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2014年9月25日木曜日

ハインリッヒの法則とまだ見ぬナガノコウイチさんのはなし

 ナガノコウイチさん、という名前には、かねてから聴き覚えがありました。

 私の行きつけの病院で、いつも呼ばれている名前だからです。

 私とよく似た名前のこの方、耳が遠いのか、いつも待合室に名前を呼ぶ声が何度も響きわたるのです。

 一度は私もナースステーションに申し出ました。

「あのお、ナガノケンイチですが、いま名前が呼ばれましたでしょうか?」
「いえ、ナガノコウイチさんをお呼びしました。もう少々お待ちください。」

 それで私も、ナガノコウイチさんと私は縁があるのだなあ、いつも同じ日にこの病院に来ているのだなあ、と思ったわけです。

 ところが、先日はちょっと勝手が違いました。ナガノコウイチさんを呼ぶ声がいつまでもやまないのです。

「ナガノコウイチさ~ん、ナガノコウイチさ~ん」。

 ナガノコウイチさんはいつになったら現れるのだろう?

 それに引き換え、俺の名前は呼ばれないなあ、まさか文盲率がゼロ同然のこの日本で、ナガノケンイチとナガノコウイチを読み違えないよなあ、と思っていたら、それ以上の取り違えでした。

「あの~、ナガノケンイチさんはいらっしゃいますか…?」。

 さきほどのナガノコウイチさんを呼ぶ声の半分以下の音量で、コソコソ聞き歩いている女性職員がいます。

 ようやく事態を理解した私は、「先程から、ナガノコウイチさんの名前をさかんに呼んでいたけど、ナガノケンイチのカルテと取り違えてたわけ?あきれたね!」と、周りの人にも十分聞こえる音量で、ゆっくり、はっきりと言いました。

 いつもの調子で怒鳴ってもよかったのですが、怒鳴りませんでした。この事態の15分ほど前に、職員相手に怒鳴り散らしているおじさんがいて、その振る舞いがじつに醜悪だったからです(おじさん、ありがとう。あなたのお陰で醜態をさらさずに済みました)。

 その後は、これまでにないスピードで診察に呼ばれ、会計窓口へと招じられました(いきさつ上、VIP待遇だったのでしょうか?)。

 さて。

 ハインリッヒの法則、という言葉に聞き覚えがおありになると思います。

 1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する、という事故と災害の関係を示した経験則です。当然、医療の現場にも妥当すると言われています。

 ニュースで、患者を取り違え、健康な臓器を摘出した、などという医療過誤を見聞きすると、そんなありえないことがなぜおこるのか?と思いますよね。

 でも、保険証を示し(診察券を提示することもある)、患者のフルネーム、生年月日、その他の情報もことごとく把握しているはずの医療機関が、受付でも、ナースステーションでも、そのミスに気づかない事態が日常的にあるとしたら。

 あっ、しまった!やべーやべー。それで済まされた異常事態がいくつかの偶然と相俟ったとき…ありえない医療過誤は起きているのではないか?そう思いました。

 今後私は、どこの医療機関でも、手渡されたカルテが本当に自分のものかどうか、きちんと確認しようと思います。

 でも、この「カルテの取り違え」には、水際作戦たる簡単なアイデアがあります。

 受付担当者が保険証と照合し、カルテを探しだした段階で、保険証の名宛人を呼ぶのではなく、カルテの名を呼べばいいのです。

 ナースステーションと違って、待っている患者は少数だし、リードタイムも一分以下です。カルテの取り違えがあれば、「えっ、それって俺のこと?名前が違うよ?」と、すぐに判明することでしょう(そもそもフルネームと生年月日の照合を必須とすべきことは言うまでもありません)。

 病院を出るときの私の胸には、次のような疑念が、ほとんど確信に変わろうとしていました。

「僕は、ナガノコウイチさんとほんとうにご一緒したことがあるのだろうか?毎度のように、カルテを取り違えられ、違う名前で呼ばれ続けていたのではないか?」

 
<追記>
専門職業家のなかには、おおきなミスの原因となるような気付きを「ヒヤリ・ハット事例」としてとりまとめている人たちもいます。業界の社会的信頼、ひいては社会的地位は、このような地道で、相互信頼と協働意識なしには生まれない活動の上に成立している、と思うこともあります。







 

 


2014年8月9日土曜日

少年整備兵がみた出撃前夜の特攻隊員たち

 平和への祈りと鎮魂の季節がやってまいりました。個人的には、この時期がちょうど盂蘭盆会にあたることに救いみたいなものを感じます。

 もうずいぶん前のことになりますが、太平洋戦争末期に特攻基地で整備兵をしておられた方のお話をうかがう機会がありました。

 これまであまり人に話したことはありません。英霊を貶めるたぐいの話では決してないけれど、なんとなく話のネタにするのが畏れ多い気がしたからです。

 今回も、書こうか書くまいか迷いましたが、私だけの記憶にとどめるのはやはり勿体ないと、綴っている次第です。

 万一、お話下さった方にご迷惑がかかってもいけないので、どのような機会にどこでお話をうかがったかは伏せさせていただきます。また、うかつにもその方の所属部隊がどこだったかをお尋ねしませんでした。

 以下は、その方にうかがった内容です。


 特攻出撃の命令は、前日にわかるんや。

 その晩、出撃する隊員の食事はな、折り詰めに普段目にせんようなご馳走が盛られちょった。淡雪(注)もあったな。ビールも。もう二度と帰って来ん人たちへのせめてもの心づくしやったんやろうな。

 でも、みんな食べんのよ。つつくだけ。それはそうや、喉を通らんやろうな。ビールをラッパ飲みする人もおったけど、見ると喉が鳴ってない。飲んでないんや。ただビールが胸元をぬらすだけ。

 折り詰めに大量の料理を残したまま寝てしまうのが常やった。あんたは意地汚いと思うかもしれんけど、わしはそこにこっそり忍んで行って、食べ残しを貪り食ってた。ろくなもん食べてなかったからな。淡雪がほんと美味かった。

 飛行機に吊るす爆弾は、普通は操縦席の引き柄をひくと投下されるもんじゃが、特攻機は違った。ボルトでぎりぎりに締め上げて固定してしまうんや。飛び立ったらもう(爆弾の重量で)着陸できんようにするわけや。

 特攻機には必ず護衛の戦闘機が付いた。ある地点まで護衛したら引き返してくるはずなのだが、ただの一機も帰ってきたのを知らない。途中で敵機に撃ち落とされたのかもしれんし、あるいは燃料が尽きるまで特攻機と運命をともにしたのかもしれん。

 隊舎の横で、チャボを飼っている隊員がいた。律義に卵を産むチャボを可愛がっていたが、出撃が決まった日、彼はチャボを全部拳銃で撃ち殺してしまった。どんな気持ちだったんやろう。(私が「そんな振る舞い、上官が咎めないんですか」と訊くと)咎める人なんか誰もおらん。明日には英霊になる人たちなんやけん…。

(注)淡雪は、メレンゲを使ったムース状の寒天菓子。九州ではおせち料理に欠かせない定番である。この方にとって、淡雪は当時、ご馳走の象徴だったようで、淡雪のことは何度も話にでてきた。



2014年7月21日月曜日

メダカからわかる大分のむかし

 昨日、子どもたちを連れて大分市中心部の竹町通りにある少年少女科学体験スペースO-Labo(オーラボ)に行ってきました。

 オーラボは「きっと科学が好きになる・あそんで学ぶワクワク科学体験」をキャッチフレーズに毎週末、小学生向けの科学実験や生物観察講座を開講しています。

 今回参加したのは「メダカと友達になろう」と題した講座です。

 冒頭、講師の松尾敏生先生から、メダカとはどんな生き物か、地域によってどのような外見的特徴があるか、などのお話をうかがったのち、

  メダカは流れに対してどのように泳いでいるだろうか?
  流れを止めて周りの景色だけを動かすとどう反応するだろうか?
  その反応からどのようなことがわかるだろうか?

