』のタイトルで英訳され、海外でもベストセラーになったと聞き及びます。
 欧米人が零戦に対して抱く「東洋の神秘」めいたイメージは、ことによると彼の著書の影響に負うところが大きいのかもしれません。

 以下に、彼の著書の中でも、最も私の印象に残った逸話について、その要旨を掲げます。出典は坂井三郎著『続・大空のサムライ』(光人社)です。


 坂井たちは、ラバウルにきてまもなく、ある噂を耳にした。その噂というのは、中攻隊に新たに配属された一機は、一時敵(土民軍)の捕虜になった経緯があり、それで上層部から「早く自爆させよ」という指令が出ている、というものであった。
 彼らはいつも、最も敵に狙われやすい編隊の右最後尾を与えられ、宿舎でも暗い表情で他の隊員たちに遠慮しているというのである。

 憤りを感じた坂井は、相棒である二番機の本田敏秋二飛曹に告げた。
「そんな馬鹿なことがあってなるものか。命をかけた俺たちの戦友、仲間ではないか。零戦隊の意地にかけても、この一機は守り通すぞ。」「指揮官機を落とされようとも、あの機だけは何としても守りましょうよ。」と本田も応じた。
 ただ、肝胆相照らす仲の笹井中隊長には告げなかった。いかに笹井といえども、こうした下士官の意地は理解してもらえないと思ったからだ。

 機会は翌日、早速やってきた。中攻隊右翼の護衛を命じられたのだ。もちろん、たとえ左翼の護衛を命じられたとしても、命令を無視して勝手に(くだんの中攻がいる)右翼の護衛に回るつもりだった。
 坂井が中攻隊に近付いていくと、各機の搭乗員達が「よろしく頼むぞ」というように手を振ってきたが、接触の危険があるほどになおも接近してくる坂井の異例の行動には驚いた様子だ
 右翼最後尾を飛ぶ、くだんの中攻のすぐ横に機体を寄せた坂井は、風防を開け、「頑張れよ!命を粗末にするなよ!必ず守るからな!」と叫んだが、エンジンの爆音にかき消され相手には届かない。ただ、坂井が一生懸命何かを伝えようとしていることはわかったようだ。

 飛行手袋を手旗代りに信号を送ろうと試みたが、上手くいかない。焦る坂井に、二番機の本田が知恵を授けてくれた。風防に字を書いたらよかですよ。
 それだ!と思った坂井は、風防に一字一字ていねいに逆文字を書いた。

 ム…ダ…
 キ
 ガ

 一人が双眼鏡で文字を読み取り、一人が記録板に書き入れていた様子だったが、ようやく伝わったらしく、全員で手を挙げて了解の合図を返してきた。
 坂井は、ほっとすると同時に、命にかけてこの一組の搭乗員たちを守ることをあらためて心に誓ったが、自分があの立場だったらどんなに辛いだろう、と思うと涙が止まらなかった。上官の命令どおりに行動した搭乗員がこんな処遇を受けることがどうしても納得いかなかった。彼らに対する同情ではなく、自分たち自身にとって重大事だと思ったのだ。

 坂井たちはその後も、何度となく中攻隊の護衛についたが、彼らに対しては一度も敵戦闘機の攻撃を許さなかった。
 聞くところによると、彼らは、のちにガダルカナル方面で壮烈な戦死を遂げたとのことであるが、この戦死は強要されたものではなかったという。

(注)中攻とは、「中攻」とは、「陸上中型攻撃機」の意味。海軍が地上の基地から運用する双発の雷撃・爆撃機です。ここでは、九六式陸上攻撃機を指していると思われますが、一式陸上攻撃機(中攻に対して陸攻と呼ばれる)である可能性も否定できません

追記 
私自身はまだ見ていませんが、上記のエピソードは、藤岡弘主演で制作された東宝映画『大空のサムライ』(1976年)にも採り上げられ、くだんの中攻の機長を地井武男が演じているそうです。

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戦史遺跡と不動産鑑定士  http://areasurvey.blogspot.jp/2012/08/blog-post_9.html
宇佐市平和資料館に行ってきました  http://kencrips.tumblr.com/post/57599917221