2013年2月4日月曜日

ブログタイトル『浅想録』の由来


 先日、知人に「きみのブログのタイトルは、なぜ『せんそうろく』なのか?」と訊かれました。

 どうこたえたものかと迷って、その場ではご説明できなかったので、この場を借りて「ブログタイトルの由来」について書いてみたいと思います(あまり面白い話でないことは最初にお断りしておきます)。

 一番短い説明は、「宇垣纏という人が書いた有名な日記『戦藻録』をもじって、浅い想いの記録という意味で付けたタイトル」というものです。でも、これではちょっと説明不足なので、以下に補足説明を付け加えることにします。

【補足1:『戦藻録』(せんそうろく)とは何か】

 『戦藻録』(せんそうろく)は、太平洋戦争開戦時、連合艦隊参謀長の要職にあった宇垣纏海軍中将が記録した陣中日誌です。
 宇垣自身はタイトルの由来を「戦の屑籠、否戦藻録と命名」したと述べていますが、内容はまさに「戦争録」で、日本海軍の実戦部隊司令部の実態をしめす極めて貴重な記録とされています。

 戦後、遺族から第六巻を借り受けた黒島亀人(開戦当時連合艦隊高級作戦参謀)が同巻を紛失するなどしたため、すべての記録が残っているわけではありません。この点、阿部牧郎『遙かなり真珠湾 山本五十六と参謀・黒島亀人』は、自分に都合の悪い記述を発見した黒島が意図的に処分した可能性を指摘しています。『戦藻録』が作戦の背景と経過を知るうえでいかに重要な資料だったということを物語るエピソードとも言えそうです。

【補足2:『戦藻録』(せんそうろく)と大分市との縁】

 記録は、昭和16年(1941)10月16日にはじまり、1945年8月15日に終わっています。終戦の日に終わった理由は、その日宇垣が行方不明(おそらく死亡)になったからです。
 終戦当時、第五航空艦隊司令長官であった宇垣は、司令部を大分海軍航空隊(現在の大分市津留・大洲地区)に置いていました。当日は玉音放送ののち、「戦藻録」最後のページを書き終え、彗星艦上爆撃機に乗り込んで特攻自決をしたとされています。

 この特攻自決をテーマにした著作としては、松下竜一『私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち』、城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』が知られています。両著作の記述のニュアンスの違いもまた興味深いものです。

【補足3:もうすでにあった『浅想録』(せんそうろく)】

 ブログを開設した後に気づいたことですが、じつはネット上に、私よりずっと前に『浅想録』(せんそうろく)という文章を綴っていた方がいらっしゃいました。『連邦皇国』なる軍事系サイトの中に、『浅想録』と題して水上兵器に関する論考をなさっています。
 同じようなことを考える方がいるんだなあという親近感と同時に、類似のタイトルについてもっと調べるべきだったという申し訳ない気持ちを抱きつつ、今日に至っています。




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