2015年2月19日木曜日

ブログ立ち上げのご案内

このたび、私が代表をつとめる法人(エリア・サーベイ合同会社)のウェブサイトの全面リニューアルに伴い、サイト内にブログを設置しました。

サイト内ブログは、テーマを狭く限ることこそしませんが、不動産鑑定や経営コンサルティングにかかわる話題を中心に据え、幅広い話題を取り上げつつも、不動産鑑定士・中小企業診断士の視点から綴っていきたいと思っています。

『浅想録(せんそうろく)』とあわせ、ご覧くださいましたら幸いです。

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2014年12月13日土曜日

岡城と薩摩兵の縁(その3)

 前回は天正15年(1587年)、岡城主志賀親次が鬼ヶ城にて島津勢に決戦を挑み、決定的大勝利を挙げたところまでを書きました。
 
 さて、それから290年後の明治10年(1877年)。不平士族たちが下野した西郷隆盛を盟主に担ぎだして武装蜂起した西南戦争(西南の役)が起こりました。

 熊本城攻めで戦力を毀損し、田原坂でも敗北を喫した西郷軍は、本営を人吉に移します。ここで西郷から豊後方面制圧の命を受けたのが、奇兵隊指揮長・野村忍介(おしすけ)です。
 桐野利秋麾下にあった野村は、この戦争についてはもともと慎重論を説いていたそうですが、開戦以後はむしろ必勝の信念に燃えて積極策を数多く意見具申したとも言われています。
 この点、二二六事件における安藤輝三大尉の姿を重ねてしまいます(注1)。
 
 野村の率いる奇兵隊は、5月13日に竹田を占領。しかし、その後政府軍が到着すると、両軍の間で十数日に及ぶ激戦が繰り広げられ、29日ついに竹田は陥落しました。
 後掲写真の「激戦マップ」に描かれた地。この地こそ、かつて島津勢と志賀勢が相見えた鬼ヶ城一帯なのでした。


 鬼ヶ城の集落を上りきったところにある鴻巣台公園には「西南の役激戦の地」の石碑が立っています(後掲写真上)。
 この公園にほど近い丘には、広瀬武夫中佐の墓(後掲写真中)、さらに狭隘な平坦部に拓かれた市道を百メートルほど進むと、広瀬武夫中佐の生家跡(後掲写真下)があります。





 この戦いで、周辺の民家には火が放たれ、集落はことごとく焼失しました。焼け出された住民の中には、のちに「軍神」と呼ばれる広瀬武夫少年(当時九歳)の姿もあったのです(注2)。

 生きてこの地を退いた野村は、この後も各地を転戦、最後まで西郷に従い郷里の城山に至りましたが、ここでついに投降し、のちに鹿児島新聞社(現在の南日本新聞社の前身)を興したということです。

 それにしても、野村の率いる奇兵隊は、なぜ鬼ヶ城をさいごの反攻拠点に選んだのでしょうか。
 私自身は、薩摩藩伝統の郷中(ごじゅう)教育により「あの島津義弘公ですら落とせなかった」と語り継がれ、刷り込まれてきたからではないかと勝手に思っています(注3)。

(注1)
 安藤輝三は、二二六事件の首謀者のひとり。
 当初は時期尚早と蹶起に反対の立場をとりましたが、いざ蹶起するや、彼の指揮する中隊は最も強力な実行部隊となり、奉勅命令以降、他の青年将校が次々に脱落投降するなか、赤坂山王ホテルを占拠して最後まで頑強な抵抗を見せました。
 東宝映画『226』では、安藤大尉を三浦友和さん、山王ホテルの支配人を梅宮辰夫さんが演じていたと記憶しています。

(注2)
 この戦いで家が焼けてしまった広瀬一家は、武夫の父重武の赴任地である飛騨高山へと引っ越す事になりました。 
 なお、竹田市中心部、竹田市立歴史資料館前の広場には、大分県出身の彫刻家である辻畑隆子が手掛けた広瀬武夫のブロンズ立像が立っています。平成22年に2,000万円あまりを費やして建立されたのだそうです。

