2014年9月25日木曜日

ハインリッヒの法則とまだ見ぬナガノコウイチさんのはなし

 ナガノコウイチさん、という名前には、かねてから聴き覚えがありました。

 私の行きつけの病院で、いつも呼ばれている名前だからです。

 私とよく似た名前のこの方、耳が遠いのか、いつも待合室に名前を呼ぶ声が何度も響きわたるのです。

 一度は私もナースステーションに申し出ました。

「あのお、ナガノケンイチですが、いま名前が呼ばれましたでしょうか?」
「いえ、ナガノコウイチさんをお呼びしました。もう少々お待ちください。」

 それで私も、ナガノコウイチさんと私は縁があるのだなあ、いつも同じ日にこの病院に来ているのだなあ、と思ったわけです。

 ところが、先日はちょっと勝手が違いました。ナガノコウイチさんを呼ぶ声がいつまでもやまないのです。

「ナガノコウイチさ~ん、ナガノコウイチさ~ん」。

 ナガノコウイチさんはいつになったら現れるのだろう?

 それに引き換え、俺の名前は呼ばれないなあ、まさか文盲率がゼロ同然のこの日本で、ナガノケンイチとナガノコウイチを読み違えないよなあ、と思っていたら、それ以上の取り違えでした。

「あの~、ナガノケンイチさんはいらっしゃいますか…?」。

 さきほどのナガノコウイチさんを呼ぶ声の半分以下の音量で、コソコソ聞き歩いている女性職員がいます。

 ようやく事態を理解した私は、「先程から、ナガノコウイチさんの名前をさかんに呼んでいたけど、ナガノケンイチのカルテと取り違えてたわけ?あきれたね!」と、周りの人にも十分聞こえる音量で、ゆっくり、はっきりと言いました。

 いつもの調子で怒鳴ってもよかったのですが、怒鳴りませんでした。この事態の15分ほど前に、職員相手に怒鳴り散らしているおじさんがいて、その振る舞いがじつに醜悪だったからです(おじさん、ありがとう。あなたのお陰で醜態をさらさずに済みました)。

 その後は、これまでにないスピードで診察に呼ばれ、会計窓口へと招じられました(いきさつ上、VIP待遇だったのでしょうか?)。

 さて。

 ハインリッヒの法則、という言葉に聞き覚えがおありになると思います。

 1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する、という事故と災害の関係を示した経験則です。当然、医療の現場にも妥当すると言われています。

 ニュースで、患者を取り違え、健康な臓器を摘出した、などという医療過誤を見聞きすると、そんなありえないことがなぜおこるのか?と思いますよね。

 でも、保険証を示し(診察券を提示することもある)、患者のフルネーム、生年月日、その他の情報もことごとく把握しているはずの医療機関が、受付でも、ナースステーションでも、そのミスに気づかない事態が日常的にあるとしたら。

 あっ、しまった!やべーやべー。それで済まされた異常事態がいくつかの偶然と相俟ったとき…ありえない医療過誤は起きているのではないか?そう思いました。

 今後私は、どこの医療機関でも、手渡されたカルテが本当に自分のものかどうか、きちんと確認しようと思います。

 でも、この「カルテの取り違え」には、水際作戦たる簡単なアイデアがあります。

 受付担当者が保険証と照合し、カルテを探しだした段階で、保険証の名宛人を呼ぶのではなく、カルテの名を呼べばいいのです。

 ナースステーションと違って、待っている患者は少数だし、リードタイムも一分以下です。カルテの取り違えがあれば、「えっ、それって俺のこと?名前が違うよ?」と、すぐに判明することでしょう(そもそもフルネームと生年月日の照合を必須とすべきことは言うまでもありません)。

 病院を出るときの私の胸には、次のような疑念が、ほとんど確信に変わろうとしていました。

「僕は、ナガノコウイチさんとほんとうにご一緒したことがあるのだろうか?毎度のように、カルテを取り違えられ、違う名前で呼ばれ続けていたのではないか?」

 
<追記>
専門職業家のなかには、おおきなミスの原因となるような気付きを「ヒヤリ・ハット事例」としてとりまとめている人たちもいます。業界の社会的信頼、ひいては社会的地位は、このような地道で、相互信頼と協働意識なしには生まれない活動の上に成立している、と思うこともあります。







 

 


2014年8月22日金曜日

甘えん坊の美点

下川式成功手帳の発案者であるしもやん(下川浩二)という方の講演を聴いたことがあります。
講演の半ば、彼はわれわれ聴衆に向かってこう問いかけました。
 『みなさん、人生でいちばん大事なことは何やと思いますか?』

