読書で出会う理想のリーダー像、二人目は、プロ野球史に残る名監督・三原脩です。
水原茂、上田利治、広岡達郎、森祇晶。「知将」と呼ばれた名監督は何人もいますが、「魔術師」と呼ばれたのは、この三原をおいて他にいません。
その彼の輝かしい球歴のなかでも、ひときわ光を放っているのが、九州の野武士軍団・西鉄ライオンズを率いて三年連続日本一に輝いた昭和31~33年と、6年連続セ・リーグ最下位に甘んじていた大洋ホエールズをいきなり日本一に押し上げた昭和35年の采配ぶりでしょう。
後者のてんまつを関係者の証言をもとに再現したスポーツノンフィクションライター富永俊治の力作・『三原脩の昭和三十五年―「超二流」たちが放ったいちど限りの閃光』(宝島社)を書店で見つけたのは、ちょうど横浜ベイスターズが38年ぶりのリーグ優勝に向けて快進撃を続けていた頃だったと記憶しています。
ところで、いま世間には「経験を活かす」と言いつつ、ある特定のケースでの成功体験を一般的に適用しようとする風潮がありますが、ほんとうに経験豊かなプロフェッショナル達は、じつに融通無碍に事を運びます。
大洋ホエールズに乗り込んだ三原もそうでした。ひとりひとりの選手たちにそれぞれ違ったやり方で接し、彼らに染み付いた「負け犬根性」を正すとともに、いまひとつパッとしない二流選手たちを「超二流選手」へと変えていきます。
超二流選手とは三原の造語で、一流とは言えないけれど、(三原の示唆によって)自らの持ち味と持ち場を理解した選手たちのこと。三原は、不遇な二流選手たちを絶妙な起用で超二流選手に変身させ、ひいてはチームを変えていきました。
権藤正利は、かつて新人王に輝いたほどの好投手でしたが、持病の胃下垂からくるスタミナ不足もあって勝ち星を挙げられず、このころには自信喪失から引退を決意していました。三原の説得で引退を思いとどまったこの年、彼はリリーフに転向し、防御率1.42の好成績を挙げました。
王貞治が最も苦手とした投手として知られるサウスポー鈴木隆は、個性的過ぎてチームから浮き上がるきらいもある”ジャジャ馬”でした。三原は彼の侠気に訴え、当時は二線級の役割とされたリリーフに転向させます。最初は反発した鈴木でしたが、やがて自らの役割を理解するようになりました。誰よりも強気でここ一番に頼りがいのある鈴木がリリーフにまわったことで、大洋は俄然接戦に強くなっていきます。
秋山登は、最下位チーム大洋にあって「掃き溜めに鶴」のようなリーグ屈指の好投手でしたが、味方の貧打・拙守に泣かされ続けるうち、ある意味目標を失い、一時の精彩を欠いていました。
しかしこの年、快進撃の立役者となった彼は、シーズンMVPを獲得、日本シリーズでも4連投で日本一に貢献しました。(気がつけば投手ばかり例に引いてしまいました。申し訳ありません。)
西鉄時代の三原にはこんな話もあります。こちらは、豊田泰光『風雲録―西鉄ライオンズの栄光と終末』(葦書房)から。
昭和31年の日本シリーズに臨んだ西鉄ライオンズの選手たちは、「監督を男にするんだ」と鼻息荒かったといいます。巨人を追われて九州にきた三原の悔しかった身の上を知っていたからです。
そんなガチガチに緊張した若い選手たちを前にして、並みのマネジャーなら「リラックスしていこう」と声を掛けるのかもしれませんが、魔術師はそんなことは言いません。彼はこう言いました。
『巨人は日本でいちばんいいチームだ。そして、強い。だから今日は勝たなくていい。ただ、よおく見ておきなさい。』
力が抜けた豊田らは(三原の言いつけどおりなのか)初戦こそ落としましたが、二戦目以降は本来の実力を発揮し、見事日本一を手にしたということです。
<参考サイト>
これぞ三原マジック!大洋 最下位からの初優勝!!
