2013年2月25日月曜日

寝かせることの意味


 「一晩ねかせたカレーはおいしい」とよく聞きます。実際その通りだとも思います。

 なぜなのでしょうか?
 江崎グリコのホームページを見ると、
『ひと晩寝かせたカレーは、具材からエキス(うまみ物質、甘み物質、無機質等)がカレーソースに移行し、コクが増すといわれています。またスパイスのとがった香りが減少したり、野菜が溶け出すことで、香りや味がまろやかになります。』ということなのだそうです。

 じつは、私も、寝かせています。カレーを?いいえ、鑑定評価書をです。

 弊社では、不動産鑑定評価書をお客様にご提出する前に、製本しないまま数日手元にとどめおくのが通常です。というより、提出日から逆算して、立案完了から数日の空白期間を確保している、といったほうが正確かもしれません。

 なぜか。その数日の間、自分自身と事務担当者によって校正を行うのはもちろんですが、それだけではありません。
 自分自身からの『試算価格の調整段階で、異なる観点から験証すべきではなかったか?』『依頼目的の記述は、このキーワードを用いてより具体的に記述すべきではないか?』というような心の声を待っているのです。

 これまで、そのような心の声に救われたことは何度もありますが、校正途中で気付くことはむしろ少なく、気付くのはたいてい寝起きだったり、通勤途上だったり、入浴中だったりします。

 私たちの脳のOS(オペレーションシステム)というのはじつに高性能で、多種多様な情報処理を同時並行でおこなっており、その答えがふいに表示される、それを私たちはヒラメキとか思いつきと呼んでいるのだ、と以前聞いたことがあります。

 それが正しいとすれば(そして答えがふいに表示されることをヒラメキと呼んでいいならば)、ヒラメキの足りない人と言うのは、

   ① 脳に十分な情報をインプットしていない

   ② 脳の演算開始ボタンを押していない
  
   ③ 情報処理に必要なだけの時間を脳に与えていない

ということなのかもしれません。

 新米無名ブロガーの私が最近気付いたのは、このヒラメキ(のようなもの)をうまく使うと、あまりエネルギーを消耗することなく、ブログを楽に継続できるということでした。

 次回は、そのことについて書いてみたいと思います。




2013年2月20日水曜日

零戦と経営革新


 旧日本海軍の三菱零式艦上戦闘機(零戦)は、高い運動性と重武装、長大な航続距離を併せ持った優秀機でした。熟練搭乗員に恵まれたこともあって、大戦緒戦期には敵を寄せ付けない圧倒的な強さを発揮したと言われています。
 徹底的な軽量化の追求が生んだイノベーションの産物といってよいでしょう。

 しかし、アメリカ海軍も、手をこまねいていたわけではありません。
 零戦に対抗できる新型機の実用化を急ぐ一方、性能の劣るグラマンF4ワイルドキャット戦闘機を二機ペアで運用する戦法(一機がオトリになって逃げ、もう一機が追撃する零戦を背後から襲う)を編み出し、次第に零戦に損害を強いるケースが増えていったようです。
 そして、日本側はこのことに終戦まで気づきませんでした。

 このエピソードを紹介する、鈴木博毅『「超」入門 失敗の本質-日本軍と現代日本に共通する23の組織的ジレンマ』(ダイヤモンド社)は、戦略とは「目標達成につながる勝利とつながらない勝利を選別し、目標達成につながる勝利を選ぶこと」と規定します。

 そして、戦略の違いは「追いかける指標の違いに由来し、その指標の有効性(目標達成につながる指標である度合い)が戦略の優劣を決める」と述べます。

 さらに「たまたま勝利することがあっても、指標を認識しない勝利は継続できない。再び偶然の発見に依存しなければならないからである。」と、体験的学習の積み上げによる成功を成功例と呼び、成功要因をクリチカルに特定しようとしない、日本企業の文化を厳しく指弾しています。

 戦略を「以前の成功体験をコピー、拡大生産すること」であると誤認すれば、環境変化に対応できない精神状態に陥る、と言うのです。

 「追いかける指標の違い」は、ゲームのルールをいやおうなく変えていきます。さきのエピソードに即して言えば、空戦の勝負は「単機対単機の性能と技量で決まる」ものであったところに、アメリカ軍は「フォーメーションで勝つ」という新しい発想―モノによらないイノベーション―を持ち込みました。同書は、これを「ゲームのルールを変えたものだけが勝つ」と表現しています。

 「体験的学習の積み上げによる成功を成功例と呼び、成功要因をクリチカルに特定しようとしない」という同書の指摘は、いまの中小企業支援の在り方にそのままあてはまる気がします。

 たとえば、いまの経営革新の取り組みの多くは「魅力ある新メニュー(製品)の投入」のような、モノに着目したものです。これが私には「敵よりも優秀な戦闘機を開発する」ことのみを志向し、「戦い方が変わったことに気づかなかった」かつての日本海軍の姿とダブって見えてなりません。

 わが方がことを企てる間、敵が黙って待っていてくれるわけはありません。「魅力ある新メニューの投入」という経営政策をすべてのライバルが掲げ、同じような手段と熱心さで取り組んだとしたら、競争の枠組みは当方に有利に変わるのでしょうか?