人生でいちばん大事なこと…私も考えてみました。
正直であることか?一生懸命にやることか?友達を大切にすることか?はたまた健康か?
どれも大事なことだけど、決定的ではない気がしました。月並み過ぎるというか…。

しもやんが提示した答えは、もっと腑に落ちるものでした。

彼はこう言ったのです。
 『人生でいちばん大事なこと、それはな、人から好かれることや。』
そして、こう続けました。
 『人から好かれるのはな、素直な人や。人の話を素直によく聴く人や。』

そういえば、ある業界の重鎮の方から、こんな話を聞いたことがあります。
 『相手に疎まれたり、嫌われたりしてまで苦言を呈するほどお人好しではないよ。』
 『ひとの意見を聞く姿勢のない者には、二度と意見することはない。』

どうも、彼から助言をもらう機会を永遠に失った人は何人もいるようです。
思うに、失ったのは「助言をもらう機会」だけではないのではないかと…。

「人の話を素直に聞けない人」は、こんな反応をしがちです。

 スルー型:『ご助言ありがとうございます。』と口では言いつつ、書きとめようとも、話題にしようともしない(メモする姿勢を見せたかどうかで、相手の提供情報の質が変わる、ということはしばしばあります)。

 肯定型:『そうなんですよ!』と肯定的な相槌をうちつつ、後に言い訳が続く(そんなことは言われなくてもわかってる、ということなのでしょう)。

 甘え型:(いろいろ言い訳した後に)『どうかご理解ください』『温かく見守ってください』(口を出さず賛意だけ示せということか?)

 逆ギレ型:いわずもがなでしょう。

しかし、次のような言い方(受け止め方)に変えると、相手に与える印象も会話の展開も、大きく違ったものになるのではないでしょうか。

 『いや、私も△△と○○のトレードオフに悩みまして、当面の措置としては○○を重視する選択をしたのです。あなただったらどうお考えになりますか?』

猫は、人の膝に乗るのが上手です。いまだったら膝に乗っても問題ない雰囲気を読み取って膝に乗ってきます。

甘えるのが上手い人も似たようなところがある気がします。じつにいい感じで相手の懐に入っていくフィーリングを身につけているのです。

逆に、甘えるのが下手な人は、他人との距離を縮められなかったり、反対に相手が不快に感じるくらいTPOを選ばない距離感の縮め方をしているように思われます。

幼少期から無意識に身に付けた対人関係能力の差もあるのかもしれませんが、虚勢を張っていたり、他人からの批判を過剰に恐れたりすると(そしてそれは自己肯定感の不足が根っこにある気もします)、他人に甘え、他人に甘えられる相互関係が築きにくくなるように見えます。

そう考えると、ある種猫に近い感覚を身につけたかのような甘えん坊の我が子を見ていると、それも一種の才能とも思えてくるのです。










 








2014年8月9日土曜日

少年整備兵がみた出撃前夜の特攻隊員たち

 平和への祈りと鎮魂の季節がやってまいりました。個人的には、この時期がちょうど盂蘭盆会にあたることに救いみたいなものを感じます。

 もうずいぶん前のことになりますが、太平洋戦争末期に特攻基地で整備兵をしておられた方のお話をうかがう機会がありました。

 これまであまり人に話したことはありません。英霊を貶めるたぐいの話では決してないけれど、なんとなく話のネタにするのが畏れ多い気がしたからです。

 今回も、書こうか書くまいか迷いましたが、私だけの記憶にとどめるのはやはり勿体ないと、綴っている次第です。

 万一、お話下さった方にご迷惑がかかってもいけないので、どのような機会にどこでお話をうかがったかは伏せさせていただきます。また、うかつにもその方の所属部隊がどこだったかをお尋ねしませんでした。

 以下は、その方にうかがった内容です。


 特攻出撃の命令は、前日にわかるんや。

 その晩、出撃する隊員の食事はな、折り詰めに普段目にせんようなご馳走が盛られちょった。淡雪(注)もあったな。ビールも。もう二度と帰って来ん人たちへのせめてもの心づくしやったんやろうな。

 でも、みんな食べんのよ。つつくだけ。それはそうや、喉を通らんやろうな。ビールをラッパ飲みする人もおったけど、見ると喉が鳴ってない。飲んでないんや。ただビールが胸元をぬらすだけ。

