私の住む大分市の中心市街地は、JR大分駅を扇の要に放射状に広がっています。
広げた扇の中央、京都で言えば朱雀大路にあたる目抜き通り(旧電車通り)に、地域一番店(トキハ本店)があり、その前には、通り向かいのアーケード商店街との間を結ぶ地下歩道が穿たれています。
浅田次郎氏の短編小説の一節を読んで、祖母に連れられて買い物に出た幼児の頃の遠い記憶が一気に蘇ってきました。
『饐えた臭いに耐えかねて鼻をおさえると、祖母に手をはたかれた。叱責の理由は、その陰鬱なガード下に戦争の犠牲者たち―傷痍軍人や靴磨きやいかさまの物売り、あるいはそうした生計のかたちすら思いつかむ物乞いが、みっしりと居並んでいるからだった。どうにかなった者が、いまだどうにもならぬ者を蔑んではならないと、祖母は教えたのだろう。』
( 「シューシャインボーイ」 文春文庫 『月島慕情』 所収 )
私がまだ幼稚園に通っていた45年前、くだんの地下歩道には決まって物乞いの男性がひとり座っており、そばを通ると強烈な臭気が鼻をつきました。思わず鼻をつまもうとすると、祖母から手を叩かれ、恥ずかしい振る舞いをするな、と叱られました。
ふだん孫に甘い祖母の剣幕に驚いた幼い私は、鼻をつまんで通り過ぎる方が物乞いより卑しいことなのだと理解し、以後地下歩道では息を止め、鼻をつまむのをけんめいに堪えたものでした。
祖母がそのような点にだけは厳格であったのは、何か特段思うところがあったというのではなく、当時としてはごく普通にわきまえているべき惻隠の情というか、常識だったのであろうと思います。
小学生になったある日気づくと、物乞いの老人はいなくなっており、そののち二度と目にすることはありませんでした。彼が座っていた痕跡―その箇所だけ塗料がはげて色が変わっていました―も数年後には塗り替えられ、消えてしまいました。
そしていま大分市の中心市街地は、駅南区画整理の概成、大分パルコ跡の病院建設、さらに2年後の駅ビル開業でそのすがたを大きく変えようとしています。同じように、日本じゅうで「戦後」を思わせる街並みは消えつつあるのかもしれません。
しかし街ゆく人々が、ろくな教育も受けていない祖母より上等な人間と思えないこともしばしばあります。
ネットでの振る舞いもしかり。感動や感謝を押し売りする人。不純な動機で感動的な話をねつ造する人と、それを真に受けた人々を情弱(情報弱者)と激しい言葉で蔑む人。その両方共が衆目を集めることを企図している点で、両者は似たもの同士のようにも見えます。
変わってしまったのは、どうも街並みだけではないようです。
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