稲葉川と白滝川の激流を外堀代わりに、峻険な断崖絶壁を石垣代わりにもつ岡城(大分県竹田市)は、備中松山城(岡山県)、高取城(奈良県)と並び、日本三大山城のひとつにも数えられる名城です。
一説には日本三大山城として、岡城にかえて岩村城(岐阜県)を挙げる向きもあります。女城主伝説で有名な岩村城も、たしかに一度は訪れてみたい壮麗な城郭ですが、実戦での折り紙つき(combat proven)という点では、岡城の敵ではないでしょう。
義弘がついに岡城総攻撃を下知したのは、本稿を書いている12月2日(もちろん旧暦ですが)のことです。
一説には日本三大山城として、岡城にかえて岩村城(岐阜県)を挙げる向きもあります。女城主伝説で有名な岩村城も、たしかに一度は訪れてみたい壮麗な城郭ですが、実戦での折り紙つき(combat proven)という点では、岡城の敵ではないでしょう。
いまに残る岡城の遺構は、江戸時代に中川氏が大幅な改修を加えたものです。しかし、この城の「難攻不落ぶり」を伝える最も有名な逸話はそれ以前、大友宗麟・義統父子の時代に、精強を誇る島津勢三万の大軍が押し寄せたときのもの。
このとき、弱冠十九歳の城主、志賀親次(しがちかつぐ、洗礼名ドンパウロ)は、兵力一千の寡兵ながら、島津勢を城外で迎え撃ちました。
大分県立図書館の郷土資料室で閲覧した郷土史誌(書名を失念しました)によると、島津氏来襲に先立って開かれた軍議の席上、籠城策を具申するものもありましたが、老臣某が進み出て「地の利は我が方にあり、城外で迎え撃つべし」と意見を述べると、親次は莞爾と笑って「よくぞ申した、そちに兵300を預ける」と言った云々の記述がありました。
天正14年(1586年)、阿蘇から九州山地を越えて豊後に侵攻した島津義弘は、さしたる抵抗も受けずに岡城の支城幾つかを攻略したのち、岡城の南方に正対する片ケ瀬台地に陣を構えました。
義弘がついに岡城総攻撃を下知したのは、本稿を書いている12月2日(もちろん旧暦ですが)のことです。
薩摩兵は大挙して岡城の南側にある滑瀬(ぬめりぜ)に殺到します。しかし、城内に逃げ込んだとばかり思っていた志賀勢は、断崖絶壁を背に白滝川(大野川)対岸に陣地を築き、鉄砲で猛反撃してきました。
銃撃されるもの、溺れるもの多数。島津勢は、おびただしい犠牲を出して退却するほかありませんでした。
その後島津勢は、二度にわたり滑瀬からの渡河を試みるも、城方の抵抗が激しく、攻撃は失敗に終わりました。
そのとき、島津勢に城主志賀親次からの矢文が届きます。次のような内容でした。
『滑瀬は足場が悪い。渡河容易な浅瀬をお教えするゆえ、岡城南西方の鬼ヶ城にて雌雄を決したい』
(岡城と薩摩兵の縁(その2)につづく)
下の写真は、現在の片ケ瀬の風景。大野川を挟んで、この真正面に岡城が臥牛のごとく横たわります。島津義弘もここから岡城を睨み、策を練ったのでしょうか。
銃撃されるもの、溺れるもの多数。島津勢は、おびただしい犠牲を出して退却するほかありませんでした。
その後島津勢は、二度にわたり滑瀬からの渡河を試みるも、城方の抵抗が激しく、攻撃は失敗に終わりました。
そのとき、島津勢に城主志賀親次からの矢文が届きます。次のような内容でした。
『滑瀬は足場が悪い。渡河容易な浅瀬をお教えするゆえ、岡城南西方の鬼ヶ城にて雌雄を決したい』
(岡城と薩摩兵の縁(その2)につづく)
下の写真は、現在の片ケ瀬の風景。大野川を挟んで、この真正面に岡城が臥牛のごとく横たわります。島津義弘もここから岡城を睨み、策を練ったのでしょうか。
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