ナガノコウイチさん、という名前には、かねてから聴き覚えがありました。
私の行きつけの病院で、いつも呼ばれている名前だからです。
私とよく似た名前のこの方、耳が遠いのか、いつも待合室に名前を呼ぶ声が何度も響きわたるのです。
一度は私もナースステーションに申し出ました。
「あのお、ナガノケンイチですが、いま名前が呼ばれましたでしょうか?」
「いえ、ナガノコウイチさんをお呼びしました。もう少々お待ちください。」
それで私も、ナガノコウイチさんと私は縁があるのだなあ、いつも同じ日にこの病院に来ているのだなあ、と思ったわけです。
ところが、先日はちょっと勝手が違いました。ナガノコウイチさんを呼ぶ声がいつまでもやまないのです。
「ナガノコウイチさ~ん、ナガノコウイチさ~ん」。
ナガノコウイチさんはいつになったら現れるのだろう?
それに引き換え、俺の名前は呼ばれないなあ、まさか文盲率がゼロ同然のこの日本で、ナガノケンイチとナガノコウイチを読み違えないよなあ、と思っていたら、それ以上の取り違えでした。
「あの~、ナガノケンイチさんはいらっしゃいますか…?」。
さきほどのナガノコウイチさんを呼ぶ声の半分以下の音量で、コソコソ聞き歩いている女性職員がいます。
ようやく事態を理解した私は、「先程から、ナガノコウイチさんの名前をさかんに呼んでいたけど、ナガノケンイチのカルテと取り違えてたわけ?あきれたね!」と、周りの人にも十分聞こえる音量で、ゆっくり、はっきりと言いました。
いつもの調子で怒鳴ってもよかったのですが、怒鳴りませんでした。この事態の15分ほど前に、職員相手に怒鳴り散らしているおじさんがいて、その振る舞いがじつに醜悪だったからです(おじさん、ありがとう。あなたのお陰で醜態をさらさずに済みました)。
その後は、これまでにないスピードで診察に呼ばれ、会計窓口へと招じられました(いきさつ上、VIP待遇だったのでしょうか?)。
さて。
ハインリッヒの法則、という言葉に聞き覚えがおありになると思います。
1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する、という事故と災害の関係を示した経験則です。当然、医療の現場にも妥当すると言われています。
ニュースで、患者を取り違え、健康な臓器を摘出した、などという医療過誤を見聞きすると、そんなありえないことがなぜおこるのか?と思いますよね。
でも、保険証を示し(診察券を提示することもある)、患者のフルネーム、生年月日、その他の情報もことごとく把握しているはずの医療機関が、受付でも、ナースステーションでも、そのミスに気づかない事態が日常的にあるとしたら。
あっ、しまった!やべーやべー。それで済まされた異常事態がいくつかの偶然と相俟ったとき…ありえない医療過誤は起きているのではないか?そう思いました。
今後私は、どこの医療機関でも、手渡されたカルテが本当に自分のものかどうか、きちんと確認しようと思います。
でも、この「カルテの取り違え」には、水際作戦たる簡単なアイデアがあります。
受付担当者が保険証と照合し、カルテを探しだした段階で、保険証の名宛人を呼ぶのではなく、カルテの名を呼べばいいのです。
ナースステーションと違って、待っている患者は少数だし、リードタイムも一分以下です。カルテの取り違えがあれば、「えっ、それって俺のこと?名前が違うよ?」と、すぐに判明することでしょう(そもそもフルネームと生年月日の照合を必須とすべきことは言うまでもありません)。
病院を出るときの私の胸には、次のような疑念が、ほとんど確信に変わろうとしていました。
「僕は、ナガノコウイチさんとほんとうにご一緒したことがあるのだろうか?毎度のように、カルテを取り違えられ、違う名前で呼ばれ続けていたのではないか?」
<追記>
専門職業家のなかには、おおきなミスの原因となるような気付きを「ヒヤリ・ハット事例」としてとりまとめている人たちもいます。業界の社会的信頼、ひいては社会的地位は、このような地道で、相互信頼と協働意識なしには生まれない活動の上に成立している、と思うこともあります。
私の行きつけの病院で、いつも呼ばれている名前だからです。
私とよく似た名前のこの方、耳が遠いのか、いつも待合室に名前を呼ぶ声が何度も響きわたるのです。
一度は私もナースステーションに申し出ました。
「あのお、ナガノケンイチですが、いま名前が呼ばれましたでしょうか?」
「いえ、ナガノコウイチさんをお呼びしました。もう少々お待ちください。」
それで私も、ナガノコウイチさんと私は縁があるのだなあ、いつも同じ日にこの病院に来ているのだなあ、と思ったわけです。
ところが、先日はちょっと勝手が違いました。ナガノコウイチさんを呼ぶ声がいつまでもやまないのです。
「ナガノコウイチさ~ん、ナガノコウイチさ~ん」。
ナガノコウイチさんはいつになったら現れるのだろう?
