2014年3月8日土曜日

グループワークはなぜ「ワーク」しないか

 先月下旬、大分県信用組合主催 「けんしん大学」2月講座の講師をつとめさせていただきました。講座テーマは『異なる人々を統率する力~情報社会の新しい「リーダーシップ」』です。

 今回、リーダーシップ論を語るに当たり、私にはふたつの強い問題意識がありました。
 ひとつは『旧態依然たるリーダーシップイメージを無批判に念頭に置いていてよいのか』という疑問です。「リーダーかくあるべし」「リーダーには何が必要か」といった抽象論や優れたリーダーのエピソードを延々と熱く語るタイプの講座を見るにつけ、いかがなものかと常々思っていたのです。
 端的に言って、「リーダーには責任感と強い意志、コミュニケーション能力が大事」という、いわば当たり前のことを再確認して、どんな学びがあったと言えばいいか、私にはわかりません。

 もうひとつは『グループワークのあり方』についての疑問です。今日、講演セミナーの多くは、講師が一方的にしゃべる座学スタイルから、グループディスカッション、それを踏まえたグループ発表を組み込んだ受講者参加型のものに変化しつつあります。
 それ自体には賛成ですが、「どうしてこのテーマでこのワークなのか?(竜頭蛇尾)」「発散型のグループディスカッションを志向しているのに、なぜ収斂型のグループ発表をくっつけるのか?」と首を傾げざるを得ないことのほうがむしろ多い印象です。
 意地悪な言い方をすれば、「講演セミナーのねらいに即してグループワークを組み込んだのではなく、グループワークを組み込むこと自体が目的である」かのような印象を拭えなかったのです。

 本来グループワークの長所は、参加者がフラットな立場で、しかもインフォーマルな発言スタイルで意見交換できるために、各人の個性を反映した(記述要素として出てきにくい)情報をスピーディーに集めるのに適していることにあります。反面、講師がディスカッションをコントロールしにくく、議論の漂流や停滞が起こりやすい短所があることも否めません。
 それゆえ、グループワークをワーク(有効に機能)させるためには、①ディスカッションリードの訓練を受けたグループリーダーが事前に講師の教育目的を理解し、グループメンバーをまだ気付いていない論点に誘導したり、②講師がクラスディスカッションで議論の全体像を見える化しつつ、論点を総括するような工夫が求められます。

 ところが、現実のグループワークは、最後にグループ発表が予定されているために、往々にして次のいずれかのパターンになります。

 Ⅰ:議論のスタートから予定調和をイメージして、各人が個性的意見を控える。主たる関心は、各人の発言の共通点に向き、意見の食い違う背景にあるものは何かといった論点の掘り下げは一切されない。傍目には侃侃諤諤の議論をしているように見えるが、これはまとめるための議論に過ぎない。

 Ⅱ:議論百出、個性的な意見がたくさん出て、それに触発された意見が続く、非常にいいムードである。飛び交う情報量も非常に多く、ディスカッションが充実していることがわかる。ところが発散型で進めてきたために、まとめる段階でハタと困る。整理できない。次元の高い議論をしたのにもかかわらず、グループ発表ではその数分の一くらいのまとまりのない内容を告げるだけになってしまう(本来まとまるはずがないのだ!)。

 当然ながら、望ましいグループワークスタイルは上記Ⅱです。意図不明のグループ発表をくっ付けたせいで「角を矯めて牛を殺す」結果になるのは残念なことです。

 これらふたつの問題意識に共通するのは「教育目的(研修のねらい)は何か」を繰り返し問うという発想ではないでしょうか

 たしかに、受講者が何を感じるかは各人の自由で、彼彼女にどんな内的変化が生まれたかは、講師のコントロールの及ぶところではありません。しかしながら「参加すりゃ、何かそれぞれ学びがあるだろ、なけりゃ受講者の自己責任だよ」というのは、講師としてあまりに無責任と思うのです。

 今回、これらの問題意識をけんしん大学事務局のスタッフの方々やコーディネータの吉津先生にお伝えし、協議を重ねました。その結果、講座の建てつけやテキスト、席の配置等をどう工夫したかについては、次回述べたいと思います。