前回は「落日の大友家を彩ったスターたち」と題して、佐伯惟定、志賀親次、吉弘統幸の三人を採り上げました。
今回は、その続編として、これら三名の中でもっとも悲運の最期を遂げた吉弘統幸について書きます。
天正6年(1578年)、理想郷「むじか」建設のため日向遠征を企てた大友宗麟は、耳川の戦いで劣勢の島津勢に歴史的大敗を喫しました(注)。
この戦いで父・鎮信を失った統幸は、弱冠14歳で家督を継ぐこととなります。
天正20年(1592年)、文禄の役に参陣した統幸は、明の総司令官格・李如松(りじょしょう)の軍旗を奪う働きで、豊臣秀吉から「無双の槍使い」と絶賛され、一躍武名を高めました。大友氏改易ののちは、従兄弟である柳川城主・立花宗茂に二千石で仕え、慶長の役では立花軍の四番隊を任されたとされます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに臨み、統幸は西軍についた立花家を暇請いします。大友家当主・大友義乗が徳川家に仕えていたからです。
しかし、大友家の旧恩に酬いようと義乗の元へ向う道中、大友家の再興を狙う前当主・大友義統に出会ったことが、統幸の運命を大きく狂わせてしまいます。
統幸は義統に対し懸命に東軍加担を説きますが、西軍総大将・毛利輝元の「西軍勝利の暁には豊前豊後二か国を進呈する」との甘言に乗せられた義統は聞き入れません。とうとう統幸も旧主に従う決断をせざるを得ませんでした。
大友勢が東軍・黒田如水の軍勢と激突した「石垣原の戦い」で、統幸は獅子奮迅の活躍を見せます。しかし、奮戦の甲斐なく次第に大友方の劣勢が明らかとなると、統幸は別れの挨拶をすべく大友義統の本陣を訪れます。
義統に別れを告げたのち、統幸は残った手勢30余騎を率いて黒田勢に突撃、七つ石(現・別府市荘園町)において戦死しました。
彼が義統に述べた惜別の辞は、次のように伝えられています。
臣ハ累代厚恩ヲ蒙リ、死ヲ以テ君恩ニ報ント存レ共、
是ノ度ノ戦ハ縦ヘ一旦利ヲ得ル共、後ノ利運トハ成難シ、
臣今軍陣ノ中ニ入リ、生テ再ビ歸ラズ。
然レバ今君ノ尊顔ヲ拝スルモ現世ノ御名残ニ候
「声涙ともに下る」というのは、こういうシーンを表現する言葉だと思わないではいられません。
知将統幸には、最初から見えていた結果だったでしょう。
「結果を出してこそプロ」という人もいます。確かにそうかもしれません。でも、望ましい結果が得られないことがわかっていても、プロとしての仕事をやり遂げないではいられないのがプロというのもまた、一面の真理と思えるのです。
「無双の槍使い」として「忠義の士」として、まさに本物の侍(プロフェッショナル)であった統幸の最期を知り、こんな関係のないことを考えてしまいました。
下の写真は別府市観海寺、杉乃井ホテルに上る坂の途中にある吉弘統幸陣所跡です。
(注)この戦いで軍事的統制のなさを露呈し、その結果角隈石宗、佐伯惟教らの有力武将を失った大友家は、以後没落への一途を辿ることになりました。
<参考サイト>
大友氏の終焉・石垣原の戦い
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/ishigaki/ishigaki.html
今回は、その続編として、これら三名の中でもっとも悲運の最期を遂げた吉弘統幸について書きます。
天正6年(1578年)、理想郷「むじか」建設のため日向遠征を企てた大友宗麟は、耳川の戦いで劣勢の島津勢に歴史的大敗を喫しました(注)。
この戦いで父・鎮信を失った統幸は、弱冠14歳で家督を継ぐこととなります。
天正20年(1592年)、文禄の役に参陣した統幸は、明の総司令官格・李如松(りじょしょう)の軍旗を奪う働きで、豊臣秀吉から「無双の槍使い」と絶賛され、一躍武名を高めました。大友氏改易ののちは、従兄弟である柳川城主・立花宗茂に二千石で仕え、慶長の役では立花軍の四番隊を任されたとされます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに臨み、統幸は西軍についた立花家を暇請いします。大友家当主・大友義乗が徳川家に仕えていたからです。
しかし、大友家の旧恩に酬いようと義乗の元へ向う道中、大友家の再興を狙う前当主・大友義統に出会ったことが、統幸の運命を大きく狂わせてしまいます。
統幸は義統に対し懸命に東軍加担を説きますが、西軍総大将・毛利輝元の「西軍勝利の暁には豊前豊後二か国を進呈する」との甘言に乗せられた義統は聞き入れません。とうとう統幸も旧主に従う決断をせざるを得ませんでした。
大友勢が東軍・黒田如水の軍勢と激突した「石垣原の戦い」で、統幸は獅子奮迅の活躍を見せます。しかし、奮戦の甲斐なく次第に大友方の劣勢が明らかとなると、統幸は別れの挨拶をすべく大友義統の本陣を訪れます。
義統に別れを告げたのち、統幸は残った手勢30余騎を率いて黒田勢に突撃、七つ石(現・別府市荘園町)において戦死しました。
彼が義統に述べた惜別の辞は、次のように伝えられています。
臣ハ累代厚恩ヲ蒙リ、死ヲ以テ君恩ニ報ント存レ共、
是ノ度ノ戦ハ縦ヘ一旦利ヲ得ル共、後ノ利運トハ成難シ、
臣今軍陣ノ中ニ入リ、生テ再ビ歸ラズ。
然レバ今君ノ尊顔ヲ拝スルモ現世ノ御名残ニ候
「声涙ともに下る」というのは、こういうシーンを表現する言葉だと思わないではいられません。
知将統幸には、最初から見えていた結果だったでしょう。
「結果を出してこそプロ」という人もいます。確かにそうかもしれません。でも、望ましい結果が得られないことがわかっていても、プロとしての仕事をやり遂げないではいられないのがプロというのもまた、一面の真理と思えるのです。
「無双の槍使い」として「忠義の士」として、まさに本物の侍(プロフェッショナル)であった統幸の最期を知り、こんな関係のないことを考えてしまいました。
下の写真は別府市観海寺、杉乃井ホテルに上る坂の途中にある吉弘統幸陣所跡です。
(注)この戦いで軍事的統制のなさを露呈し、その結果角隈石宗、佐伯惟教らの有力武将を失った大友家は、以後没落への一途を辿ることになりました。
<参考サイト>
大友氏の終焉・石垣原の戦い
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/ishigaki/ishigaki.html
0 件のコメント:
コメントを投稿