 否、かりに「魅力ある新メニューの投入」が成功要因であるとして、これまで「魅力ある新メニューの投入」ができてこなかったのはなぜなのでしょうか。改革のポイントは、むしろその原因を除去することにあるのかもしれないし、除去困難なものなら他の文脈での勝利を目指すのが至当ではないのでしょうか。
 百歩譲って、新メニューが大当たりしたとしても、企業に「魅力ある新メニューの投入」をなしうる素地が育っていなければ成功は一過性のものに終わるでしょう。

 飲食店の成功要因=「魅力ある新メニューの投入」のような、硬直的・単眼的発想こそ、旧態依然たる「指標」を追いかけるものであり、他の誰かが「ゲームのルールを変える」ことを許すものと言えないでしょうか。



2013年2月15日金曜日

仕事の質を高めるたったひとつの心がけ


 「標準語」と呼ばれる言語の基礎が築かれる過程では、いわゆる言文一致運動に象徴されるように、文壇が大きな役割を果たしたとされています。
 丸谷才一もかつて、文士たちは(標準語のベースになった)山手言葉を舌なめずりしながら活写したに違いない、という趣旨のことを述べていました(原典が手元にないので不正確である点ご容赦願います)。
 当代の人気小説家でいえば、さしずめ都会のサースティな雰囲気とそこに生きる若者の空気感を見事に表現してみせる石田衣良のようなイメージでしょうか。

 石田衣良が小説の中のキャラクターをいきいきと描くことに心血を注ぐのは、当然作品をいいものにしたいからに違いありませんが、かりに登場人物たちの会話が、同時代の雰囲気を的確に伝えることに成功していないとしても、それが小説全体の出来に及ぼす影響は限定的であるとも思われます。
 でも、その一貫した姿勢が、結局は「現代の思春期世代が鮮やかに描き出されている」「都会の持つキラメキみたいなものがすごく伝わってくる」「キャラクター設定がすごくリアル」といった評価につながっているのでしょう。

 私も不動産鑑定評価書をつくる際、なるべくお客様にとってわかりやすい、役に立つものになるよう心を砕いているつもりです。
 でも、それを「すべては顧客満足のために」と言ってしまうことには、少しばかり違和感があります。不謹慎な言い方かもしれませんが、むしろ「面白がっている」という表現のほうがしっくりくる気がします。

 「継続賃料の評価にあたって、差額配分法・利回り法・スライド法・賃貸事例比較法(さらに公租公課倍率法と収益分析法を加えることもあります)の説得力に係る評価を表にして示したらわかりやすいのではないか?」「旅館の評価などで多数の建物があるとき、土地・建物・工作物の配置図を作成して、建物のアイコンを付けたら見やすいのではないか?」と楽しみながら、その思いつきをカタチにしているのです。

 実のところ、お客様のニーズはもっとシンプルなのかもしれません。しかしながら、「手慣れた感じで仕事を進めることの悪弊」というか、つねに創意工夫する心掛けがなければ、成果物も筋道だったものになりにくいのではないかと思うのです。そして、そのような心掛けは、どこかで誰かに伝わっている気がします。だから私は「神は細部にやどる」という言葉が好きです。

 ところが、極端なテンプレート主義に陥ると、ときに変な成果物が出現します。例を挙げれば、法務局と裁判所の周りに形成された商業集積の評価で、法務局に隣接している旨の記述が一切出てこない評価書を見たことがあります(地域一番店である百貨店から何キロ離れている、ということが詳細に書かれていました)。

 お客さんにとって何が役に立ち、何が役に立たないかをあらかじめ正確に知ることができない以上、「こうしたら喜んでくれるかな~」と思いつつやるしかない、というのが私の考え方です。
 つまるところ、自分の仕事の質を高めるのに、「ここはオイシイ場面だぞ」と舌なめずりしながら面白がって取り組むのにしくはないと思うのです。




