2014年7月1日火曜日

ブルー・ジャスミンと「価値相対性」

 もう25年以上も前のこと。世はバブル真っ盛りでした。

 当時、司法試験を受験していた知人がこんなことを言いました。

「僕が司法試験の受験生だと知ると、みんな『すごいですね』という。でも心のどこかで、もしかしたら報われることのない努力を何年も続ける、奇特な人だと思ってるんだろうね。」

 そんなことを今更ながら思い出したのは、映画館でウッディ・アレン監督脚本、ケイト・ブランシェット主演の『ブルー・ジャスミン』を見ていた時のことでした。

 映画評論家の高崎俊夫氏は、

『一文無しなのに、根拠のないプライドと過去の虚名のみを糧に生きる、この傍迷惑なヒロインは、見る者の共感を完璧に拒む。』

と評していますが、私は彼女を鼻持ちならないイヤな女とは全く思いませんでした(滑稽だとは思っいましたが)。

 ふと頭に浮かんだのは「価値相対性」という言葉です。

 誰かにとって人生を賭ける価値のあることが、別の人から見たらバカみたいに見えることなど、珍しいことではないと思います。そういう達観がないと、東大を目指さない人間はクズだなどと思ってしまうことになりかねません。

 映画の中では、物事を深く考えず、享楽的にセレブ生活を満喫していたジャスミンが、じつは自分の見たいものだけを見、見たくないものからは目をそむけていたことが次第に明らかになっていきます。

 それは「享楽的なセレブ妻を演じていた」という表現とは、若干ニュアンスが違います。自らをも欺いていたという点において。

 ウッディ・アレン監督は、見る者に「自分の中のジャスミンに気づけ。そして、嗤え。」と言っているのではないか、ふとそう思いました。




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