2013年8月31日土曜日

長宗我部信親終焉の地(大分市大字上戸次)

 大分市最南端、上戸次地区の大野川右岸には、大分市と県南諸地域を結ぶ大動脈である国道10号が走っています。
 クルマの流れも早いので見逃しやすいのですが(大分市方面から南下する際に)左手を注意してみると「長宗我部信親終焉の地 御供七百余人」という碑が建っています。


 じつはこの地こそ、四国の雄・長宗我部元親の生涯を描いた司馬遼太郎の佳作『夏草の賦』終盤のクライマックスの舞台なのでした。

 天正14年(1586年)、島津勢の豊後侵攻に際し、大友宗麟の救援要請をうけた天下人豊臣秀吉は、九州平定のための大軍を発します。いわゆる九州征伐です。

 その先遣部隊として急派されたのが、長宗我部元親・十河存保・仙石秀久の各部隊を基幹とする四国連合軍でした。落城の危機に立たされた鶴賀城(大分市上戸次)救援のため、豊後府内から南下してきた彼らは、ここで島津家久率いる島津勢と激突することになります(戸次川の戦い)。

 劣勢であったため、元親は慎重論を説きますが、軍監仙石秀久(人気マンガ「センゴク」の主人公です)は、戸次川の渡河を強く主張し、結局元親らもこれに従わざるを得ませんでした。
 大軍を野に伏せて待ち構えていた島津勢は、川を渡り切るのをみはからって急襲、虚を衝かれた秀久が敗走したため、元親率いる土佐勢は大混乱となります。

 三隊からなる土佐勢のうち一隊を率いていた元親の長男・信親は、当時数えの二十二歳。長身白皙の英明な美青年で、武勇は家中随一、性格は温和で、部下や領民を非常に大切にしたため、周囲から深く敬愛されていました。

 元親は、この自慢の息子に惜しみなく愛情を注ぎ、かつ後継者として大いに期待を寄せていました。信親の英明ぶりは隣国まできこえ、元親と敵対していた土豪たちも「あのような優秀な後継者を擁する長宗我部に歯向かっても先がない」と、元親の軍門に下ったとまで言われます。

 さて、話を戸次川の戦いに戻しましょう。
 信親は奮戦しますが、敵の大軍の中に孤立したことを悟り、ここを死地と定めます。このとき信親麾下七百名余りの土佐兵は、口々に「御供」と叫んで信親と運命を共にしたそうです(このエピソードはNHK歴史秘話ヒストリアにも取り上げられました)。


 この戦いの死傷者数は、当時としても類例をみないほど多数に上ったようです。それは島津勢の精強ぶり、仙石秀久の失策の反映であるとともに、信親がいかに部下たちに慕われていたか、土佐兵のメンタリティがどのようなものであったかを物語るものとも言えそうです。

 下の写真は、当地の北東方の丘陵にある信親の墓。合戦当日に当たる12月12日には毎年慰霊祭が行われます。この地の人々は、遠く四国から豊後を守るためにやってきて、ここで命を落とした未来ある若者と、それに殉じた人たちのことをいまも忘れていません。



<参考サイト>

歴史秘話ヒストリア 美しき武将 戦国アニキの秘密~長宗我部元親 信長・秀吉と戦う~
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/159.html


戸次川合戦
http://www.oct-net.ne.jp/~faulen13/ktsp/hetugi.html













2013年8月25日日曜日

企業と就職希望者の「ご縁」

 企業の採用担当者が、応募してきた学生にお断りの連絡をいれる時、しばしば「今回はご縁が無かった」という表現を用います。

 私はこの、ご縁が無かった、という言い方が好きです。
 なぜなら、採用の成否というのはまさに両者の相性の問題であって、どちらかが振った振られた、というものではないと思うからです。

 長い就職氷河期は、企業側が一方的に学生を選ぶかのような風潮を生んだきらいがありますが、それは錯覚です。

 以前NHK教育テレビで放送されていた「地頭クイズ・ソクラテスの人事」は見ていて不快でした。
 この番組は、企業の人事担当者が出演し、解答者の中から誰を採用したいかを判定するものでしたが、いかにバラエティ番組とはいえ、「企業もまた学生から値踏みされているのだ」という視点を没却しているように感じたからです。