などを小実験をしつつ考えていきました。
 参加した子どもたちからは様々な意見が出て、とてもよい生物観察講座になったと思います。

 後ろで聴いていた私自身も大変よい勉強になりました(子どもたちより熱心にノートをとりましたww)。

 従来、国内の野生メダカは一種類と考えられてきました。それをメダカと呼んでいたわけです。

 しかしながら、研究が進むにつれ、北海道のメダカと九州のメダカは遺伝子が異なる別種である(人間でいえば人種が違うレベルだそうです)ことがわかってきて、2013年にキタノメダカミナミメダカという二種の標準和名が付けられた由。

 さらに大分県に生息するミナミメダカについて興味深いお話もありました。

 日田市のメダカは北部九州型、大分市や佐伯市のメダカは西瀬戸内型とされてきたところ、ミトコンドリアDNA解析の結果、つい最近になって大分市のメダカは大隅半島などに生息する大隅型であることが判明したというのです。

 松尾先生によれば、メダカは稲作とともに生息地を拡大してきた経緯があり、大分県に三種もの異なるタイプのメダカが生息している興味深い現象も、人文地理的要因による(注1)と考えられるそうです。すなわち、稲作に関連して大分と鹿児島には古くからの物的交流があったと推測されるというのです。

 別府八湯がきわめてバラエティに富む泉質に恵まれていることはよく知られている(注2)ところですが、大分県はメダカの分布でも特筆すべきところがあったんですね。

 しかもそれが古くからこの地で暮らしてきた人々の営為によるものである、ということに一層動かされる気がしました。


(注1)大昔、別府湾に注ぐ大分川・大野川と杵築の八坂川は一本の川だったそうですが、メダカの生息はそれより後の現象と考えられるとのことです。

(注2)11に分類される泉質のうち10種類の湯を楽しむことができます。





2014年6月23日月曜日

大田実少将の決別電報を読む

 きょう6月23日は昭和20年の沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日。沖縄県はこの日を「慰霊の日」と定めており、学校などは休みとなります。

 この日が「沖縄戦が終わった日」とされているのは、沖縄守備隊(第32軍)最高指揮官の牛島満中将と、同参謀長の長勇(ちょう いさむ)中将が、摩文仁の軍司令部で自決した日だからです(22日との説もあります)。

 実際には、沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)に後退を余儀なくされた5月末の時点で、第32軍はその戦力のほとんどを失い、事実上壊滅していたようです。

 陸軍第32軍(二個師団・一個旅団基幹)を中核とする沖縄守備隊は、海軍部隊である沖縄方面根拠地隊をも指揮下に収めていました。

 沖縄方面根拠地隊は、飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成した部隊で、装備も貧弱でしたが、米国公刊戦史にも残る勇猛な戦いぶりだったそうです。

 その司令官の職にあった人物が、いまなお沖縄県民の尊敬を集める大田実少将(戦死後中将)です。
 大田少将は、司令部を置いた地下壕間近まで敵の迫った6月6日、海軍次官宛に有名な訣別電報を発信しています(一週間後の6月13日に自決)。

 全滅を覚悟した部隊指揮官の決別電報は、玉砕の覚悟を綴ったのち天皇陛下万歳と締めくくるのが通例ですが、彼の発した決別電報は異例でした。

 沖縄県民が、いかに忠良な日本国民として戦争に協力し、困難に耐えたか、その決意や振る舞いがいかに立派だったかをきわめて具体的に列挙し、『沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』と締めくくったのです。

 → 大田実少将の決別電報全文及び現代語訳(ウィキペディア)

 浅田次郎氏のエッセイによると、大田少将は、さとうきび畑をつぶして砲陣地を設置するたび、丹精した農地を荒らしたことを耕作者に謝って歩いていたそうです。

 その彼に、大きな影響を与えたとされる人物がいます。当時の沖縄県知事、島田 叡(しまだ あきら)です。

 島田は、米軍の来襲が決定的となった昭和20年1月、逃げるように沖縄を去った前任者に代わって知事として着任しました。自決用の青酸カリを携えての沖縄入りだったとも伝えられています(島田は殉職したとされるも、遺体は見つかっていない由)。

 沖縄県民の生命を守るために、ときには軍と衝突しながら奔走する島田の姿勢にふれ、大田は島田を深く敬愛するようになっていきました。

 そのことが、大田自身の県民に対する態度ひいては「沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク(中略)本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上」で始まる上記決別電報の伏線になったと思われます。

 ところで、この沖縄戦を描いた映画としてまず挙げなければならないのが、『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年東宝、岡本喜八監督)でしょう。

 私は小学校二年生のとき、父に連れられてこの映画を大分市内の映画館で見ました(ストーリーはよく理解できませんでしたが、真っ赤に染まった泥水の中で息絶えようとする老婆の手を握った仲代達矢が最期を看取るシーンは鮮明に覚えています)。

 物語は、事実上の主人公である八原大佐(第32軍高級作戦参謀・仲代達矢)、牛島司令官(小林桂樹)、長勇参謀長(丹波哲郎)らを中心に描かれていきますが、これと平行して様々な人々の細かなエピソードが、相当の時間とエネルギーを費やして描かれています。

 なかでも印象に残るのが、神山繁演じる島田知事と池部良が演じた大田少将でした。

 実は、この映画には、特撮や考証、演出にいろいろ突っ込みどころがあるのです。

 それでもなお、この映画を名作ならしめているのが、細かなエピソードの集積でもって、沖縄戦の実相をできる限り克明に描こうとした岡本監督の執念だったのではないかと思っています。

 → BATTLE OF OKINAWA 激動の昭和史 沖縄決戦予告編(youtube)




2014年6月1日日曜日

官民連携で進める観光振興―おんせん県おおいたの取り組み

 平成26年5月30日(金)大分県別府市のホテル白菊にて一般社団法人九州・沖縄不動産鑑定士協会連合会第三回通常総会が開催されました。

 総会に先立って催された講演会のテーマは「おんせん県プロジェクト」。

 『日本一のおんせん県おおいた♨味力も満載~官民連携で進める観光振興の取り組み』と題して、大分県観光・地域振興課主幹の渡辺様、ホテル白菊社長の西田様にご講演いただきました。

 渡辺様は、観光行政をあずかる官のお立場から、おんせん県PR、ディスティネーションキャンペーン、大分県のターゲット層とそれへのアプローチ、商標登録をめぐる動きなど、大分県のツーリズム戦略の取組み概要についてお話下さいました。

 第8回全広連鈴木三郎助地域賞で優秀賞を受賞した「おんせん県おおいた」のCM(シリーズ全作計7分間)をご覧戴いたのち、CM出演者でもある西田様のお話。

 西田様には、観光産業に携わる経済人という民のお立場から、民間の声からはじまった取組みのきっかけ、民間におけるこれまでの取組みと今後の展望などを、おんせん県CM撮影の裏話も交えつつお話いただきました。