2013年2月12日火曜日

なぜ人はFacebook友達を切るのか


 先日、コロラド大学デンバー校が行ったFacebookに関する研究結果を取り上げたニュースを目にしました(下記リンク参照)。

 これによれば、Facebookで友達から削除(アンフレンド)されると、削除された側の4割の人が相手との交流を全力で回避するようになるとのことです。

 たいへん興味深い話ではありますが、この研究の最も重要なインプリケーションは、そこにはないと思います。注目すべきは「そもそもなぜ人は友達を切るのか」、その理由についての調査結果のほうでしょう。

 この点、同研究は「つまらないと感じさせる投稿が延々と続くこと」が最大の理由であり、他には「政治色、宗教色が強過ぎる投稿」も原因となると指摘しています。

 思い当たるところがないでしょうか。私はあります。たくさんあります。

 わが身を振り返っての第一の懸念は、「とかく他人に対して批判的な投稿が多いことが見る人を不快にさせていないか」という点。第二の懸念は、「投稿が頻繁すぎないか」という点でした。

 その反省の表れとして、実にささやかなことですが、二つの対策を講じました。

 ひとつは、厳しい内容を含む投稿は、直接Facebookに投稿することを避け、ブログにまとめることにしたことです。Facebookには、ブログを更新した旨だけアップするよう改めました。

 ふたつ目は、TumblrからFacebookへの自動投稿を中止したことです。私は、以前から気に入った記事をTumblrに収集しており、リブログ(Twitterでいうリツイートのようなものです)の都度Facebookに自動的に流し込んでいましたが、ときに自動投稿が集中することもあるので、とりやめにしました【よかったらTumblrのほうもご覧ください…http://kencrips.tumblr.com/】。

 なお、これらの対策を講じたのは、くだんの研究結果を見るより前のことでした。対策の必要に気づかせてくれたのは、Facebookのウォールです。Facebookは、ほんとうにいろいろなことを教えてくれます。

 今後も、お気づきの点があれば、ご教示くださいますようお願いいたします。


Facebookで友達削除されたら「もう会いたくない」4割---米大学の調査

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20130205/454261/?ST=network






2013年2月8日金曜日

「はっきり言って」の戒め


 大学生の頃、教養科目で「文学」の授業をとっていました。担当教授はたいへん温厚な方で、いわゆる「楽勝」な講座として学生に人気がありました。
 授業の進め方もじつにユニークでした。まず各自に短冊状の紙が5枚ほど配られます。その紙に、先生の問いに対して簡潔な意見を記し、提出します。

 例えば、「ルース・ベネディクトは、『菊と刀』で、欧米が罪の文化であるのに対し、日本は恥の文化である、と規定しましたよね。この点について評価してください」といった具合です。

 先生は各自の意見をいくつか紹介し、これを評したり、さらに次の問いかけに結びつけたりされます。学生の意見に、面白い視点やざん新なメタファーを見出すと、とてもほめてくださいました。
 
 そんな居眠りしている暇のない楽しい講義にも、ただ一点、厳然たるルールがありました。それは「『はっきり言って』と言ってはいけない」ことです。

 なぜか。先生によれば「『はっきり言って』というフレーズは、はっきり言えない時に必要なもの。本当にはっきり意見を述べれば、『はっきり言って』はいらない」。

 確かに、駄本の書評をするときに「はっきり言って駄作だと思います」というフレーズは不必要なように思われます。その本が駄作であることを示す要素、たとえば剽窃や事実誤認、結論の説得力の無さ、前著と比較したときの新規性の不足などを具体的に示すことができれば、駄作といわずとも、評者がその本に対して下した評価は、十分に読者に伝わることでしょう。

 先生が授業で伝えたかったのは「論理的に考え、表現すること」であったと今はわかります。ですが、ロジカル・シンキングがもてはやされる昨今でも、論理性軽視の風潮にさして変化はないようです。「ロジック重視」という人たちから「その意見はなんとなくロジカルじゃない」などと論理性とかけ離れた発言があると、たいへん残念な気持ちにおそわれます。






2013年2月4日月曜日

ブログタイトル『浅想録』の由来


 先日、知人に「きみのブログのタイトルは、なぜ『せんそうろく』なのか?」と訊かれました。

 どうこたえたものかと迷って、その場ではご説明できなかったので、この場を借りて「ブログタイトルの由来」について書いてみたいと思います(あまり面白い話でないことは最初にお断りしておきます)。

 一番短い説明は、「宇垣纏という人が書いた有名な日記『戦藻録』をもじって、浅い想いの記録という意味で付けたタイトル」というものです。でも、これではちょっと説明不足なので、以下に補足説明を付け加えることにします。

