2014年6月23日月曜日

大田実少将の決別電報を読む

 きょう6月23日は昭和20年の沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日。沖縄県はこの日を「慰霊の日」と定めており、学校などは休みとなります。

 この日が「沖縄戦が終わった日」とされているのは、沖縄守備隊(第32軍)最高指揮官の牛島満中将と、同参謀長の長勇(ちょう いさむ)中将が、摩文仁の軍司令部で自決した日だからです(22日との説もあります)。

 実際には、沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)に後退を余儀なくされた5月末の時点で、第32軍はその戦力のほとんどを失い、事実上壊滅していたようです。

 陸軍第32軍(二個師団・一個旅団基幹)を中核とする沖縄守備隊は、海軍部隊である沖縄方面根拠地隊をも指揮下に収めていました。

 沖縄方面根拠地隊は、飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成した部隊で、装備も貧弱でしたが、米国公刊戦史にも残る勇猛な戦いぶりだったそうです。

 その司令官の職にあった人物が、いまなお沖縄県民の尊敬を集める大田実少将(戦死後中将)です。
 大田少将は、司令部を置いた地下壕間近まで敵の迫った6月6日、海軍次官宛に有名な訣別電報を発信しています(一週間後の6月13日に自決)。

 全滅を覚悟した部隊指揮官の決別電報は、玉砕の覚悟を綴ったのち天皇陛下万歳と締めくくるのが通例ですが、彼の発した決別電報は異例でした。

 沖縄県民が、いかに忠良な日本国民として戦争に協力し、困難に耐えたか、その決意や振る舞いがいかに立派だったかをきわめて具体的に列挙し、『沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』と締めくくったのです。

 → 大田実少将の決別電報全文及び現代語訳(ウィキペディア)

 浅田次郎氏のエッセイによると、大田少将は、さとうきび畑をつぶして砲陣地を設置するたび、丹精した農地を荒らしたことを耕作者に謝って歩いていたそうです。

 その彼に、大きな影響を与えたとされる人物がいます。当時の沖縄県知事、島田 叡(しまだ あきら)です。

 島田は、米軍の来襲が決定的となった昭和20年1月、逃げるように沖縄を去った前任者に代わって知事として着任しました。自決用の青酸カリを携えての沖縄入りだったとも伝えられています(島田は殉職したとされるも、遺体は見つかっていない由)。

 沖縄県民の生命を守るために、ときには軍と衝突しながら奔走する島田の姿勢にふれ、大田は島田を深く敬愛するようになっていきました。

 そのことが、大田自身の県民に対する態度ひいては「沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク(中略)本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上」で始まる上記決別電報の伏線になったと思われます。

 ところで、この沖縄戦を描いた映画としてまず挙げなければならないのが、『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年東宝、岡本喜八監督)でしょう。

 私は小学校二年生のとき、父に連れられてこの映画を大分市内の映画館で見ました(ストーリーはよく理解できませんでしたが、真っ赤に染まった泥水の中で息絶えようとする老婆の手を握った仲代達矢が最期を看取るシーンは鮮明に覚えています)。

 物語は、事実上の主人公である八原大佐(第32軍高級作戦参謀・仲代達矢)、牛島司令官(小林桂樹)、長勇参謀長(丹波哲郎)らを中心に描かれていきますが、これと平行して様々な人々の細かなエピソードが、相当の時間とエネルギーを費やして描かれています。

 なかでも印象に残るのが、神山繁演じる島田知事と池部良が演じた大田少将でした。

 実は、この映画には、特撮や考証、演出にいろいろ突っ込みどころがあるのです。

 それでもなお、この映画を名作ならしめているのが、細かなエピソードの集積でもって、沖縄戦の実相をできる限り克明に描こうとした岡本監督の執念だったのではないかと思っています。

 → BATTLE OF OKINAWA 激動の昭和史 沖縄決戦予告編(youtube)




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