(注3)
 不幸なトラブルで惜しくも絶版となった池宮彰一郎の名著『島津奔る』のラストシーン、かつて義弘公の近習として苦楽を共にした中馬大蔵のもとに、子どもたちが「関が原の合戦のときのお話をお聞かせ下さい」とやって来ます。
 いまは老いた大蔵は「世に関が原の合戦と申すは…」と語り始めますが、さまざまな思いが去来し、言葉が続かずに号泣してしまいます。
 やがて少年たちは、一言も語らず絶句したままの大蔵に「いままででいちばん勉強になりもした」と礼をいい、感動した面持ちで帰っていきました。野村忍介にもそんな体験があったのでしょうか。


参考サイト;

  西南戦争茶屋の辻の戦い 

  奇兵隊展開

2014年12月5日金曜日

岡城と薩摩兵の縁(その2)

 前回は、滑瀬からの攻撃に三度失敗した島津勢に、岡城主志賀親次から『滑瀬は足場が悪い。渡河容易な浅瀬をお教えするゆえ、岡城南西方の鬼ヶ城にて雌雄を決したい』との文が届いたところまで書きました。

 ⇒ 岡城と薩摩兵の縁(その1)を見る

 このとき、豊後侵攻を急ぐ島津義弘は、すでに配下の部将稲富新助に兵五千を託し、久住方面に転進していました。
 矢文を受け取った稲富新助は、城方の申し出神妙であると感じ、鬼ヶ城決戦に応じたようです。

 当日早朝、島津勢が鬼ヶ城川向かいの小渡牟礼(おどむれ)で待ち構えていると、岡城からの使者がやってきて、浅瀬を指し示しました。

 それ、と島津勢が渡河を開始すると、川を渡り切るのを待っていたかのように、銃弾が降り注いできました。志賀勢はひそかに鬼ヶ城の高台に鉄砲隊数百を潜ませていたのです。
 志賀勢は、総崩れとなった島津勢をなおも追撃、首級数百を挙げる大勝利をおさめました。
 前出の郷土史誌によると、このとき志賀親次自ら鬼ヶ城至近の魚住(うおずみ)まで出馬し、督戦したということです。

 安土桃山時代最強の武装集団である島津勢も、豊後竹田では全くいいところのないまま、攻略を断念するほかありませんでした。

 島津勢の岡城攻めのお話はここまでです。

 でも、薩摩兵と岡城の縁はまだまだ続きます。時代は変わり明治維新期、薩摩兵はふたたび豊後竹田へとやって来ました。
 そして、それは日露戦争での逸話で知られる広瀬武夫中佐の生い立ちにも深く関わることだったのです。 (つづく) 
                                              
参考サイト 岡城攻防戦


 
 


2014年12月3日水曜日

岡城と薩摩兵の縁(その1)

 稲葉川と白滝川の激流を外堀代わりに、峻険な断崖絶壁を石垣代わりにもつ岡城(大分県竹田市)は、備中松山城(岡山県)、高取城(奈良県)と並び、日本三大山城のひとつにも数えられる名城です。

 一説には日本三大山城として、岡城にかえて岩村城(岐阜県)を挙げる向きもあります。女城主伝説で有名な岩村城も、たしかに一度は訪れてみたい壮麗な城郭ですが、実戦での折り紙つき(combat proven)という点では、岡城の敵ではないでしょう。

 いまに残る岡城の遺構は、江戸時代に中川氏が大幅な改修を加えたものです。しかし、この城の「難攻不落ぶり」を伝える最も有名な逸話はそれ以前、大友宗麟・義統父子の時代に、精強を誇る島津勢三万の大軍が押し寄せたときのもの。