 採用の場面だけではありません。モノやサービスの供給者と需要者の関係も、一方的に需要者が選ぶものではなく、両者は本来対等に結びつくものです。
 業界によって(業者によって)違いはあるようですが、専ら選ばれるだけの供給者というのはある意味不健全ではないでしょうか。悪いのは選んだ側で、選ばれた自分はしようがなかった、自分はニーズに応えただけだ、という言い訳めいたムードをつねにまとっている感じがするのです。

 閑話休題(すべてが閑話かも知れませんが)。以前、信頼できる国際派のビジネスパースンに『採用に当たって、選考のポイントにしているのはどのようなことですか?』とお尋ねしたとき、返ってきた答えは次のようでした。

『知識には期待していないけれど、ある状況にどう対処するかを、これまでの知識を総動員して一生懸命考える人。そんな人を僕らの仲間として迎えたい。』

 その答えに、採用担当者を一方的な高みにおいて無いものねだりをするのでない、応募者と対等なスタンスを感じ、爽やかな気持ちにさせられたことを思い出します。








2013年8月23日金曜日

読書で出会う理想のリーダー像(その2)

 読書で出会う理想のリーダー像、二人目は、プロ野球史に残る名監督・三原脩です。

 水原茂、上田利治、広岡達郎、森祇晶。「知将」と呼ばれた名監督は何人もいますが、「魔術師」と呼ばれたのは、この三原をおいて他にいません。

 その彼の輝かしい球歴のなかでも、ひときわ光を放っているのが、九州の野武士軍団・西鉄ライオンズを率いて三年連続日本一に輝いた昭和31~33年と、6年連続セ・リーグ最下位に甘んじていた大洋ホエールズをいきなり日本一に押し上げた昭和35年の采配ぶりでしょう。

 後者のてんまつを関係者の証言をもとに再現したスポーツノンフィクションライター富永俊治の力作・『三原脩の昭和三十五年―「超二流」たちが放ったいちど限りの閃光』(宝島社)を書店で見つけたのは、ちょうど横浜ベイスターズが38年ぶりのリーグ優勝に向けて快進撃を続けていた頃だったと記憶しています。

 ところで、いま世間には「経験を活かす」と言いつつ、ある特定のケースでの成功体験を一般的に適用しようとする風潮がありますが、ほんとうに経験豊かなプロフェッショナル達は、じつに融通無碍に事を運びます

 大洋ホエールズに乗り込んだ三原もそうでした。ひとりひとりの選手たちにそれぞれ違ったやり方で接し、彼らに染み付いた「負け犬根性」を正すとともに、いまひとつパッとしない二流選手たちを「超二流選手」へと変えていきます。
 超二流選手とは三原の造語で、一流とは言えないけれど、(三原の示唆によって)自らの持ち味と持ち場を理解した選手たちのこと。三原は、不遇な二流選手たちを絶妙な起用で超二流選手に変身させ、ひいてはチームを変えていきました。

 権藤正利は、かつて新人王に輝いたほどの好投手でしたが、持病の胃下垂からくるスタミナ不足もあって勝ち星を挙げられず、このころには自信喪失から引退を決意していました。三原の説得で引退を思いとどまったこの年、彼はリリーフに転向し、防御率1.42の好成績を挙げました。

 王貞治が最も苦手とした投手として知られるサウスポー鈴木隆は、個性的過ぎてチームから浮き上がるきらいもある”ジャジャ馬”でした。三原は彼の侠気に訴え、当時は二線級の役割とされたリリーフに転向させます。最初は反発した鈴木でしたが、やがて自らの役割を理解するようになりました。誰よりも強気でここ一番に頼りがいのある鈴木がリリーフにまわったことで、大洋は俄然接戦に強くなっていきます。

 秋山登は、最下位チーム大洋にあって「掃き溜めに鶴」のようなリーグ屈指の好投手でしたが、味方の貧打・拙守に泣かされ続けるうち、ある意味目標を失い、一時の精彩を欠いていました。
 しかしこの年、快進撃の立役者となった彼は、シーズンMVPを獲得、日本シリーズでも4連投で日本一に貢献しました。(気がつけば投手ばかり例に引いてしまいました。申し訳ありません。)

