2013年2月15日金曜日

仕事の質を高めるたったひとつの心がけ


 「標準語」と呼ばれる言語の基礎が築かれる過程では、いわゆる言文一致運動に象徴されるように、文壇が大きな役割を果たしたとされています。
 丸谷才一もかつて、文士たちは(標準語のベースになった)山手言葉を舌なめずりしながら活写したに違いない、という趣旨のことを述べていました(原典が手元にないので不正確である点ご容赦願います)。
 当代の人気小説家でいえば、さしずめ都会のサースティな雰囲気とそこに生きる若者の空気感を見事に表現してみせる石田衣良のようなイメージでしょうか。

 石田衣良が小説の中のキャラクターをいきいきと描くことに心血を注ぐのは、当然作品をいいものにしたいからに違いありませんが、かりに登場人物たちの会話が、同時代の雰囲気を的確に伝えることに成功していないとしても、それが小説全体の出来に及ぼす影響は限定的であるとも思われます。
 でも、その一貫した姿勢が、結局は「現代の思春期世代が鮮やかに描き出されている」「都会の持つキラメキみたいなものがすごく伝わってくる」「キャラクター設定がすごくリアル」といった評価につながっているのでしょう。

 私も不動産鑑定評価書をつくる際、なるべくお客様にとってわかりやすい、役に立つものになるよう心を砕いているつもりです。
 でも、それを「すべては顧客満足のために」と言ってしまうことには、少しばかり違和感があります。不謹慎な言い方かもしれませんが、むしろ「面白がっている」という表現のほうがしっくりくる気がします。

 「継続賃料の評価にあたって、差額配分法・利回り法・スライド法・賃貸事例比較法(さらに公租公課倍率法と収益分析法を加えることもあります)の説得力に係る評価を表にして示したらわかりやすいのではないか?」「旅館の評価などで多数の建物があるとき、土地・建物・工作物の配置図を作成して、建物のアイコンを付けたら見やすいのではないか?」と楽しみながら、その思いつきをカタチにしているのです。

 実のところ、お客様のニーズはもっとシンプルなのかもしれません。しかしながら、「手慣れた感じで仕事を進めることの悪弊」というか、つねに創意工夫する心掛けがなければ、成果物も筋道だったものになりにくいのではないかと思うのです。そして、そのような心掛けは、どこかで誰かに伝わっている気がします。だから私は「神は細部にやどる」という言葉が好きです。

 ところが、極端なテンプレート主義に陥ると、ときに変な成果物が出現します。例を挙げれば、法務局と裁判所の周りに形成された商業集積の評価で、法務局に隣接している旨の記述が一切出てこない評価書を見たことがあります(地域一番店である百貨店から何キロ離れている、ということが詳細に書かれていました)。

 お客さんにとって何が役に立ち、何が役に立たないかをあらかじめ正確に知ることができない以上、「こうしたら喜んでくれるかな~」と思いつつやるしかない、というのが私の考え方です。
 つまるところ、自分の仕事の質を高めるのに、「ここはオイシイ場面だぞ」と舌なめずりしながら面白がって取り組むのにしくはないと思うのです。




0 件のコメント:

コメントを投稿