前回に続き、太平洋戦争にちなんだ話題をとりあげます。今回は、私の住む大分市にちなんだ話題です。
大分市の大洲総合運動公園は、旧大分空港跡地を公園として整備したもので、敷地内には野球場・プール・体育館などが配置されています。その中ほど、テニスコートとバレーコートに挟まれた庭園の南端に、小さな石碑があることに気付くはずです。
表には「神風特別攻撃隊発進之地」の文字。裏には「昭和二十年八月十五日午後四時三十分 太平洋戦争最後の特別攻撃隊はこの地より出撃せり その時沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名 左の如し…」として18人の名が刻まれています。
つまり彼らは、玉音放送を聞いたのち出撃していったわけで、それゆえ後年さまざまな批判や疑問が投げかけられることになりました。曰く、搭乗員は終戦を知らされていなかったのではないか…などと。
まず、ひととおりこの事件(以下、「宇垣特攻」といいます)の一般的な説明をすれば、次の通りです。
終戦当時、南九州方面の特攻迎撃を担当していた第五航空艦隊(基地航空部隊)は、司令部を大分海軍航空隊(現在の大分市津留・大洲地区)に置いていました。
第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏中将は、昭和二十年八月十五日、玉音放送の後、彗星艦上爆撃機11機とその搭乗員を道連れに特攻自決をしたといわれています。これが宇垣特攻の概略です。
この特攻自決をテーマにした著作としては、松下竜一『私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち』、城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』が知られています。両著作の記述のニュアンスの違いもまた興味深いものです。
なお、以下の関連サイトには、この事件についてのさまざまな解説・分析などが掲げられており、興味がつきません。
鳥飼行博研究室・宇垣纒司令官による最後の特攻
→関係者のコメントや写真で事件の全容をわかりやすく解説しておられます。これを読むと、遺族を含む関係者らが事件をどう受け止めたのかまでわかります。
老兵の繰り言・「私兵特攻」に疑問
→松下の著書『私兵特攻』を名著と認めたうえで、本書の記述に即して「宇垣特攻はじつは八月十六日だったのではないか。そう考えると不可解な点のつじつまが合う。」と問題提起をされています。きわめて説得力に富む記述です。
0 件のコメント:
コメントを投稿