 このとき、弱冠十九歳の城主、志賀親次(しがちかつぐ、洗礼名ドンパウロ)は、兵力一千の寡兵ながら、島津勢を城外で迎え撃ちました。

 大分県立図書館の郷土資料室で閲覧した郷土史誌(書名を失念しました)によると、島津氏来襲に先立って開かれた軍議の席上、籠城策を具申するものもありましたが、老臣某が進み出て「地の利は我が方にあり、城外で迎え撃つべし」と意見を述べると、親次は莞爾と笑って「よくぞ申した、そちに兵300を預ける」と言った云々の記述がありました。

 天正14年(1586年)、阿蘇から九州山地を越えて豊後に侵攻した島津義弘は、さしたる抵抗も受けずに岡城の支城幾つかを攻略したのち、岡城の南方に正対する片ケ瀬台地に陣を構えました。

 義弘がついに岡城総攻撃を下知したのは、本稿を書いている12月2日(もちろん旧暦ですが)のことです。

 薩摩兵は大挙して岡城の南側にある滑瀬(ぬめりぜ)に殺到します。しかし、城内に逃げ込んだとばかり思っていた志賀勢は、断崖絶壁を背に白滝川(大野川)対岸に陣地を築き、鉄砲で猛反撃してきました。
 銃撃されるもの、溺れるもの多数。島津勢は、おびただしい犠牲を出して退却するほかありませんでした。

 その後島津勢は、二度にわたり滑瀬からの渡河を試みるも、城方の抵抗が激しく、攻撃は失敗に終わりました。

 そのとき、島津勢に城主志賀親次からの矢文が届きます。次のような内容でした。

 『滑瀬は足場が悪い。渡河容易な浅瀬をお教えするゆえ、岡城南西方の鬼ヶ城にて雌雄を決したい』

 (岡城と薩摩兵の縁(その2)につづく

 下の写真は、現在の片ケ瀬の風景。大野川を挟んで、この真正面に岡城が臥牛のごとく横たわります。島津義弘もここから岡城を睨み、策を練ったのでしょうか。





2014年11月21日金曜日

『軍師勘兵衛』はどう描く?吉弘統幸と井上九郎衛門

 以前、当ブログで「石垣原の戦いにおける吉弘統幸と井上九郎衛門のエピソードは、必ずや大河ドラマ『軍師勘兵衛』で取り上げられるに違いない」と書きました(後掲関連記事参照)が、その期待がいよいよ高まってきました。

 石垣原の戦いは、現在の別府市市街地一帯を舞台に、大友義統と黒田如水が激突した西の関が原、ともいわれる合戦。

 この戦いで、大友方右備えとして現在の杉乃井ホテル付近に陣を敷いたのが、大友家中随一の槍の名手である吉弘統幸でした。

 戦いのさなか、死を覚悟した統幸は、かつて恩をうけた九郎衛門をわざわざ選んで槍をあわせ、その恩に報いるべく首を授けたともいわれます。

 その統幸を的場浩司さんが演じるとなれば、一番のクライマックスシーンをスルーする演出はありえないでしょう。

 さて、もう一方の将、井上九郎衛門は黒田家次席家老。

 石垣原の戦いでは、実相寺山(黒田如水本陣)西方の角殿山(現在のルミエールの丘)に陣を敷いたとされています。

 筆頭家老の栗山善助、三番家老の母里太兵衛と比較すると、ドラマでもやや影の薄い印象があるのが、高橋一生さんがクールに演ずる井上九郎衛門です。
 じっさい、黒田家中でも九郎衛門を「さしたる武功もないのに重用されている」とやっかむ向きもあったようです。

 それが、石垣原での奮戦で、ようやく愁眉を開いたのだとすれば、これまでの九郎衛門の「影の薄い感じ」もじつは伏線めいた演出だった、というのは、穿ち過ぎでしょうか(穿ち過ぎですよね)。

 さいごに、吉弘統幸が祀られている吉弘神社(別府市石垣西6丁目)の写真を掲げようと思ったのですが、撮った写真がどうしても見つからないので、吉弘神社ウェブサイトへのリンクを貼ってこれに代えます。