 開演前に上映した「めじろんコール・ミー・メイビー」「キティ&TAO」、講演者交代の合間に上映した「おんせん県おおいた」CMの動画も好評で、とりわけ「おんせん県おおいた」CMの上映時は、講演者自身の出演もあってか、たびたび笑いが起こりました。

 「おんせん県プロジェクト」の取り組みのきっかけは、東北大震災だったということは、意外と知られていないことだと思います(私自身知りませんでした)。
 講演者である西田氏ら別府市の経営者有志が、3.11の被災地に温泉を届ける活動を行ったとき、現地で「新婚旅行は別府だった。復興したら、絶対また旅行に行くからね!」などの反応を得て、これをきっかけに「大分県の温泉はやっぱり日本一だ、これを全国にアピールしなければ」という声が若手経営者らから起こったのだそうです。

 かかる民間からの声を受けて、大分県は「大分県はおんせん県」を提唱することになりました、と書いてしまうのは簡単ですが、これが大分県の観光ツーリズム戦略の重要な柱と位置付けられるようになるまでには、官民双方の関係者のご尽力があったものと推察されます。

 商標登録をめぐる動きが、他県も巻き込む賛否両論を巻き起こしたことも記憶に新しいところですが、商標登録をめぐる騒動を逆手に取ったテレビコマーシャルは、県外広報としてじつに心憎いうまいやり方だったと思います(先日の新聞報道では、広告効果11億円以上である由)。

 もしまだご覧になっていない方がおられましたら、ぜひ以下のリンクからどうぞ。
 おんせん県って言っちゃいましたけん!CMシリーズ総集編



 



 
 
 

2013年12月30日月曜日

いち音楽ファンとして今年認識を新たにした三つのこと

 今年(2013年)も残すところあとわずか。
 総括すべきことはいろいろあるのですが、今回はいち音楽ファンとして今年認識を新たにした三つのことについて綴ってみます。

 今年の音楽シーンを振り返るとか、そういう評論めいた話ではなく、きわめて個人的な事柄です。

 まず一つ目は、ビル・エヴァンスの良さにようやく気付いたこと。

 私だって『waltz for debby』くらいは昔から持ってたし、リバーサイド四部作は全部聴いたことがあるけれど、いまひとつピンときていなかったのです(『アンダーカレント』もそこそこイイとは思いましたが…)。
 でも、最近『I Will Say Goodbye』と『you must believe in spring』を聴いて「なるほど、こりゃワン・アンド・オンリーのピアニストだわ」とはじめて納得がいきました。食わず嫌いならぬ聴かず嫌いでした。ビル・エヴァンスならリバーサイド四部作に限る、と言った人をちょっと恨みたい気持ちです。

 二つ目は、ウエスト・コースト・ジャズを見直したこと。

 イースト・コーストにおいて目覚ましく進化を遂げたジャズに対して、まるで大衆文学を純文学の下に置くようにツーランクくらい下に見られるウエスト・コースト・ジャズ。私もアンサンブルの面白さは認めるとして、いまひとつ深みに欠けると思っていました。

 でも、仕事でつかれた体で聴いてみると違うんです。リロイ・ビネガーのウォーキング・ベースに「救い」のようなものを感じたんです。
 スコット・ラファロやエディ・ゴメスをディスるつもりは毛頭ないけれど、彼らのように理屈っぽくない明るさ、明快さが、少なくともいまの私が欲しているものであることは間違いありません。

 三つ目は、「アルフィー」というスタンダード・ナンバーが大好きになったこと。

 ソニー・ロリンズの「アルフィーのテーマ」ではなく、バート・バカラックのほうです。
  
 きっかけは今夏ライブで、種子田博邦さん(pf)、蒲谷克典さん(chello)のデュオを聴いたこと(ライブ自体はサックス付きの変則トリオでしたが、この曲のみおふたりで演奏されました)。

 もともと知っていた曲でしたが、こんなに美しく切ない曲だとは思っていませんでした。なんて美しいメロディだろうと思い、いろいろ探してみたのですが、彼らの演奏ほどのものにはなかなか出合えません。絶唱といわれるD・ワーウィックの歌声(すごくキュートです)を聴いても、バカラック自身の弾き語りを聴いても、さほどの感動はないんです。

 音楽性とか、演奏力とか、そういうことを語る資格は私にはありませんが、この曲はピアノとチェロという編成にピタリとはまっているし、歌手がtoo muchな情感を込めて歌うよりも、素直なインストルメンタルとして演奏するほうが、より楽曲の魅力が生きる気がしています。


ディウォンヌ・ワーウィック 『アルフィー』

http://www.youtube.com/watch?v=Gx6zm2lGF90

 





2013年10月21日月曜日

吉田戦車氏が語るやなせたかし氏「現役に対する飢え」

 漫画家・吉田戦車さんは、私とほぼ同世代で、私が社会に出た頃ちょうど『ビッグコミックスピリッツ』誌に『伝染るんです。』を連載開始したと記憶しています。

 独身寮で同期の仲間から、これ読んで見てよ、と渡された『伝染るんです。』は、私にとって浅いのか深いのか分からない、衝撃の問題作でした。

 その吉田戦車さんのツイートがさきごろ話題になりました。

 発端は、やなせたかし氏のインタビューで「無償の仕事の依頼は実に多い。僕はすごく軽く見られてるんだよ。」という述懐を目にした吉田さんが義憤に駆られて次のツイートをしたことです。

@yojizen: やなせたかしさんの対談いくつかを読むにつけ、あの人の「タダ働き」に甘えてきた多くの自治体とか組織は恥じろ、と思いますね。(ボランティアが適切である場合は、もちろん除いて)

 これが、吉田戦車の激烈批判!のような取り上げ方をされたわけですが、ご覧の通り、やなせたかし氏に対する深いリスペクトから出でたごく冷静な批判文に過ぎません。

@yojizen: タダでもキャラ描くよ、っていうのは、高齢になってしんどいとおっしゃりながらなお「現役に対する飢え」があったからだと思われ、ものすごいことだと思いますが、そこに甘えて描かせたほうの気軽さはちょっといやだ。

 この指摘は、やなせ氏が『なぜ軽く見られつつも多くの無償の仕事を手掛けてきたか』の理由を見事に言い当てているのではないでしょうか。「仕事の報酬は仕事だ」などとカッコいいことを言わぬまでも、「この俺が最適任だろう」と思える仕事は、報酬如何によらず、何としても手掛けたいと思うのがプロだと思います。とりわけ過去に、力を発揮する機会に恵まれない時期を経験したことのあるプロは、仕事にたいして何か飢餓感めいたものを秘めているものだという気もします。
 でも、それを逆手に取るのは如何なものか、という点も同感。

 かかる鋭い指摘をしつつも、吉田さんは次の言葉で一連のツイートを締めくくられました。

@yojizen: 『ほぼ日』対談記事の「原稿料なしで…」「すごく軽く見られてるんだよ」というやなせ氏のお言葉にカッとなってしまい、タダ働きさせた連中恥じろ、というきつい言葉が出てしまったわけですが、その人たちも今悲しんでいるということまで頭が回らなかった。申し訳ありませんでした。

 吉田戦車さんって、思いやりのある方ですね。今般の注目の浴び方は、吉田さんご自身にとってはやや不本意だったかもしれませんが、全体を通して見ると「吉田戦車が男を上げた」出来事と評価していいように思われます。




2013年10月14日月曜日

若き日の大友宗麟を描いた歴史エンターテイメント~風早恵介『大友宗麟-道を求め続けた男』

 映画化もされた和田竜のベストセラー『のぼうの城』は「歴史エンターテインメント小説」と呼ばれるジャンルを切り開いたと言われています。その特徴は史実性よりもエンターテインメント性を重視する姿勢にあります。