 西鉄時代の三原にはこんな話もあります。こちらは、豊田泰光『風雲録―西鉄ライオンズの栄光と終末』(葦書房)から。

 昭和31年の日本シリーズに臨んだ西鉄ライオンズの選手たちは、「監督を男にするんだ」と鼻息荒かったといいます。巨人を追われて九州にきた三原の悔しかった身の上を知っていたからです。

 そんなガチガチに緊張した若い選手たちを前にして、並みのマネジャーなら「リラックスしていこう」と声を掛けるのかもしれませんが、魔術師はそんなことは言いません。彼はこう言いました。

『巨人は日本でいちばんいいチームだ。そして、強い。だから今日は勝たなくていい。ただ、よおく見ておきなさい。』

 力が抜けた豊田らは(三原の言いつけどおりなのか)初戦こそ落としましたが、二戦目以降は本来の実力を発揮し、見事日本一を手にしたということです。


<参考サイト>
これぞ三原マジック!大洋 最下位からの初優勝!!

2013年8月19日月曜日

読書で出会う理想のリーダー像(その1)

 前回は『リーダーは優れた人間でなくてはならないか』と題して、リーダーシップに関する話題をとりあげました。

 言わんとしたのは、今日的な理想のリーダーは「ひそかなリーダーシップでメンバーのリーダーシップを喚起する」人物なのではないかということです。

 しかし書物をひもとくと、かかる人物は昔からいたのだということがわかります。
 たとえば中国戦国時代の代表的兵法家である孫臏が著した『孫臏兵法』。孫臏は『孫子』の作者孫武の子孫で、斉の軍師としてその辣腕を天下に知られた人物です。

 以下は、その孫臏のエピソードです。

 魏恵王が邯鄲を攻めようと、将軍龐涓に命じて8万の兵を茬丘に進めさせたときのこと。斉威王は将軍田忌に迎撃を命じたが地の利は明らかに敵方にあった。

 田忌はすぐさま攻撃を受けている衛を救おうとするが、孫臏はこれを制止した。「衛を救わずにどうするのか」と問う田忌に、孫臏は「南下して平陵をお攻めください」。斉軍は進軍して平陵に急行した。

 孫臏は「参軍している将軍たちの中で、無能な者は誰でしょうか」と問うた。 田忌は「斉城と高唐であろう」と答えた。孫臏は「斉城と高唐に敵を攻めさせてください」と言った。
 斉城と高唐が平陵に攻め寄せると、魏軍はたちまちその背後に迂回してこれを挟撃したため、斉軍は大敗、斉城と高唐は戦死した。

 田忌は孫臏に「平陵は攻め取ることもできず、斉城と高唐は敵に破られた。どうしたらよかろう」と言った。孫臏は「どうか身軽な兵車部隊を作り、 大敗の腹いせに大梁で略奪行為を働いているよう見せかけ、敵を激怒させましょう。さらに軍を分散して進軍させ、寡兵であると見せかけましょう」と答えた。

 こうした斉軍のありさまを見て、敵将龐涓は輜重を捨てて昼夜兼行でかけつけてきた。斉軍は愚かで士気も低く、戦力は低下している。まさに勝機とみたのである。

 しかし、斉軍が繰り返した数々の拙攻は、魏軍に自ら地の利を捨てさせるためのワナだった。満を持した斉軍はついに強行軍に疲れ切った魏軍を桂陵でさんざんに打ち負かし、龐涓を捕えた。

 このエピソードに感嘆したのは、じつは孫臏の知略縦横ぶりゆえではありません。田忌将軍の器の大きさというか、忍耐と揺るがない姿勢に心を打たれたのです。

 田忌将軍と孫臏のやりとりは、まるでドラマ「相棒」における杉下警部と神戸くん(または甲斐くん)の関係のようではありませんか?田忌将軍のほうがはるかに目上なのに。しかも、孫臏は献策の真意を田忌将軍に伝えようとはしていません。

杉下警部 『これで事件の全貌がわかりました。』
神戸くん 『どうわかったんでしょう?』
杉下警部 『きみにもすぐわかります。』
神戸くん 『いま教えてくれないんだ。(独白)』 というような感じ。