【補足1:『戦藻録』(せんそうろく)とは何か】

 『戦藻録』(せんそうろく)は、太平洋戦争開戦時、連合艦隊参謀長の要職にあった宇垣纏海軍中将が記録した陣中日誌です。
 宇垣自身はタイトルの由来を「戦の屑籠、否戦藻録と命名」したと述べていますが、内容はまさに「戦争録」で、日本海軍の実戦部隊司令部の実態をしめす極めて貴重な記録とされています。

 戦後、遺族から第六巻を借り受けた黒島亀人(開戦当時連合艦隊高級作戦参謀)が同巻を紛失するなどしたため、すべての記録が残っているわけではありません。この点、阿部牧郎『遙かなり真珠湾 山本五十六と参謀・黒島亀人』は、自分に都合の悪い記述を発見した黒島が意図的に処分した可能性を指摘しています。『戦藻録』が作戦の背景と経過を知るうえでいかに重要な資料だったということを物語るエピソードとも言えそうです。

【補足2:『戦藻録』(せんそうろく)と大分市との縁】

 記録は、昭和16年(1941)10月16日にはじまり、1945年8月15日に終わっています。終戦の日に終わった理由は、その日宇垣が行方不明(おそらく死亡)になったからです。
 終戦当時、第五航空艦隊司令長官であった宇垣は、司令部を大分海軍航空隊(現在の大分市津留・大洲地区)に置いていました。当日は玉音放送ののち、「戦藻録」最後のページを書き終え、彗星艦上爆撃機に乗り込んで特攻自決をしたとされています。

 この特攻自決をテーマにした著作としては、松下竜一『私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち』、城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』が知られています。両著作の記述のニュアンスの違いもまた興味深いものです。

【補足3:もうすでにあった『浅想録』(せんそうろく)】

 ブログを開設した後に気づいたことですが、じつはネット上に、私よりずっと前に『浅想録』(せんそうろく)という文章を綴っていた方がいらっしゃいました。『連邦皇国』なる軍事系サイトの中に、『浅想録』と題して水上兵器に関する論考をなさっています。
 同じようなことを考える方がいるんだなあという親近感と同時に、類似のタイトルについてもっと調べるべきだったという申し訳ない気持ちを抱きつつ、今日に至っています。




2013年2月3日日曜日

Facebookページの「いいね!」の意味


冒頭からいきなり恐縮ですが、Facebookページに関する質問をさせてください。

【質問】
Facebookページには「友達を招待」する機能がありますが、友達を招待するのは何のためでしょうか。

 正解は私にもわかりません。正解・不正解を判定する立場にもありません。ただ、自分なりに考えてみるに、少なくとも、「ファンを増やすため」「効果的に情報発信を行うため」という答えには及第点をあげられない気がします。

 「そのお友達に見てもらいたい投稿があるから」という答えなら腑に落ちます。Facebookページへの招待にうんざりしている人が多い(私も例外ではありません)理由は、それぞれ異なる関心を持った友達を、「ファンを増やすため」という(相手に関係のない)勝手な理由で、十把一絡げに扱われていることが不本意だからです。

 「きみはこういうの好きだと思うから」というメッセージつきの招待だったら(あまり的外れでなければですが)、私は喜んでFacebookページを見せてもらうし、その結果ファンになるかもしれません。

 学校教育において、テストの点数が重要業績評価指標(KPI)にされるのは、点数が科目理解度(目標)を測るものさしとして意味があると考えられているからです。カンニングで押し上げられた点数は、もはや科目理解度の指標たりえないことは当然です。

 Facebookページでは、ページや投稿に対する「いいね!」の数がしばしば重要業績評価指標とされます。もちろん、「いいね!」の数そのものに意味があるわけではなく、それが「ファンの数やその支持の強さ、相互交流の深さ」を測るものさしとして意味があると考えられているからにほかなりません。

 さて、あなたのFacebookページの「いいね!」の数は、ファンの数やその支持の強さ、相互交流の深さを反映したものでしょうか。
 そして、あなたにFacebookページの運用についてのアドバイスをくれる人は、上手いカンニングの仕方ではなく、科目理解度を着実に上げていく方法(目標達成手段)を指南してくれているでしょうか。

(追記)
 じつは、Facebookページには、「いいね!」の数と同じくらい、否、それ以上に重要な業績評価指標があると感じています。それは、『「いいね!」を押した人たちの中にインフルエンサー(ここでは広く友達に影響を及ぼしうる人、といったほどの意味で使っています)が何人いるか』です。そして、この人たちとの緊密な信頼関係を築くことが、Facebookページの成功要因だとも思っています。