 主人公であるのぼう様こと成田長親のキャラクター。功を焦って周りが見えない石田三成と、長親の器量にいち早く気づく大谷吉継の対比。加えて正木丹波や酒巻靱負ら城方の侍たちの活写ぶり。
 船上で狙撃された長親がニヤリと笑いながら湖中に落ちていくシーンと、それを境に無表情だった領民たちが石田勢への敵意を露わにするようになるコントラストは、本作のハイライトと言っていいと思います。
 
 今回取り上げた、風早恵介『大友宗麟-道を求め続けた男』も、必ずしも史実に拘らず、様々な仕掛けで大友宗麟の生い立ちから二階崩れの変を経て大友家当主となるまでを生き生きと描いた快作です。

 本作を面白くしているのは(まったくの創作と思われますが)、塩法師丸(大友宗麟の幼名)出生の秘密、塩法師丸を守る素性不明の若侍・松永久秀(!)、高崎山を本拠とする細作(忍者)集団の統領(覆面の謎の人物)という三つの仕掛けです(注)

 出生の秘密については、おそらく豊後大友氏の祖である大友能直の頼朝ご落胤説をヒントにしたものと思われます。
 また、松永久秀なる若者がのちに織田信長を悩ませた怪人と同一人物かどうかは本作ではあきらかにされません。
 なお、細作の統領は、じつは本作に登場する重要人物のもうひとつの顔なのですが、宗麟はそれを見抜き、統領は「あなた様こそ御館となるべきお方」と覆面をとって忠誠を誓います。

 蛇足ですが、私はこの種の小説を読むとき、登場人物のキャスティングを勝手にイメージしながら読んでいます。ちなみに本作では、戸次鑑連に平幹二郎、臼杵鑑速に藤岡弘、大友義鑑に高橋秀樹、松永久秀に永澤俊矢といった感じでした。

 どうです?読んでみたくなりませんか?


(注)じつはもうひとり、作中幾度となく怪しい動きを繰り返す人物がいます。この人物の不穏な行動はすべて、終盤の大きな形勢変化の伏線なのですが、これ以上はネタバレとなるので控えておきます。


2013年10月9日水曜日

大友家にとっての関ヶ原~滝口康彦『悪名の旗』

 田原紹忍(たばる・じょうにん)。義鎮(宗麟)・義統(吉)二代に仕えた大友家の重臣です。

 奈多八幡の大宮司で、大友家の部将でもあった奈多鑑基(なだあきもと)の子として生まれた紹忍は、大友庶流の名家である田原家の養子となり、田原親賢(たばるちかかた)と称しました。その後、彼は田原家の勢力と主君・大友宗麟の義兄宗麟の妻は奈多鑑基の子)という立場を背景に、大友家中の実力者として急速に力をつけ、その絶頂期には、宗麟すら遠慮したほどの威勢を誇ったといわれています。

 耳川の合戦は言うに及ばず、歴史の表舞台で、紹忍ほど大友家没落につながる局面にことごとくネガティブに絡んでくる部将はほかにいません。私自身もこれまで、田原紹忍に大友家の獅子身中の虫のような「悪役」のイメージを抱いてきました。

 しかし、名作『 拝領妻始末』の作者として知られる歴史作家・滝口康彦は、本作で田原紹忍を「大友家再興のために奔走する忠臣」として描いています。

 大友氏改易後、豊後竹田の中川秀成に仕えていた紹忍は、徳川家康と石田三成が覇権を争う中央の不穏な情勢を「大友家再興の好機」と捉え、同じく旧臣である宗像鎮続と謀議を重ねます。しかし、肝心の大友義統がいけない。気弱で決断力がなく、誰が見ても将たる器ではないのです。

 でも、紹忍はこの不肖の甥が可愛くてならない。たしかに将たる器ではないけれど、純粋でやさしく、憎めない義統(この義統の人物描写に、作者の温かい目線が感じられて、大分県民としては嬉しくなります)。結局、宗像鎮続も、勇将吉弘統幸も、義統の愛すべき人柄には抗しえず、勝ち目のない戦に引きずられていくのです。

 大恩ある中川秀成を裏切り、将来ある吉弘統幸を死なせ、悪名に悪名を塗り重ねても、紹忍の願いが天に通じることはついにありませんでした。

 悪名を不本意に思いつつ、それでも自らの信じるところを貫く紹忍に、思った通りにことが運ばないわが身を重ねつつ読んでいる自分に気付いた作品でした。




2013年9月25日水曜日

石垣原合戦・吉弘統幸陣所跡(別府市観海寺)

 前回は「落日の大友家を彩ったスターたち」と題して、佐伯惟定、志賀親次、吉弘統幸の三人を採り上げました。
 今回は、その続編として、これら三名の中でもっとも悲運の最期を遂げた吉弘統幸について書きます。

 天正6年(1578年)、理想郷「むじか」建設のため日向遠征を企てた大友宗麟は、耳川の戦いで劣勢の島津勢に歴史的大敗を喫しました(注)。

 この戦いで父・鎮信を失った統幸は、弱冠14歳で家督を継ぐこととなります。
 天正20年(1592年)、文禄の役に参陣した統幸は、明の総司令官格・李如松(りじょしょう)の軍旗を奪う働きで、豊臣秀吉から「無双の槍使い」と絶賛され、一躍武名を高めました。大友氏改易ののちは、従兄弟である柳川城主・立花宗茂に二千石で仕え、慶長の役では立花軍の四番隊を任されたとされます。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに臨み、統幸は西軍についた立花家を暇請いします。大友家当主・大友義乗が徳川家に仕えていたからです。
 しかし、大友家の旧恩に酬いようと義乗の元へ向う道中、大友家の再興を狙う前当主・大友義統に出会ったことが、統幸の運命を大きく狂わせてしまいます。

 統幸は義統に対し懸命に東軍加担を説きますが、西軍総大将・毛利輝元の「西軍勝利の暁には豊前豊後二か国を進呈する」との甘言に乗せられた義統は聞き入れません。とうとう統幸も旧主に従う決断をせざるを得ませんでした。

 大友勢が東軍・黒田如水の軍勢と激突した「石垣原の戦い」で、統幸は獅子奮迅の活躍を見せます。しかし、奮戦の甲斐なく次第に大友方の劣勢が明らかとなると、統幸は別れの挨拶をすべく大友義統の本陣を訪れます。

 義統に別れを告げたのち、統幸は残った手勢30余騎を率いて黒田勢に突撃、七つ石(現・別府市荘園町)において戦死しました。

 彼が義統に述べた惜別の辞は、次のように伝えられています。

臣ハ累代厚恩ヲ蒙リ、死ヲ以テ君恩ニ報ント存レ共、

是ノ度ノ戦ハ縦ヘ一旦利ヲ得ル共、後ノ利運トハ成難シ、

臣今軍陣ノ中ニ入リ、生テ再ビ歸ラズ。

然レバ今君ノ尊顔ヲ拝スルモ現世ノ御名残ニ候

 「声涙ともに下る」というのは、こういうシーンを表現する言葉だと思わないではいられません。
 知将統幸には、最初から見えていた結果だったでしょう。

 「結果を出してこそプロ」という人もいます。確かにそうかもしれません。でも、望ましい結果が得られないことがわかっていても、プロとしての仕事をやり遂げないではいられないのがプロというのもまた、一面の真理と思えるのです。

