近代教育の先駆者である福沢諭吉は、リバティ(一説にはフリーダム)を「自由」、スピーチを「演説」と訳しました。「自らを由とする」から自由。まさに名訳といっていいでしょう。
しかし、福沢のような碩学を擁した日本にも、ごく一般的な用語でありながら、いまだに適切な訳語のない言葉があります。それは「スポーツ」です。
大阪市立桜宮高校生徒の自殺問題は、学校と家庭と地域社会のかかわり、学校教職員のマネジメントコントロール、教育法制ならびに教育行政のありかた、体罰の是非と許容限界など、各面に及ぶ大きな問題として検討する必要がありそうですが、加えてもう一点、我が国における「スポーツ」精神の未成熟も、この問題に大きく影を落としている気がします。今日は、このことについて綴ってみたいと思います。
さきほど「スポーツ」には適切な訳語がない、と述べました。
いちばん近い日本語は、物理的側面に着目した「運動」、教育的側面に着目した「体育」、勝負としての面をとらえた「競技」でしょう。
しかし、これらの日本語には、スポーツの原点である「ゲームをプレイすることを通じ魂を解放する」というニュアンスを全くと言っていいほど感じることができません。
私は、スポーツの原点を理解せず、外形だけを移入してきたことが、その後の我が国におけるスポーツのあり方をゆがめた気がしてなりません。
プレイする本人の「魂の解放」を無視し、勝つことだけに意義を見出したからこそ、運動競技は国威高揚や学校宣伝の道具になり得たのではないのでしょうか。
野球もサッカーも(楽器も、囲碁や将棋もですが)、ある程度ストイックに取り組まなければ技術は身につかず、十分楽しむことができないのは事実です。ただし、ストイックに取り組む根本的理由はあくまで、本人がよりよくプレイできるためでなければならないと思います。
スポーツを「運動」「体育」「競技」と捉え、勝つことだけを目標に定めたことと、「競技の経験者なら指導者が務まる」という過度の経験主義が結びつくと、それ以上の悲劇を生みます。桜宮高校の事件は、その典型のように思われます。
以前、コーチとしての専門的教育を受けた少年サッカー指導者の方とお話をしたとき、彼はこう言っていました。
『いまのサッカー指導者の多くは、かつて自分が受けたのと同じような、怒鳴る、罵倒する、叩く指導を踏襲している。しかし、それは子供たちを委縮させ、思考停止させ、意欲を奪う誤った指導だ。このような指導者がいる限り、日本のサッカーは変われない。』
彼自身は、子供たちを叱る際、必ず最初にほめて、次に改善すべき点を指摘するそうです。たとえば、こんな感じ。
『あの場面で積極的に仕掛けていったのは、とってもよかった。でもお前、何度も同じようにかわされたろ?そこは予測して、相手の動きを牽制しなきゃ。それを普段の練習でも意識してなきゃ。』
名指導者の誉れ高い内川一寛氏(大分情報科学高野球部監督・内川聖一選手の父)も「日の当たらない部員をどうチームに溶け込ませるか」にいつも心を砕いておられる由。
そのためには、それぞれに役割意識を植え付けることが大事で、それゆえレギュラーになれない部員たちの練習態度を観察し、積極的に声をかけるようにしているそうです。「集団の中で個人がどんな役割を果たせばよいかわかりにくい時代ですものね」とも。
内川監督が、レギュラーになれない部員たちにかくも意識を向けるのはなぜでしょうか。
私は大きく二点あるように感じました。ひとつは、生徒の「自主性を育てる教育」の一環であるから。もうひとつは、「非レギュラーの士気の高さは、チーム全体に活気を生み出し、それが本当の意味でのチームの和につながる」から。
つまり、チームの和の根本は、各人の忍耐ではなく、それぞれの役割意識である、という信念に基づいた指導なのでしょう。
かれらのような優れた指導者がいることは、じつに心強く喜ばしいことです。
遅きに失した面は否めませんが、スポーツの指導が「競技の経験者なら指導者が務まる」ものではなく、さまざまな知見と素養を要する専門技術であることをあらためて確認し、子供たちが適性ある指導者の指導を受けられる環境を整えることがつよく望まれます。
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