 それでも年の功か、田忌将軍は素直に孫臏の献策を受け入れ続けました。田忌という優れた上司がいなければ、斉の勝利も、孫臏の名が天下に轟くこともなかったというべきでしょう。


なお、上記エピソードは、以下のサイトの記事を参考に再構成したものです。

   孫臏兵法  http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/book24.html



2013年8月16日金曜日

リーダーは優れた人間でなくてはならないか

 組織ときくと、ついピラミッド型の組織構造を連想し、リーダーときくとその頂点に立つ実力者を連想しませんか。

 しかしながら「リーダーは組織の中でいちばん優れた人間でなくてはならない」と考えるリーダーが率いる組織のパフォーマンスは、そのリーダーの力量に制約されます。

 なぜなら、そのリーダーは、「優れているはずの」自分の理解の及ばない意見具申を採り上げるわけにはいかないし、自分以外のメンバーが指導的立場に立つことも許容できなくなるからです。リーダーの姿勢は自然と、組織のパフォーマンスを最大化することより、自分が主導権を握ることに重きを置きがちになります(しかも残念なことに、リーダーが組織の中で最も優れた人間である保証はまったくないのです)

 そもそも本来のリーダーの使命は、ゴール(目的・到達点)を明らかにし、組織構成員の持ち味をつかみ、貢献意欲を引き出し、その貢献を無駄なく組み合わせてゴールを目指すことです。
 ゆえに、リーダーはつねに「目的は何か」に照らして発言し、行動する(ときにはむしろ自制することも大切でしょう)よう心掛けなくてはなりません。かかるリーダーの役割が全うされれば、組織のパフォーマンスは自ずとリーダーの力量以上になるはずです。

 川村 尚也『「王様のレストラン」の経営学入門―人が成長する組織のつくりかた』(扶桑社 1996)は、フジテレビの人気ドラマを題材に「クリエイティブなチームを作るにはどうすればよいか」を論じた興味深い本でした。
 本書が提示した組織のビジョンは「素晴らしい能力を持ったリーダーはいらない。チームメンバー個々が状況に応じてそれぞれの特性を活かしてリーダーシップをとれるようになっていく。」というもの。
 つまり「リーダーシップを発揮する人物」は組織にとって不可欠ですが、「リーダーという肩書の人物」は必要ないわけです。

 逆説的ですが「リーダーの経験能力はさほどでもないのにパフォーマンスが高い」組織のリーダーこそ、本当は優れたリーダーなのかもしれませんね。




2013年8月15日木曜日

戦争詩を愛でてはいけないのですか

 きょうは終戦の日。前々回、前回に続き、もうひとつだけ太平洋戦争の話題をとりあげます。

二つなき祖国のためと

二つなき命のみかは

妻も子も親族(うから)も捨てて

出でましし彼の兵の

徴ばかりの御骨は還り給ひぬ

 三好達治の詩「おんたまを故山に迎ふ」の一節です。

 この詩を知ったのは、TBSが1997年に放送したドラマ『向田邦子終戦特別企画「蛍の宿」』がきっかけでした。

 航空隊基地のある町で遊廓を営むすず子(岸惠子)を母のように慕う航空隊士官・稲垣(椎名桔平)が好きだった詩、という設定でした。一貫して空襲の場面も特攻の場面も出てきませんが、戦争を描いて人のこころをうつのにそれは必要ないことを見事に証明したドラマでした。終盤、ナレーター黒柳徹子の語りが涙声になったことをいまでも鮮明に覚えています。

 この詩の作者である三好達治は、その旺盛な創作活動の割には、詩人として評価されていない印象を受けます。それは戦時中、多くの戦争詩をつくって「戦争に協力した」ことが大きく作用しているのだと思います。

 当時、多くの文学者や芸術家が創作活動や戦地報道・慰問などさまざまな形で戦争に協力しました。残された戦争絵画や音楽には素晴らしいものも少なくありません。
 しかしながら、現在に至るも、それらに光があてられることは少なく、とりあげられる場合も否定的なニュアンスであることがほとんどです。
 その背景には、大東亜戦争はあってはならない戦争だったのだから、その戦争に協力したものは罪人であり、戦争協力的な色彩を帯びた文学や音楽には積極的な評価を与えてはならない、という無言の合意があるのでしょう。