 「無双の槍使い」として「忠義の士」として、まさに本物の侍(プロフェッショナル)であった統幸の最期を知り、こんな関係のないことを考えてしまいました。

 下の写真は別府市観海寺、杉乃井ホテルに上る坂の途中にある吉弘統幸陣所跡です。


(注)この戦いで軍事的統制のなさを露呈し、その結果角隈石宗、佐伯惟教らの有力武将を失った大友家は、以後没落への一途を辿ることになりました。


<参考サイト>
大友氏の終焉・石垣原の戦い
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/ishigaki/ishigaki.html

2013年9月7日土曜日

先生と呼ばれるほどの…

 「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という言葉があります。

  「先生」と呼ばれて得意となっている者を嗤う一方で、むやみに人のことを先生呼ばわりする風潮を皮肉っているのでしょう。

 「先生」というのは便利な言葉なので気軽に使われますが、特段敬意が込められているわけではないように思います。むしろ馬鹿にされていることすらある(明らかにバカにしているとき雑誌などでは「センセイ」とカタカナで書きますね)。

 士業のはしくれである私自身も 「先生」と呼ばれることがあります。一部の業界には、士業は一応センセイと呼んでおけ、というコンセンサスがあるようです。自分たち自身でも互いを先生呼ばわりしている士業の人たちもいます。

 士業はみなセンセイならば、一級建築士も土地家屋調査士もセンセイだろうと思い、そう呼んでみると、彼らはたいがい困った顔をして「その呼び方、やめてくれない?」と言うことが多いです。
 彼らのこの感覚は、きわめて正常だと思いました。同時に、自分がセンセイと呼ばれることに少なからず疑問を抱くようになりました。

 一級建築士の人たちの気持ちを忖度すると、一級建築士という資格者の中でも、建築家として名を成した人たちだけが先生だ、ということなのかもしれません。

 センセイと呼ばれて良かったこともないわけではありません。某行政機関のA課長は非常に仕事の出来る方で、ご在任中たいへんお世話になったのですが、彼はケースによって呼び方が変わるのです。普段は「長野さん」と呼んでくださるのですが、何か頼みがあるときは「長野先生」。彼から「長野先生、近々少しお時間を頂戴したい。」といわれると「ははあ、込み入った案件だな」と前もって心の準備ができたものです。

 閑話休題(ってイヤな言い方ですね、ぜんぶ閑話なのに)。「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」とはよく言ったものだと思うのは、それが呼ばれた側のためになっていないと感じるからです。先生と持ち上げられたことで慢心する人もいるし、逆に先生と呼ばれたために偉い人間を演じようとする人もいます。

 セミナーや講演で偉そうに振る舞う講師は少なくない(注1)ですが、彼らとて「講師は先生だから偉くあらねばならない」というドグマに囚われた犠牲者という一面もあります。

 彼らがいかに偉そうに振る舞おうが、他者より高い視点を持ち得ていない者が垂れるべき高説などこの世にないことは、水が高きから低きに流れるがごとく当たり前のことです。

 先生なんて呼ばれてていいのかと思いつつ、面と向かって「私を先生と呼ばないで」とはなかなか言い出せないでいました。言われた方は困惑するかもしれないし、いい気持ちがしないかもしれません。「せっかくセンセイと呼んでやってるのにグズグズ言うな」と思われるやもしれません(注2)。

 なので、ここに書きます。

 私は、ほんとうはセンセイと呼ばれるより「長野さん」と言われるほうが嬉しいです。その方がしっくりくる。ちなみにプライベートでは「けんちゃん」「研さん」と呼んでくれる人もいます(後者はなんだか高倉健みたいで恥ずかしいですが…)。街で見かけたら、そう呼んでくださっても結構です(注3)。

 どうぞよろしく…。




(注1)さりとて「私はこんなところでしゃべる資格はないのに主催者がぜひにと…」などと言い訳を述べるのも受講者に失礼です。講師が銘記すべきは、セミナーの目的、すなわち受講生にどんな行動を起こしてもらいたいか、に資することのみのはずです。世間はセミナー花盛りで「受講生に前向きな気持ちになってもらいたい」という目的のセミナーも少なからず見受けられますが、そんな「勉強する振り」に時間を割くくらいなら、綾小路きみまろの独演会にでも行った方がずっと元気になれること請け合いです。

(注2)実際には、こんなガラの悪い方は私のお知り合いにいません。

(注3)柳家喬太郎師匠だって高座の枕で「街で見かけたらキョンキョン、って呼んで♥」って言うじゃありませんか。

2013年9月4日水曜日

合元寺の赤壁(中津市寺町)

 いまやカーアイランド九州屈指の自動車工業集積地となった大分県中津市は、来年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で盛り上がっており、まちのいたるところに『黒田官兵衛孝高』の幟が立っています。

 天正15年(1587年)九州を平定した豊臣秀吉は、側近の黒田孝高を豊前中津12万石に封じました。すぐれた軍略家である孝高を九州の抑えとする意図もあったでしょうが、あまりに頭の切れる彼を恐れた秀吉が中央から遠ざけたともいわれます。

 孝高が築いたとされる中津城は、中津川河口にいまも三角形の遺構を残しています。福沢通りを挟んでその南東方の寺町界隈は、城下町の風情が感じられる散策路が整備され、格好の観光スポットとなっています。今日は、その中ほどにある合元寺(ごうがんじ)を訪れました。


 じつは、このお寺には、中津城、黒田孝高あるいはその息子の黒田長政を語る時、決して触れないわけにはいかない「いきさつ」があるのです。

 中津城主となった孝高には、目の上のたんこぶともいえる人物がいました。豊前守護職の家柄で代々当地に勢力を張る城井谷城主の宇都宮鎮房(「信長の野望」では城井鎮房の名で登場します)です。
 秀吉が命じた伊予国への移封を鎮房が拒否したことから、事態は深刻化し、ついには鎮房が城井谷城に立てこもるまでになりました。
 孝高の息子長政は、城井谷城を攻撃しますが、なにぶん天然の要害であり、度々戦上手の鎮房に翻弄されます。

 最終的には和議を受け入れて中津城に赴いた鎮房でしたが、城内で謀殺され、合元寺にとどめ置かれた家来たちも皆殺しされたということです。

 合元寺境内の案内板には次のような記述があります。

 天正17年4月孝高が前領主宇都宮鎮房を謀略結婚により中津城内に誘致したときその従臣らが中津城を脱出してこの寺を拠点として奮戦し最後をとげた。
 以来門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになった。当時の激戦の様子は現在も境内の大黒柱に刀の痕が点々と残されている。


 作家の井沢元彦さんは、『日本の歴史を理解するキーは、ケガレ思想と怨霊信仰だ』と述べ、その文脈で『神社の造営の中心人物を特定すれば、事件の黒幕が分かる』という趣旨の発言をしています。
 要するに『太宰府天満宮を建てた人が、菅原道真追放の張本人だ』というようなことです。ちなみに、宇都宮鎮房を祀る城井(きい)神社を建てたのは、黒田孝高(官兵衛)でした。

 しかし、本当はどうなのでしょう?以下は私の勝手な憶測です。

 秀吉に肥後54万国を与えられた佐々成政は、国人一揆がおこった責任を問われ切腹を命じられました。秀吉が鎮房に対して飽くまで強硬であったのは、じつは孝高を難しい立場に追い込み、ついには失政の責任を問うための策略であったとしたら…。





2013年8月31日土曜日

長宗我部信親終焉の地(大分市大字上戸次)