 折り詰めに大量の料理を残したまま寝てしまうのが常やった。あんたは意地汚いと思うかもしれんけど、わしはそこにこっそり忍んで行って、食べ残しを貪り食ってた。ろくなもん食べてなかったからな。淡雪がほんと美味かった。

 飛行機に吊るす爆弾は、普通は操縦席の引き柄をひくと投下されるもんじゃが、特攻機は違った。ボルトでぎりぎりに締め上げて固定してしまうんや。飛び立ったらもう(爆弾の重量で)着陸できんようにするわけや。

 特攻機には必ず護衛の戦闘機が付いた。ある地点まで護衛したら引き返してくるはずなのだが、ただの一機も帰ってきたのを知らない。途中で敵機に撃ち落とされたのかもしれんし、あるいは燃料が尽きるまで特攻機と運命をともにしたのかもしれん。

 隊舎の横で、チャボを飼っている隊員がいた。律義に卵を産むチャボを可愛がっていたが、出撃が決まった日、彼はチャボを全部拳銃で撃ち殺してしまった。どんな気持ちだったんやろう。(私が「そんな振る舞い、上官が咎めないんですか」と訊くと)咎める人なんか誰もおらん。明日には英霊になる人たちなんやけん…。

(注)淡雪は、メレンゲを使ったムース状の寒天菓子。九州ではおせち料理に欠かせない定番である。この方にとって、淡雪は当時、ご馳走の象徴だったようで、淡雪のことは何度も話にでてきた。



2014年7月21日月曜日

メダカからわかる大分のむかし

 昨日、子どもたちを連れて大分市中心部の竹町通りにある少年少女科学体験スペースO-Labo(オーラボ)に行ってきました。

 オーラボは「きっと科学が好きになる・あそんで学ぶワクワク科学体験」をキャッチフレーズに毎週末、小学生向けの科学実験や生物観察講座を開講しています。

 今回参加したのは「メダカと友達になろう」と題した講座です。

 冒頭、講師の松尾敏生先生から、メダカとはどんな生き物か、地域によってどのような外見的特徴があるか、などのお話をうかがったのち、

  メダカは流れに対してどのように泳いでいるだろうか?
  流れを止めて周りの景色だけを動かすとどう反応するだろうか?
  その反応からどのようなことがわかるだろうか?

などを小実験をしつつ考えていきました。
 参加した子どもたちからは様々な意見が出て、とてもよい生物観察講座になったと思います。

 後ろで聴いていた私自身も大変よい勉強になりました(子どもたちより熱心にノートをとりましたww)。

 従来、国内の野生メダカは一種類と考えられてきました。それをメダカと呼んでいたわけです。

 しかしながら、研究が進むにつれ、北海道のメダカと九州のメダカは遺伝子が異なる別種である(人間でいえば人種が違うレベルだそうです)ことがわかってきて、2013年にキタノメダカミナミメダカという二種の標準和名が付けられた由。

 さらに大分県に生息するミナミメダカについて興味深いお話もありました。

 日田市のメダカは北部九州型、大分市や佐伯市のメダカは西瀬戸内型とされてきたところ、ミトコンドリアDNA解析の結果、つい最近になって大分市のメダカは大隅半島などに生息する大隅型であることが判明したというのです。

 松尾先生によれば、メダカは稲作とともに生息地を拡大してきた経緯があり、大分県に三種もの異なるタイプのメダカが生息している興味深い現象も、人文地理的要因による(注1)と考えられるそうです。すなわち、稲作に関連して大分と鹿児島には古くからの物的交流があったと推測されるというのです。

 別府八湯がきわめてバラエティに富む泉質に恵まれていることはよく知られている(注2)ところですが、大分県はメダカの分布でも特筆すべきところがあったんですね。

 しかもそれが古くからこの地で暮らしてきた人々の営為によるものである、ということに一層動かされる気がしました。


(注1)大昔、別府湾に注ぐ大分川・大野川と杵築の八坂川は一本の川だったそうですが、メダカの生息はそれより後の現象と考えられるとのことです。

(注2)11に分類される泉質のうち10種類の湯を楽しむことができます。





2014年7月1日火曜日

ブルー・ジャスミンと「価値相対性」

 もう25年以上も前のこと。世はバブル真っ盛りでした。

 当時、司法試験を受験していた知人がこんなことを言いました。

「僕が司法試験の受験生だと知ると、みんな『すごいですね』という。でも心のどこかで、もしかしたら報われることのない努力を何年も続ける、奇特な人だと思ってるんだろうね。」