<関連記事>

  「『軍師官兵衛と永遠のゼロ』ツアー」




2014年10月5日日曜日

休日の朝、仕事場で聴きたい音楽三選

休日のトランポリン効果」という言葉を耳にしたことがあります。

休みの日に、きっぱり仕事から離れて積極的に休養をとることで、休日明けの仕事に対する意欲と効率が高まる、ということのようです。

確かにそのとおりだ、と私も実感するところがあります。個人的にも、毎週土曜日は原則として仕事から離れて、家族と過ごしたり、運動をしたり、体を休めたりすることに充てるようにしています。

ですが日曜日は、またちょっと違う使い方をしています。

事務所に出勤して、プロジェクトについて案を練ったり、雑駁なアイデアをノートに書き出したり、溜まった書類を見返してテーマ別にファイリングしたりと、いわば「急がないけど大事なことする日」にしているのです(注)。

ルーチンワークから離れることが容易で、電話もかかって来ない日曜日は、急がないけど大事なことをするのに最適。音楽でも聴きながら、ゆったりとした気持ちで、贅沢に時間を使ってこそ成果も上がろうというものです。

今回は、そんな休日にもってこいのジャズ系アルバムを三点ご紹介します。

1 Kenny Wheeler / Gnu High (1975/ECM)


先月18日に亡くなったカナダのトランペッター、ケニー・ホイーラーの最高傑作『ヌー・ハイ』。

のっけから天上高く舞い上がるような爽快感で、休日の朝にピッタリです(本稿もこれを聴きながら書いています)。

メインストリームから出発して、フリージャズに傾倒…などと紹介すると、セシル・テイラーやオーネット・コールマンを連想して敬遠したくなるかもしれませんが、この人の場合は心配ご無用。本作もフリーっぽいテイストを感じますが、それが開放感、スケール感を表現するのに大いに役立っていると感じます。(YouTubeで聴く



2 Aaron Parks / Arborescence (2011/ECM)


アーロン・パークスの『アルボレセンス』は、ピアノソロ作品。アーロン・パークスという人のことは、若手天才ジャズ・ピアニストと言われている、ということ以外、よく知らないのですが、これまで聴いてきたピアノソロ作品の中でいちばん「クラシック音楽ファン好み」という気がします。

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第一番みたいなテイストを感じることもあれば、リストのロ短調ソナタ風の響きを感じ取ることもあります。

彼のピアノトリオ作品も聴いてみましたが、響きがとても美しい、という印象は、ピアノソロ作品同様でした。(YouTubeで聴く




3 Keith Jarrett / The Köln Concert (1975/ECM)


なあんだ、という感じかもしれません。

「ポイントは3つあります」などと言われ、聞いてみると、3つめは1つめと同じようなことではないかとか、1と2に比べると3の重要度は格段に落ちるな、3は付け足しだな、と感じることがありませんか?

3枚めにキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』を持ってきたというのは、(名盤であることは誰もが認めるとしても)ありきたり過ぎ、付け足しがミエミエだと自分でも思います。(YouTubeで聴く




でも、奇しくも三枚全てがECM作品になってしまったことと併せ、いろいろ試してみた結果がこれ、というのが実際のところです。

休日のアイデア出しのお役に立てばさいわいです。



(注)各種セミナーの講師のご依頼をいただくことがありますが、そのネタのほとんどは、こうして日曜日に書き溜めたものを再構成して作っています。レジュメやプレゼンテーション・スライドを作る段になって「さあ、何を話そう?」と悩んだ経験はまずありません。