 大分市最南端、上戸次地区の大野川右岸には、大分市と県南諸地域を結ぶ大動脈である国道10号が走っています。
 クルマの流れも早いので見逃しやすいのですが(大分市方面から南下する際に)左手を注意してみると「長宗我部信親終焉の地 御供七百余人」という碑が建っています。


 じつはこの地こそ、四国の雄・長宗我部元親の生涯を描いた司馬遼太郎の佳作『夏草の賦』終盤のクライマックスの舞台なのでした。

 天正14年(1586年)、島津勢の豊後侵攻に際し、大友宗麟の救援要請をうけた天下人豊臣秀吉は、九州平定のための大軍を発します。いわゆる九州征伐です。

 その先遣部隊として急派されたのが、長宗我部元親・十河存保・仙石秀久の各部隊を基幹とする四国連合軍でした。落城の危機に立たされた鶴賀城(大分市上戸次)救援のため、豊後府内から南下してきた彼らは、ここで島津家久率いる島津勢と激突することになります(戸次川の戦い)。

 劣勢であったため、元親は慎重論を説きますが、軍監仙石秀久(人気マンガ「センゴク」の主人公です)は、戸次川の渡河を強く主張し、結局元親らもこれに従わざるを得ませんでした。
 大軍を野に伏せて待ち構えていた島津勢は、川を渡り切るのをみはからって急襲、虚を衝かれた秀久が敗走したため、元親率いる土佐勢は大混乱となります。

 三隊からなる土佐勢のうち一隊を率いていた元親の長男・信親は、当時数えの二十二歳。長身白皙の英明な美青年で、武勇は家中随一、性格は温和で、部下や領民を非常に大切にしたため、周囲から深く敬愛されていました。

 元親は、この自慢の息子に惜しみなく愛情を注ぎ、かつ後継者として大いに期待を寄せていました。信親の英明ぶりは隣国まできこえ、元親と敵対していた土豪たちも「あのような優秀な後継者を擁する長宗我部に歯向かっても先がない」と、元親の軍門に下ったとまで言われます。

 さて、話を戸次川の戦いに戻しましょう。
 信親は奮戦しますが、敵の大軍の中に孤立したことを悟り、ここを死地と定めます。このとき信親麾下七百名余りの土佐兵は、口々に「御供」と叫んで信親と運命を共にしたそうです(このエピソードはNHK歴史秘話ヒストリアにも取り上げられました)。


 この戦いの死傷者数は、当時としても類例をみないほど多数に上ったようです。それは島津勢の精強ぶり、仙石秀久の失策の反映であるとともに、信親がいかに部下たちに慕われていたか、土佐兵のメンタリティがどのようなものであったかを物語るものとも言えそうです。

 下の写真は、当地の北東方の丘陵にある信親の墓。合戦当日に当たる12月12日には毎年慰霊祭が行われます。この地の人々は、遠く四国から豊後を守るためにやってきて、ここで命を落とした未来ある若者と、それに殉じた人たちのことをいまも忘れていません。



<参考サイト>

歴史秘話ヒストリア 美しき武将 戦国アニキの秘密~長宗我部元親 信長・秀吉と戦う~
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/159.html


戸次川合戦
http://www.oct-net.ne.jp/~faulen13/ktsp/hetugi.html













2013年8月13日火曜日

大洲総合運動公園の石碑のはなし

前回に続き、太平洋戦争にちなんだ話題をとりあげます。今回は、私の住む大分市にちなんだ話題です。

大分市の大洲総合運動公園は、旧大分空港跡地を公園として整備したもので、敷地内には野球場・プール・体育館などが配置されています。その中ほど、テニスコートとバレーコートに挟まれた庭園の南端に、小さな石碑があることに気付くはずです。


表には「神風特別攻撃隊発進之地」の文字。裏には「昭和二十年八月十五日午後四時三十分 太平洋戦争最後の特別攻撃隊はこの地より出撃せり その時沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名 左の如し…」として18人の名が刻まれています。

 つまり彼らは、玉音放送を聞いたのち出撃していったわけで、それゆえ後年さまざまな批判や疑問が投げかけられることになりました。曰く、搭乗員は終戦を知らされていなかったのではないか…などと。
まず、ひととおりこの事件(以下、「宇垣特攻」といいます)の一般的な説明をすれば、次の通りです。

終戦当時、南九州方面の特攻迎撃を担当していた第五航空艦隊(基地航空部隊)は、司令部を大分海軍航空隊(現在の大分市津留・大洲地区)に置いていました。
第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏中将は、昭和二十年八月十五日、玉音放送の後、彗星艦上爆撃機11機とその搭乗員を道連れに特攻自決をしたといわれています。これが宇垣特攻の概略です。

 この特攻自決をテーマにした著作としては、松下竜一『私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち』、城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』が知られています。両著作の記述のニュアンスの違いもまた興味深いものです。

松下竜一『私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち』城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』


 なお、以下の関連サイトには、この事件についてのさまざまな解説・分析などが掲げられており、興味がつきません。

鳥飼行博研究室・宇垣纒司令官による最後の特攻

 →関係者のコメントや写真で事件の全容をわかりやすく解説しておられます。これを読むと、遺族を含む関係者らが事件をどう受け止めたのかまでわかります。

老兵の繰り言・「私兵特攻」に疑問

 →松下の著書『私兵特攻』を名著と認めたうえで、本書の記述に即して「宇垣特攻はじつは八月十六日だったのではないか。そう考えると不可解な点のつじつまが合う。」と問題提起をされています。きわめて説得力に富む記述です。



2013年8月11日日曜日

”犬死”はさせない~撃墜王と中攻のエピソード

 八月は、私たち日本人にとって、過去を振り返り、亡くなった人に思いを馳せる月。

 ブログの主旨からは逸脱しますが、今月は太平洋戦争にちなんだ話題をとりあげたいと思います(もうずいぶん前から「不動産鑑定士の隣接周辺業務」というメインテーマから離れっぱなしという気もしますが…)。

 坂井三郎といえば、64機撃墜の記録を持つ零戦のエースパイロット。著書『大空のサムライ』の原著である『坂井三郎空戦記録』は、『SAMURAI』のタイトルで英訳され、海外でもベストセラーになったと聞き及びます。
 欧米人が零戦に対して抱く「東洋の神秘」めいたイメージは、ことによると彼の著書の影響に負うところが大きいのかもしれません。

 以下に、彼の著書の中でも、最も私の印象に残った逸話について、その要旨を掲げます。出典は坂井三郎著『続・大空のサムライ』(光人社)です。


 坂井たちは、ラバウルにきてまもなく、ある噂を耳にした。その噂というのは、中攻隊に新たに配属された一機は、一時敵(土民軍)の捕虜になった経緯があり、それで上層部から「早く自爆させよ」という指令が出ている、というものであった。
 彼らはいつも、最も敵に狙われやすい編隊の右最後尾を与えられ、宿舎でも暗い表情で他の隊員たちに遠慮しているというのである。

 憤りを感じた坂井は、相棒である二番機の本田敏秋二飛曹に告げた。
「そんな馬鹿なことがあってなるものか。命をかけた俺たちの戦友、仲間ではないか。零戦隊の意地にかけても、この一機は守り通すぞ。」「指揮官機を落とされようとも、あの機だけは何としても守りましょうよ。」と本田も応じた。
 ただ、肝胆相照らす仲の笹井中隊長には告げなかった。いかに笹井といえども、こうした下士官の意地は理解してもらえないと思ったからだ。

