2014年12月13日土曜日

岡城と薩摩兵の縁(その3)

 前回は天正15年(1587年)、岡城主志賀親次が鬼ヶ城にて島津勢に決戦を挑み、決定的大勝利を挙げたところまでを書きました。
 
 さて、それから290年後の明治10年(1877年)。不平士族たちが下野した西郷隆盛を盟主に担ぎだして武装蜂起した西南戦争(西南の役)が起こりました。

 熊本城攻めで戦力を毀損し、田原坂でも敗北を喫した西郷軍は、本営を人吉に移します。ここで西郷から豊後方面制圧の命を受けたのが、奇兵隊指揮長・野村忍介(おしすけ)です。
 桐野利秋麾下にあった野村は、この戦争についてはもともと慎重論を説いていたそうですが、開戦以後はむしろ必勝の信念に燃えて積極策を数多く意見具申したとも言われています。
 この点、二二六事件における安藤輝三大尉の姿を重ねてしまいます(注1)。
 
 野村の率いる奇兵隊は、5月13日に竹田を占領。しかし、その後政府軍が到着すると、両軍の間で十数日に及ぶ激戦が繰り広げられ、29日ついに竹田は陥落しました。
 後掲写真の「激戦マップ」に描かれた地。この地こそ、かつて島津勢と志賀勢が相見えた鬼ヶ城一帯なのでした。


 鬼ヶ城の集落を上りきったところにある鴻巣台公園には「西南の役激戦の地」の石碑が立っています(後掲写真上)。
 この公園にほど近い丘には、広瀬武夫中佐の墓(後掲写真中)、さらに狭隘な平坦部に拓かれた市道を百メートルほど進むと、広瀬武夫中佐の生家跡(後掲写真下)があります。





 この戦いで、周辺の民家には火が放たれ、集落はことごとく焼失しました。焼け出された住民の中には、のちに「軍神」と呼ばれる広瀬武夫少年(当時九歳)の姿もあったのです(注2)。

 生きてこの地を退いた野村は、この後も各地を転戦、最後まで西郷に従い郷里の城山に至りましたが、ここでついに投降し、のちに鹿児島新聞社(現在の南日本新聞社の前身)を興したということです。

 それにしても、野村の率いる奇兵隊は、なぜ鬼ヶ城をさいごの反攻拠点に選んだのでしょうか。
 私自身は、薩摩藩伝統の郷中(ごじゅう)教育により「あの島津義弘公ですら落とせなかった」と語り継がれ、刷り込まれてきたからではないかと勝手に思っています(注3)。

(注1)
 安藤輝三は、二二六事件の首謀者のひとり。
 当初は時期尚早と蹶起に反対の立場をとりましたが、いざ蹶起するや、彼の指揮する中隊は最も強力な実行部隊となり、奉勅命令以降、他の青年将校が次々に脱落投降するなか、赤坂山王ホテルを占拠して最後まで頑強な抵抗を見せました。
 東宝映画『226』では、安藤大尉を三浦友和さん、山王ホテルの支配人を梅宮辰夫さんが演じていたと記憶しています。

(注2)
 この戦いで家が焼けてしまった広瀬一家は、武夫の父重武の赴任地である飛騨高山へと引っ越す事になりました。 
 なお、竹田市中心部、竹田市立歴史資料館前の広場には、大分県出身の彫刻家である辻畑隆子が手掛けた広瀬武夫のブロンズ立像が立っています。平成22年に2,000万円あまりを費やして建立されたのだそうです。

(注3)
 不幸なトラブルで惜しくも絶版となった池宮彰一郎の名著『島津奔る』のラストシーン、かつて義弘公の近習として苦楽を共にした中馬大蔵のもとに、子どもたちが「関が原の合戦のときのお話をお聞かせ下さい」とやって来ます。
 いまは老いた大蔵は「世に関が原の合戦と申すは…」と語り始めますが、さまざまな思いが去来し、言葉が続かずに号泣してしまいます。
 やがて少年たちは、一言も語らず絶句したままの大蔵に「いままででいちばん勉強になりもした」と礼をいい、感動した面持ちで帰っていきました。野村忍介にもそんな体験があったのでしょうか。


参考サイト;

  西南戦争茶屋の辻の戦い 

  奇兵隊展開

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