2014年9月25日木曜日

ハインリッヒの法則とまだ見ぬナガノコウイチさんのはなし

 ナガノコウイチさん、という名前には、かねてから聴き覚えがありました。

 私の行きつけの病院で、いつも呼ばれている名前だからです。

 私とよく似た名前のこの方、耳が遠いのか、いつも待合室に名前を呼ぶ声が何度も響きわたるのです。

 一度は私もナースステーションに申し出ました。

「あのお、ナガノケンイチですが、いま名前が呼ばれましたでしょうか?」
「いえ、ナガノコウイチさんをお呼びしました。もう少々お待ちください。」

 それで私も、ナガノコウイチさんと私は縁があるのだなあ、いつも同じ日にこの病院に来ているのだなあ、と思ったわけです。

 ところが、先日はちょっと勝手が違いました。ナガノコウイチさんを呼ぶ声がいつまでもやまないのです。

「ナガノコウイチさ~ん、ナガノコウイチさ~ん」。

 ナガノコウイチさんはいつになったら現れるのだろう?

 それに引き換え、俺の名前は呼ばれないなあ、まさか文盲率がゼロ同然のこの日本で、ナガノケンイチとナガノコウイチを読み違えないよなあ、と思っていたら、それ以上の取り違えでした。

「あの~、ナガノケンイチさんはいらっしゃいますか…?」。

 さきほどのナガノコウイチさんを呼ぶ声の半分以下の音量で、コソコソ聞き歩いている女性職員がいます。

 ようやく事態を理解した私は、「先程から、ナガノコウイチさんの名前をさかんに呼んでいたけど、ナガノケンイチのカルテと取り違えてたわけ?あきれたね!」と、周りの人にも十分聞こえる音量で、ゆっくり、はっきりと言いました。

 いつもの調子で怒鳴ってもよかったのですが、怒鳴りませんでした。この事態の15分ほど前に、職員相手に怒鳴り散らしているおじさんがいて、その振る舞いがじつに醜悪だったからです(おじさん、ありがとう。あなたのお陰で醜態をさらさずに済みました)。

 その後は、これまでにないスピードで診察に呼ばれ、会計窓口へと招じられました(いきさつ上、VIP待遇だったのでしょうか?)。

 さて。

 ハインリッヒの法則、という言葉に聞き覚えがおありになると思います。

 1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する、という事故と災害の関係を示した経験則です。当然、医療の現場にも妥当すると言われています。

 ニュースで、患者を取り違え、健康な臓器を摘出した、などという医療過誤を見聞きすると、そんなありえないことがなぜおこるのか?と思いますよね。

 でも、保険証を示し(診察券を提示することもある)、患者のフルネーム、生年月日、その他の情報もことごとく把握しているはずの医療機関が、受付でも、ナースステーションでも、そのミスに気づかない事態が日常的にあるとしたら。

 あっ、しまった!やべーやべー。それで済まされた異常事態がいくつかの偶然と相俟ったとき…ありえない医療過誤は起きているのではないか?そう思いました。

 今後私は、どこの医療機関でも、手渡されたカルテが本当に自分のものかどうか、きちんと確認しようと思います。

 でも、この「カルテの取り違え」には、水際作戦たる簡単なアイデアがあります。

 受付担当者が保険証と照合し、カルテを探しだした段階で、保険証の名宛人を呼ぶのではなく、カルテの名を呼べばいいのです。

 ナースステーションと違って、待っている患者は少数だし、リードタイムも一分以下です。カルテの取り違えがあれば、「えっ、それって俺のこと?名前が違うよ?」と、すぐに判明することでしょう(そもそもフルネームと生年月日の照合を必須とすべきことは言うまでもありません)。

 病院を出るときの私の胸には、次のような疑念が、ほとんど確信に変わろうとしていました。

「僕は、ナガノコウイチさんとほんとうにご一緒したことがあるのだろうか?毎度のように、カルテを取り違えられ、違う名前で呼ばれ続けていたのではないか?」

 
<追記>
専門職業家のなかには、おおきなミスの原因となるような気付きを「ヒヤリ・ハット事例」としてとりまとめている人たちもいます。業界の社会的信頼、ひいては社会的地位は、このような地道で、相互信頼と協働意識なしには生まれない活動の上に成立している、と思うこともあります。