 機会は翌日、早速やってきた。中攻隊右翼の護衛を命じられたのだ。もちろん、たとえ左翼の護衛を命じられたとしても、命令を無視して勝手に(くだんの中攻がいる)右翼の護衛に回るつもりだった。
 坂井が中攻隊に近付いていくと、各機の搭乗員達が「よろしく頼むぞ」というように手を振ってきたが、接触の危険があるほどになおも接近してくる坂井の異例の行動には驚いた様子だ
 右翼最後尾を飛ぶ、くだんの中攻のすぐ横に機体を寄せた坂井は、風防を開け、「頑張れよ!命を粗末にするなよ!必ず守るからな!」と叫んだが、エンジンの爆音にかき消され相手には届かない。ただ、坂井が一生懸命何かを伝えようとしていることはわかったようだ。

 飛行手袋を手旗代りに信号を送ろうと試みたが、上手くいかない。焦る坂井に、二番機の本田が知恵を授けてくれた。風防に字を書いたらよかですよ。
 それだ!と思った坂井は、風防に一字一字ていねいに逆文字を書いた。

 ム…ダ…
 キ
 ガ

 一人が双眼鏡で文字を読み取り、一人が記録板に書き入れていた様子だったが、ようやく伝わったらしく、全員で手を挙げて了解の合図を返してきた。
 坂井は、ほっとすると同時に、命にかけてこの一組の搭乗員たちを守ることをあらためて心に誓ったが、自分があの立場だったらどんなに辛いだろう、と思うと涙が止まらなかった。上官の命令どおりに行動した搭乗員がこんな処遇を受けることがどうしても納得いかなかった。彼らに対する同情ではなく、自分たち自身にとって重大事だと思ったのだ。

 坂井たちはその後も、何度となく中攻隊の護衛についたが、彼らに対しては一度も敵戦闘機の攻撃を許さなかった。
 聞くところによると、彼らは、のちにガダルカナル方面で壮烈な戦死を遂げたとのことであるが、この戦死は強要されたものではなかったという。

(注)中攻とは、「中攻」とは、「陸上中型攻撃機」の意味。海軍が地上の基地から運用する双発の雷撃・爆撃機です。ここでは、九六式陸上攻撃機を指していると思われますが、一式陸上攻撃機(中攻に対して陸攻と呼ばれる)である可能性も否定できません

追記 
私自身はまだ見ていませんが、上記のエピソードは、藤岡弘主演で制作された東宝映画『大空のサムライ』(1976年)にも採り上げられ、くだんの中攻の機長を地井武男が演じているそうです。

関連記事
終戦の日に(宇佐海軍航空隊のお話)  http://areasurvey.blogspot.jp/2012/08/blog-post_15.html
戦史遺跡と不動産鑑定士  http://areasurvey.blogspot.jp/2012/08/blog-post_9.html
宇佐市平和資料館に行ってきました  http://kencrips.tumblr.com/post/57599917221





2013年5月10日金曜日

メディア・リテラシーを担保するネットメディア


 先般、安倍総理の次のような発言が報じられました。
『なかなか私たちがこれは伝えたいと思ったことが、テレビのニュースではカットされたり、新聞ではまったく取り上げられないということが多いものですから。』

 この発言から、『私は直接国民に話したい。(新聞記者は)帰って下さい。』と言った佐藤栄作元総理を連想する人は少なくないでしょう。
 この佐藤元総理のエピソードは、くだんの発言を受けて『じゃ、出て行こう。』と会見場を去った新聞記者たちの矜恃を称えるとともに、意に沿わない報道機関は排除しようとする老政治家の頑迷さを皮肉るニュアンスで引用されることが多かったように思います。
 でも、私は今回の安倍総理の発言に、違った感想を抱きました。近年、ネットメディアの台頭により、報道機関が必ずしも国民の知る権利に奉仕しないケースがあることにさまざまな局面で気づかされるようになったからだと思います。

 前の大戦では、戦績を誇張した「大本営発表」がなされ、戦争被害や敗走等の不都合な情報の多くは発表されませんでした。その反省に立って、戦後国民の知る権利を支えるものとして、報道の自由には大きな配慮が払われてきたわけです。
 報道の自由は、当然に編集の自由を含むわけで、それゆえ私たちはこれまで、報道機関が報じることを「事実」と受け取ってきました。
 しかし、私たちは今や、報道機関が報じる必要を感じない(報じたくない)情報にも触れることができます。ネットメディアは、報道機関が切り捨てた情報をテレビや新聞以上にスピーディーに、あまねく拡散する力を持ちました。しかも、そこでは「報道機関が切り捨てた」こと自体が大きなニュースバリューを持ちます。
 むかし、旧ソ連体制を皮肉った次のようなジョークがありました。


 ニクソンとブレジネフがふたりで駆けっこをした。
 その結果をソ連共産党機関紙プラウダは次のように報じた。
 『ニクソンはビリから二番目だった。同志ブレジネフは二位入賞を果たした。』

 このジョークで、プラウダは事実を正確に伝えています。しかし、読者を誤った解釈に誘導する意図があったことは明白でしょう。
 ジョークだと思っていたことが現実に、しかもしばしばあることを知るにつけ、ネットメディアそのものが、既存メディアに対するリテラシーの担保になっている、ということをあらためて意識させられるこの頃です。(写真は本文と関係ありません)


2013年3月22日金曜日

トキハ前地下道の思い出

 私の住む大分市の中心市街地は、JR大分駅を扇の要に放射状に広がっています。

 広げた扇の中央、京都で言えば朱雀大路にあたる目抜き通り(旧電車通り)に、地域一番店(トキハ本店)があり、その前には、通り向かいのアーケード商店街との間を結ぶ地下歩道が穿たれています。

 浅田次郎氏の短編小説の一節を読んで、祖母に連れられて買い物に出た幼児の頃の遠い記憶が一気に蘇ってきました。

『饐えた臭いに耐えかねて鼻をおさえると、祖母に手をはたかれた。叱責の理由は、その陰鬱なガード下に戦争の犠牲者たち―傷痍軍人や靴磨きやいかさまの物売り、あるいはそうした生計のかたちすら思いつかむ物乞いが、みっしりと居並んでいるからだった。どうにかなった者が、いまだどうにもならぬ者を蔑んではならないと、祖母は教えたのだろう。』
 ( 「シューシャインボーイ」 文春文庫 『月島慕情』 所収 )

 私がまだ幼稚園に通っていた45年前、くだんの地下歩道には決まって物乞いの男性がひとり座っており、そばを通ると強烈な臭気が鼻をつきました。思わず鼻をつまもうとすると、祖母から手を叩かれ、恥ずかしい振る舞いをするな、と叱られました。

 ふだん孫に甘い祖母の剣幕に驚いた幼い私は、鼻をつまんで通り過ぎる方が物乞いより卑しいことなのだと理解し、以後地下歩道では息を止め、鼻をつまむのをけんめいに堪えたものでした。

 祖母がそのような点にだけは厳格であったのは、何か特段思うところがあったというのではなく、当時としてはごく普通にわきまえているべき惻隠の情というか、常識だったのであろうと思います。

 小学生になったある日気づくと、物乞いの老人はいなくなっており、そののち二度と目にすることはありませんでした。彼が座っていた痕跡―その箇所だけ塗料がはげて色が変わっていました―も数年後には塗り替えられ、消えてしまいました。