 芸術家の戦争協力を批判的にとりあげた図書としてまっさきに思い浮かぶのは森脇佐喜子「山田耕筰さん、あなたたちに戦争責任はないのですか」(梨の木舎1994)です。たしか、恵泉女学園大学の学生であった彼女の卒業論文をベースにした著書だったと記憶しています。

 内容に惹かれ一読しましたが、山田の戦争協力の経緯を史料に基づいて丹念に追っており、「大学生の卒業論文としてはまさに出色の出来栄え」でした。しかし、私の記憶の限りでは、本書のどこにも「戦争責任とは何か」についての突っ込んだ記述はなかったと思います。

 わたしは常々、現在の「護憲」「改憲」「脱原発」「教育再生」といった活動に積極的に取り組まれている方々に対し、主張の違いを超えて敬意を表したいと思っていますが、彼ら「率先者」もいつか「何もしなかった人たち」や「たんなる追従者たち」に断罪される日が来るのかもしれません。

<参考サイト>

評価されない偉人、山田耕筰

 http://www.tsurukame.com/hall/critique9608.html










2013年8月13日火曜日

大洲総合運動公園の石碑のはなし

前回に続き、太平洋戦争にちなんだ話題をとりあげます。今回は、私の住む大分市にちなんだ話題です。

大分市の大洲総合運動公園は、旧大分空港跡地を公園として整備したもので、敷地内には野球場・プール・体育館などが配置されています。その中ほど、テニスコートとバレーコートに挟まれた庭園の南端に、小さな石碑があることに気付くはずです。


表には「神風特別攻撃隊発進之地」の文字。裏には「昭和二十年八月十五日午後四時三十分 太平洋戦争最後の特別攻撃隊はこの地より出撃せり その時沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名 左の如し…」として18人の名が刻まれています。

 つまり彼らは、玉音放送を聞いたのち出撃していったわけで、それゆえ後年さまざまな批判や疑問が投げかけられることになりました。曰く、搭乗員は終戦を知らされていなかったのではないか…などと。
まず、ひととおりこの事件(以下、「宇垣特攻」といいます)の一般的な説明をすれば、次の通りです。

終戦当時、南九州方面の特攻迎撃を担当していた第五航空艦隊(基地航空部隊)は、司令部を大分海軍航空隊(現在の大分市津留・大洲地区)に置いていました。
第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏中将は、昭和二十年八月十五日、玉音放送の後、彗星艦上爆撃機11機とその搭乗員を道連れに特攻自決をしたといわれています。これが宇垣特攻の概略です。

 この特攻自決をテーマにした著作としては、松下竜一『私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち』、城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』が知られています。両著作の記述のニュアンスの違いもまた興味深いものです。

松下竜一『私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち』城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』


 なお、以下の関連サイトには、この事件についてのさまざまな解説・分析などが掲げられており、興味がつきません。

鳥飼行博研究室・宇垣纒司令官による最後の特攻

 →関係者のコメントや写真で事件の全容をわかりやすく解説しておられます。これを読むと、遺族を含む関係者らが事件をどう受け止めたのかまでわかります。

老兵の繰り言・「私兵特攻」に疑問

 →松下の著書『私兵特攻』を名著と認めたうえで、本書の記述に即して「宇垣特攻はじつは八月十六日だったのではないか。そう考えると不可解な点のつじつまが合う。」と問題提起をされています。きわめて説得力に富む記述です。



2013年8月11日日曜日

”犬死”はさせない~撃墜王と中攻のエピソード

 八月は、私たち日本人にとって、過去を振り返り、亡くなった人に思いを馳せる月。

 ブログの主旨からは逸脱しますが、今月は太平洋戦争にちなんだ話題をとりあげたいと思います(もうずいぶん前から「不動産鑑定士の隣接周辺業務」というメインテーマから離れっぱなしという気もしますが…)。