 そんなことを今更ながら思い出したのは、映画館でウッディ・アレン監督脚本、ケイト・ブランシェット主演の『ブルー・ジャスミン』を見ていた時のことでした。

 映画評論家の高崎俊夫氏は、

『一文無しなのに、根拠のないプライドと過去の虚名のみを糧に生きる、この傍迷惑なヒロインは、見る者の共感を完璧に拒む。』

と評していますが、私は彼女を鼻持ちならないイヤな女とは全く思いませんでした(滑稽だとは思っいましたが)。

 ふと頭に浮かんだのは「価値相対性」という言葉です。

 誰かにとって人生を賭ける価値のあることが、別の人から見たらバカみたいに見えることなど、珍しいことではないと思います。そういう達観がないと、東大を目指さない人間はクズだなどと思ってしまうことになりかねません。

 映画の中では、物事を深く考えず、享楽的にセレブ生活を満喫していたジャスミンが、じつは自分の見たいものだけを見、見たくないものからは目をそむけていたことが次第に明らかになっていきます。

 それは「享楽的なセレブ妻を演じていた」という表現とは、若干ニュアンスが違います。自らをも欺いていたという点において。

 ウッディ・アレン監督は、見る者に「自分の中のジャスミンに気づけ。そして、嗤え。」と言っているのではないか、ふとそう思いました。




2014年6月28日土曜日

ディスカッションでウェブサイトづくりを学ぶ―JimdoCafe体験記

 法人サイトも個人サイトも全くの自己流で作っている私(専門家のアドバイスも少しは戴いていますが…)。

 開業当初から不動産鑑定士と中小企業診断士の知見を双方向に活用すること」をアイデンティティにしていたこともあって、もともと法人サイト(エリア・サーベイ合同会社)は、「不動産鑑定士のサイトではなく、中小企業診断士のサイトでもない」どっちつかずのものになってしまいました(それでも結構大口のお問い合わせがあったりするのはありがたいことです)。

 不動産鑑定と経営コンサルティングの業務領域の真ん中くらいのご依頼もいろいろ戴く私ですが、多くの方々にとってわかりにくいのでは?という思いから昨年来、法人サイトには不動産鑑定業務にフォーカスしたメタ・ディスクリプション・タグをつけ、他方経営コンサルティングに特化したささやかな個人サイトを立ち上げました。

 ちょうど、誰かにユーザー目線で意見をもらいたいな、と思っていたところ、FacebookでJimdoブラッシュアップ講座」の告知を目にし、即参加希望のメールを送信した次第です。

 Jimdoブラッシュアップ講座というのは、ホームページをより良くするためのワークショップ形式講座です。

 JimdoCafe大分のウェブサイトには次のような説明が掲げられていました。

  この講座は次のような方に向いています。

  Jimdoの作り方や使い方をもっと知りたい。
  ホームページがどう見えるのか、他の人から意見がほしい。
  他の人がどんな感じでホームページを作っているのか知りたい。
  ホームページを更新する内容のヒントがほしい。
  ホームページ作りは一人になりがちなので仲間がほしい。


 そう、ホームページづくりで試行錯誤している私たちが知りたいのは、いわゆる専門家の意見だけではありません。むしろ、ユーザー目線でどうか、というサジェスチョンが欲しいことが少なくないですよね。

 実際参加してみて、「他人のことは見えても、自分のことはよく見えない」ことを改めて痛感しました。

 ワークショップは、一人30分程度の持ち時間で進められていきます。

 発表者は、まず自身のビジネスについて簡単に紹介し、ホームページを見て欲しい顧客のイメージや、ビジネスの中でホームページをどのように使いたいのか、解決したい課題や質問などを(プロジェクターでホームページを示しつつ)説明します。

 その後、他の参加者とブラッシュアップのポイントをディスカッションしていきました。

 私以外の参加者は若い女性の方々で、ご自身もホームページづくりの過程で色々悩んでおられるようでしたが、私にとって大変有益なアドバイスを下さいました。

「メニューバーの色が暗く、すぐ下のヘッダー部分もダークな色合いなので、全体に暗い印象」
「プロフィール写真は、法人サイトで使用しているものの方が印象がよい」
プロフィール写真は、白のベースカラーのところに配置したほうがよい
プロフィールと連絡先は、左のカラムに常時表示させるとよい
「コンサルタントのサイトのコンテンツというのは、いわば『詳しい名刺』のごときものだから、自分がこれまでしてきた仕事の内容などを載せるとよい」