水原茂、上田利治、広岡達郎、森祇晶。「知将」と呼ばれた名監督は何人もいますが、「魔術師」と呼ばれたのは、この三原をおいて他にいません。
その彼の輝かしい球歴のなかでも、ひときわ光を放っているのが、九州の野武士軍団・西鉄ライオンズを率いて三年連続日本一に輝いた昭和31~33年と、6年連続セ・リーグ最下位に甘んじていた大洋ホエールズをいきなり日本一に押し上げた昭和35年の采配ぶりでしょう。
後者のてんまつを関係者の証言をもとに再現したスポーツノンフィクションライター富永俊治の力作・『三原脩の昭和三十五年―「超二流」たちが放ったいちど限りの閃光』(宝島社)を書店で見つけたのは、ちょうど横浜ベイスターズが38年ぶりのリーグ優勝に向けて快進撃を続けていた頃だったと記憶しています。
ところで、いま世間には「経験を活かす」と言いつつ、ある特定のケースでの成功体験を一般的に適用しようとする風潮がありますが、ほんとうに経験豊かなプロフェッショナル達は、じつに融通無碍に事を運びます。
大洋ホエールズに乗り込んだ三原もそうでした。ひとりひとりの選手たちにそれぞれ違ったやり方で接し、彼らに染み付いた「負け犬根性」を正すとともに、いまひとつパッとしない二流選手たちを「超二流選手」へと変えていきます。
超二流選手とは三原の造語で、一流とは言えないけれど、(三原の示唆によって)自らの持ち味と持ち場を理解した選手たちのこと。三原は、不遇な二流選手たちを絶妙な起用で超二流選手に変身させ、ひいてはチームを変えていきました。
権藤正利は、かつて新人王に輝いたほどの好投手でしたが、持病の胃下垂からくるスタミナ不足もあって勝ち星を挙げられず、このころには自信喪失から引退を決意していました。三原の説得で引退を思いとどまったこの年、彼はリリーフに転向し、防御率1.42の好成績を挙げました。
王貞治が最も苦手とした投手として知られるサウスポー鈴木隆は、個性的過ぎてチームから浮き上がるきらいもある”ジャジャ馬”でした。三原は彼の侠気に訴え、当時は二線級の役割とされたリリーフに転向させます。最初は反発した鈴木でしたが、やがて自らの役割を理解するようになりました。誰よりも強気でここ一番に頼りがいのある鈴木がリリーフにまわったことで、大洋は俄然接戦に強くなっていきます。
秋山登は、最下位チーム大洋にあって「掃き溜めに鶴」のようなリーグ屈指の好投手でしたが、味方の貧打・拙守に泣かされ続けるうち、ある意味目標を失い、一時の精彩を欠いていました。
しかしこの年、快進撃の立役者となった彼は、シーズンMVPを獲得、日本シリーズでも4連投で日本一に貢献しました。(気がつけば投手ばかり例に引いてしまいました。申し訳ありません。)
西鉄時代の三原にはこんな話もあります。こちらは、豊田泰光『風雲録―西鉄ライオンズの栄光と終末』(葦書房)から。
昭和31年の日本シリーズに臨んだ西鉄ライオンズの選手たちは、「監督を男にするんだ」と鼻息荒かったといいます。巨人を追われて九州にきた三原の悔しかった身の上を知っていたからです。
そんなガチガチに緊張した若い選手たちを前にして、並みのマネジャーなら「リラックスしていこう」と声を掛けるのかもしれませんが、魔術師はそんなことは言いません。彼はこう言いました。
『巨人は日本でいちばんいいチームだ。そして、強い。だから今日は勝たなくていい。ただ、よおく見ておきなさい。』
力が抜けた豊田らは(三原の言いつけどおりなのか)初戦こそ落としましたが、二戦目以降は本来の実力を発揮し、見事日本一を手にしたということです。
<参考サイト>
これぞ三原マジック!大洋 最下位からの初優勝!!
0 件のコメント:
コメントを投稿