 坂井三郎といえば、64機撃墜の記録を持つ零戦のエースパイロット。著書『大空のサムライ』の原著である『坂井三郎空戦記録』は、『SAMURAI』のタイトルで英訳され、海外でもベストセラーになったと聞き及びます。
 欧米人が零戦に対して抱く「東洋の神秘」めいたイメージは、ことによると彼の著書の影響に負うところが大きいのかもしれません。

 以下に、彼の著書の中でも、最も私の印象に残った逸話について、その要旨を掲げます。出典は坂井三郎著『続・大空のサムライ』(光人社)です。


 坂井たちは、ラバウルにきてまもなく、ある噂を耳にした。その噂というのは、中攻隊に新たに配属された一機は、一時敵(土民軍)の捕虜になった経緯があり、それで上層部から「早く自爆させよ」という指令が出ている、というものであった。
 彼らはいつも、最も敵に狙われやすい編隊の右最後尾を与えられ、宿舎でも暗い表情で他の隊員たちに遠慮しているというのである。

 憤りを感じた坂井は、相棒である二番機の本田敏秋二飛曹に告げた。
「そんな馬鹿なことがあってなるものか。命をかけた俺たちの戦友、仲間ではないか。零戦隊の意地にかけても、この一機は守り通すぞ。」「指揮官機を落とされようとも、あの機だけは何としても守りましょうよ。」と本田も応じた。
 ただ、肝胆相照らす仲の笹井中隊長には告げなかった。いかに笹井といえども、こうした下士官の意地は理解してもらえないと思ったからだ。

 機会は翌日、早速やってきた。中攻隊右翼の護衛を命じられたのだ。もちろん、たとえ左翼の護衛を命じられたとしても、命令を無視して勝手に(くだんの中攻がいる)右翼の護衛に回るつもりだった。
 坂井が中攻隊に近付いていくと、各機の搭乗員達が「よろしく頼むぞ」というように手を振ってきたが、接触の危険があるほどになおも接近してくる坂井の異例の行動には驚いた様子だ
 右翼最後尾を飛ぶ、くだんの中攻のすぐ横に機体を寄せた坂井は、風防を開け、「頑張れよ!命を粗末にするなよ!必ず守るからな!」と叫んだが、エンジンの爆音にかき消され相手には届かない。ただ、坂井が一生懸命何かを伝えようとしていることはわかったようだ。

 飛行手袋を手旗代りに信号を送ろうと試みたが、上手くいかない。焦る坂井に、二番機の本田が知恵を授けてくれた。風防に字を書いたらよかですよ。
 それだ!と思った坂井は、風防に一字一字ていねいに逆文字を書いた。

 ム…ダ…
 キ
 ガ

 一人が双眼鏡で文字を読み取り、一人が記録板に書き入れていた様子だったが、ようやく伝わったらしく、全員で手を挙げて了解の合図を返してきた。
 坂井は、ほっとすると同時に、命にかけてこの一組の搭乗員たちを守ることをあらためて心に誓ったが、自分があの立場だったらどんなに辛いだろう、と思うと涙が止まらなかった。上官の命令どおりに行動した搭乗員がこんな処遇を受けることがどうしても納得いかなかった。彼らに対する同情ではなく、自分たち自身にとって重大事だと思ったのだ。

 坂井たちはその後も、何度となく中攻隊の護衛についたが、彼らに対しては一度も敵戦闘機の攻撃を許さなかった。
 聞くところによると、彼らは、のちにガダルカナル方面で壮烈な戦死を遂げたとのことであるが、この戦死は強要されたものではなかったという。

(注)中攻とは、「中攻」とは、「陸上中型攻撃機」の意味。海軍が地上の基地から運用する双発の雷撃・爆撃機です。ここでは、九六式陸上攻撃機を指していると思われますが、一式陸上攻撃機(中攻に対して陸攻と呼ばれる)である可能性も否定できません

追記 
私自身はまだ見ていませんが、上記のエピソードは、藤岡弘主演で制作された東宝映画『大空のサムライ』(1976年)にも採り上げられ、くだんの中攻の機長を地井武男が演じているそうです。

関連記事
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戦史遺跡と不動産鑑定士  http://areasurvey.blogspot.jp/2012/08/blog-post_9.html
宇佐市平和資料館に行ってきました  http://kencrips.tumblr.com/post/57599917221