 もちろん、運営者の大隈義弘さん(ITコーディネーター)からは、専門的な助言もいただくことができました。

 いや、参加して良かったです。自分自身、何となくホームページに違和感は感じていましたが、ご指摘いただいてはじめてなるほど!そういうことか!と目が開かされる思いでした。ご助言を生かし、ブラッシュアップしたいと思います。

 また、他の参加者が悩んでいること、迷っていることの中にも、いろいろなヒントがあるようにも思えました。

 まだまだ改善途中ですが、私の個人サイトの「使用前・使用後」を以下に掲げます。

使用後(アドバイスをいただいた後

  個人サイト(大分県の経営コンサルタント・長野研一)

使用前(アドバイスをいただく前



2014年6月23日月曜日

大田実少将の決別電報を読む

 きょう6月23日は昭和20年の沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日。沖縄県はこの日を「慰霊の日」と定めており、学校などは休みとなります。

 この日が「沖縄戦が終わった日」とされているのは、沖縄守備隊(第32軍)最高指揮官の牛島満中将と、同参謀長の長勇(ちょう いさむ)中将が、摩文仁の軍司令部で自決した日だからです(22日との説もあります)。

 実際には、沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)に後退を余儀なくされた5月末の時点で、第32軍はその戦力のほとんどを失い、事実上壊滅していたようです。

 陸軍第32軍(二個師団・一個旅団基幹)を中核とする沖縄守備隊は、海軍部隊である沖縄方面根拠地隊をも指揮下に収めていました。

 沖縄方面根拠地隊は、飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成した部隊で、装備も貧弱でしたが、米国公刊戦史にも残る勇猛な戦いぶりだったそうです。

 その司令官の職にあった人物が、いまなお沖縄県民の尊敬を集める大田実少将(戦死後中将)です。
 大田少将は、司令部を置いた地下壕間近まで敵の迫った6月6日、海軍次官宛に有名な訣別電報を発信しています(一週間後の6月13日に自決)。

 全滅を覚悟した部隊指揮官の決別電報は、玉砕の覚悟を綴ったのち天皇陛下万歳と締めくくるのが通例ですが、彼の発した決別電報は異例でした。

 沖縄県民が、いかに忠良な日本国民として戦争に協力し、困難に耐えたか、その決意や振る舞いがいかに立派だったかをきわめて具体的に列挙し、『沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』と締めくくったのです。

 → 大田実少将の決別電報全文及び現代語訳(ウィキペディア)

 浅田次郎氏のエッセイによると、大田少将は、さとうきび畑をつぶして砲陣地を設置するたび、丹精した農地を荒らしたことを耕作者に謝って歩いていたそうです。

 その彼に、大きな影響を与えたとされる人物がいます。当時の沖縄県知事、島田 叡(しまだ あきら)です。

 島田は、米軍の来襲が決定的となった昭和20年1月、逃げるように沖縄を去った前任者に代わって知事として着任しました。自決用の青酸カリを携えての沖縄入りだったとも伝えられています(島田は殉職したとされるも、遺体は見つかっていない由)。

 沖縄県民の生命を守るために、ときには軍と衝突しながら奔走する島田の姿勢にふれ、大田は島田を深く敬愛するようになっていきました。

 そのことが、大田自身の県民に対する態度ひいては「沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク(中略)本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上」で始まる上記決別電報の伏線になったと思われます。

 ところで、この沖縄戦を描いた映画としてまず挙げなければならないのが、『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年東宝、岡本喜八監督)でしょう。

 私は小学校二年生のとき、父に連れられてこの映画を大分市内の映画館で見ました(ストーリーはよく理解できませんでしたが、真っ赤に染まった泥水の中で息絶えようとする老婆の手を握った仲代達矢が最期を看取るシーンは鮮明に覚えています)。

 物語は、事実上の主人公である八原大佐(第32軍高級作戦参謀・仲代達矢)、牛島司令官(小林桂樹)、長勇参謀長(丹波哲郎)らを中心に描かれていきますが、これと平行して様々な人々の細かなエピソードが、相当の時間とエネルギーを費やして描かれています。

 なかでも印象に残るのが、神山繁演じる島田知事と池部良が演じた大田少将でした。

 実は、この映画には、特撮や考証、演出にいろいろ突っ込みどころがあるのです。

 それでもなお、この映画を名作ならしめているのが、細かなエピソードの集積でもって、沖縄戦の実相をできる限り克明に描こうとした岡本監督の執念だったのではないかと思っています。

 → BATTLE OF OKINAWA 激動の昭和史 沖縄決戦予告編(youtube)