 そしていま大分市の中心市街地は、駅南区画整理の概成、大分パルコ跡の病院建設、さらに2年後の駅ビル開業でそのすがたを大きく変えようとしています。同じように、日本じゅうで「戦後」を思わせる街並みは消えつつあるのかもしれません。

 しかし街ゆく人々が、ろくな教育も受けていない祖母より上等な人間と思えないこともしばしばあります。

 ネットでの振る舞いもしかり。感動や感謝を押し売りする人。不純な動機で感動的な話をねつ造する人と、それを真に受けた人々を情弱(情報弱者)と激しい言葉で蔑む人。その両方共が衆目を集めることを企図している点で、両者は似たもの同士のようにも見えます。

 変わってしまったのは、どうも街並みだけではないようです。






2013年2月12日火曜日

なぜ人はFacebook友達を切るのか


 先日、コロラド大学デンバー校が行ったFacebookに関する研究結果を取り上げたニュースを目にしました(下記リンク参照)。

 これによれば、Facebookで友達から削除(アンフレンド)されると、削除された側の4割の人が相手との交流を全力で回避するようになるとのことです。

 たいへん興味深い話ではありますが、この研究の最も重要なインプリケーションは、そこにはないと思います。注目すべきは「そもそもなぜ人は友達を切るのか」、その理由についての調査結果のほうでしょう。

 この点、同研究は「つまらないと感じさせる投稿が延々と続くこと」が最大の理由であり、他には「政治色、宗教色が強過ぎる投稿」も原因となると指摘しています。

 思い当たるところがないでしょうか。私はあります。たくさんあります。

 わが身を振り返っての第一の懸念は、「とかく他人に対して批判的な投稿が多いことが見る人を不快にさせていないか」という点。第二の懸念は、「投稿が頻繁すぎないか」という点でした。

 その反省の表れとして、実にささやかなことですが、二つの対策を講じました。

 ひとつは、厳しい内容を含む投稿は、直接Facebookに投稿することを避け、ブログにまとめることにしたことです。Facebookには、ブログを更新した旨だけアップするよう改めました。

 ふたつ目は、TumblrからFacebookへの自動投稿を中止したことです。私は、以前から気に入った記事をTumblrに収集しており、リブログ(Twitterでいうリツイートのようなものです)の都度Facebookに自動的に流し込んでいましたが、ときに自動投稿が集中することもあるので、とりやめにしました【よかったらTumblrのほうもご覧ください…http://kencrips.tumblr.com/】。

 なお、これらの対策を講じたのは、くだんの研究結果を見るより前のことでした。対策の必要に気づかせてくれたのは、Facebookのウォールです。Facebookは、ほんとうにいろいろなことを教えてくれます。

 今後も、お気づきの点があれば、ご教示くださいますようお願いいたします。


Facebookで友達削除されたら「もう会いたくない」4割---米大学の調査

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20130205/454261/?ST=network






2013年2月8日金曜日

「はっきり言って」の戒め


 大学生の頃、教養科目で「文学」の授業をとっていました。担当教授はたいへん温厚な方で、いわゆる「楽勝」な講座として学生に人気がありました。
 授業の進め方もじつにユニークでした。まず各自に短冊状の紙が5枚ほど配られます。その紙に、先生の問いに対して簡潔な意見を記し、提出します。

 例えば、「ルース・ベネディクトは、『菊と刀』で、欧米が罪の文化であるのに対し、日本は恥の文化である、と規定しましたよね。この点について評価してください」といった具合です。

 先生は各自の意見をいくつか紹介し、これを評したり、さらに次の問いかけに結びつけたりされます。学生の意見に、面白い視点やざん新なメタファーを見出すと、とてもほめてくださいました。
 
 そんな居眠りしている暇のない楽しい講義にも、ただ一点、厳然たるルールがありました。それは「『はっきり言って』と言ってはいけない」ことです。

 なぜか。先生によれば「『はっきり言って』というフレーズは、はっきり言えない時に必要なもの。本当にはっきり意見を述べれば、『はっきり言って』はいらない」。

 確かに、駄本の書評をするときに「はっきり言って駄作だと思います」というフレーズは不必要なように思われます。その本が駄作であることを示す要素、たとえば剽窃や事実誤認、結論の説得力の無さ、前著と比較したときの新規性の不足などを具体的に示すことができれば、駄作といわずとも、評者がその本に対して下した評価は、十分に読者に伝わることでしょう。

 先生が授業で伝えたかったのは「論理的に考え、表現すること」であったと今はわかります。ですが、ロジカル・シンキングがもてはやされる昨今でも、論理性軽視の風潮にさして変化はないようです。「ロジック重視」という人たちから「その意見はなんとなくロジカルじゃない」などと論理性とかけ離れた発言があると、たいへん残念な気持ちにおそわれます。






2013年2月4日月曜日

ブログタイトル『浅想録』の由来


 先日、知人に「きみのブログのタイトルは、なぜ『せんそうろく』なのか?」と訊かれました。

 どうこたえたものかと迷って、その場ではご説明できなかったので、この場を借りて「ブログタイトルの由来」について書いてみたいと思います(あまり面白い話でないことは最初にお断りしておきます)。

 一番短い説明は、「宇垣纏という人が書いた有名な日記『戦藻録』をもじって、浅い想いの記録という意味で付けたタイトル」というものです。でも、これではちょっと説明不足なので、以下に補足説明を付け加えることにします。

【補足1:『戦藻録』(せんそうろく)とは何か】

 『戦藻録』(せんそうろく)は、太平洋戦争開戦時、連合艦隊参謀長の要職にあった宇垣纏海軍中将が記録した陣中日誌です。
 宇垣自身はタイトルの由来を「戦の屑籠、否戦藻録と命名」したと述べていますが、内容はまさに「戦争録」で、日本海軍の実戦部隊司令部の実態をしめす極めて貴重な記録とされています。

 戦後、遺族から第六巻を借り受けた黒島亀人(開戦当時連合艦隊高級作戦参謀)が同巻を紛失するなどしたため、すべての記録が残っているわけではありません。この点、阿部牧郎『遙かなり真珠湾 山本五十六と参謀・黒島亀人』は、自分に都合の悪い記述を発見した黒島が意図的に処分した可能性を指摘しています。『戦藻録』が作戦の背景と経過を知るうえでいかに重要な資料だったということを物語るエピソードとも言えそうです。

【補足2:『戦藻録』(せんそうろく)と大分市との縁】

 記録は、昭和16年(1941)10月16日にはじまり、1945年8月15日に終わっています。終戦の日に終わった理由は、その日宇垣が行方不明(おそらく死亡)になったからです。
 終戦当時、第五航空艦隊司令長官であった宇垣は、司令部を大分海軍航空隊(現在の大分市津留・大洲地区)に置いていました。当日は玉音放送ののち、「戦藻録」最後のページを書き終え、彗星艦上爆撃機に乗り込んで特攻自決をしたとされています。

 この特攻自決をテーマにした著作としては、松下竜一『私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち』、城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』が知られています。両著作の記述のニュアンスの違いもまた興味深いものです。

【補足3:もうすでにあった『浅想録』(せんそうろく)】

 ブログを開設した後に気づいたことですが、じつはネット上に、私よりずっと前に『浅想録』(せんそうろく)という文章を綴っていた方がいらっしゃいました。『連邦皇国』なる軍事系サイトの中に、『浅想録』と題して水上兵器に関する論考をなさっています。
 同じようなことを考える方がいるんだなあという親近感と同時に、類似のタイトルについてもっと調べるべきだったという申し訳ない気持ちを抱きつつ、今日に至っています。