それに引き換え、俺の名前は呼ばれないなあ、まさか文盲率がゼロ同然のこの日本で、ナガノケンイチとナガノコウイチを読み違えないよなあ、と思っていたら、それ以上の取り違えでした。
「あの~、ナガノケンイチさんはいらっしゃいますか…?」。
さきほどのナガノコウイチさんを呼ぶ声の半分以下の音量で、コソコソ聞き歩いている女性職員がいます。
ようやく事態を理解した私は、「先程から、ナガノコウイチさんの名前をさかんに呼んでいたけど、ナガノケンイチのカルテと取り違えてたわけ?あきれたね!」と、周りの人にも十分聞こえる音量で、ゆっくり、はっきりと言いました。
いつもの調子で怒鳴ってもよかったのですが、怒鳴りませんでした。この事態の15分ほど前に、職員相手に怒鳴り散らしているおじさんがいて、その振る舞いがじつに醜悪だったからです(おじさん、ありがとう。あなたのお陰で醜態をさらさずに済みました)。
その後は、これまでにないスピードで診察に呼ばれ、会計窓口へと招じられました(いきさつ上、VIP待遇だったのでしょうか?)。
さて。
ハインリッヒの法則、という言葉に聞き覚えがおありになると思います。
1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する、という事故と災害の関係を示した経験則です。当然、医療の現場にも妥当すると言われています。
ニュースで、患者を取り違え、健康な臓器を摘出した、などという医療過誤を見聞きすると、そんなありえないことがなぜおこるのか?と思いますよね。
でも、保険証を示し(診察券を提示することもある)、患者のフルネーム、生年月日、その他の情報もことごとく把握しているはずの医療機関が、受付でも、ナースステーションでも、そのミスに気づかない事態が日常的にあるとしたら。
あっ、しまった!やべーやべー。それで済まされた異常事態がいくつかの偶然と相俟ったとき…ありえない医療過誤は起きているのではないか?そう思いました。
今後私は、どこの医療機関でも、手渡されたカルテが本当に自分のものかどうか、きちんと確認しようと思います。
でも、この「カルテの取り違え」には、水際作戦たる簡単なアイデアがあります。
受付担当者が保険証と照合し、カルテを探しだした段階で、保険証の名宛人を呼ぶのではなく、カルテの名を呼べばいいのです。
ナースステーションと違って、待っている患者は少数だし、リードタイムも一分以下です。カルテの取り違えがあれば、「えっ、それって俺のこと?名前が違うよ?」と、すぐに判明することでしょう(そもそもフルネームと生年月日の照合を必須とすべきことは言うまでもありません)。
病院を出るときの私の胸には、次のような疑念が、ほとんど確信に変わろうとしていました。
「僕は、ナガノコウイチさんとほんとうにご一緒したことがあるのだろうか?毎度のように、カルテを取り違えられ、違う名前で呼ばれ続けていたのではないか?」
<追記>
専門職業家のなかには、おおきなミスの原因となるような気付きを「ヒヤリ・ハット事例」としてとりまとめている人たちもいます。業界の社会的信頼、ひいては社会的地位は、このような地道で、相互信頼と協働意識なしには生まれない活動の上に成立している、と思うこともあります。
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