2014年11月21日金曜日

『軍師勘兵衛』はどう描く?吉弘統幸と井上九郎衛門

 以前、当ブログで「石垣原の戦いにおける吉弘統幸と井上九郎衛門のエピソードは、必ずや大河ドラマ『軍師勘兵衛』で取り上げられるに違いない」と書きました(後掲関連記事参照)が、その期待がいよいよ高まってきました。

 石垣原の戦いは、現在の別府市市街地一帯を舞台に、大友義統と黒田如水が激突した西の関が原、ともいわれる合戦。

 この戦いで、大友方右備えとして現在の杉乃井ホテル付近に陣を敷いたのが、大友家中随一の槍の名手である吉弘統幸でした。

 戦いのさなか、死を覚悟した統幸は、かつて恩をうけた九郎衛門をわざわざ選んで槍をあわせ、その恩に報いるべく首を授けたともいわれます。

 その統幸を的場浩司さんが演じるとなれば、一番のクライマックスシーンをスルーする演出はありえないでしょう。

 さて、もう一方の将、井上九郎衛門は黒田家次席家老。

 石垣原の戦いでは、実相寺山(黒田如水本陣)西方の角殿山(現在のルミエールの丘)に陣を敷いたとされています。

 筆頭家老の栗山善助、三番家老の母里太兵衛と比較すると、ドラマでもやや影の薄い印象があるのが、高橋一生さんがクールに演ずる井上九郎衛門です。
 じっさい、黒田家中でも九郎衛門を「さしたる武功もないのに重用されている」とやっかむ向きもあったようです。

 それが、石垣原での奮戦で、ようやく愁眉を開いたのだとすれば、これまでの九郎衛門の「影の薄い感じ」もじつは伏線めいた演出だった、というのは、穿ち過ぎでしょうか(穿ち過ぎですよね)。

 さいごに、吉弘統幸が祀られている吉弘神社(別府市石垣西6丁目)の写真を掲げようと思ったのですが、撮った写真がどうしても見つからないので、吉弘神社ウェブサイトへのリンクを貼ってこれに代えます。

<関連記事>

  「『軍師官兵衛と永遠のゼロ』ツアー」




2014年10月5日日曜日

休日の朝、仕事場で聴きたい音楽三選

休日のトランポリン効果」という言葉を耳にしたことがあります。

休みの日に、きっぱり仕事から離れて積極的に休養をとることで、休日明けの仕事に対する意欲と効率が高まる、ということのようです。

確かにそのとおりだ、と私も実感するところがあります。個人的にも、毎週土曜日は原則として仕事から離れて、家族と過ごしたり、運動をしたり、体を休めたりすることに充てるようにしています。

ですが日曜日は、またちょっと違う使い方をしています。

事務所に出勤して、プロジェクトについて案を練ったり、雑駁なアイデアをノートに書き出したり、溜まった書類を見返してテーマ別にファイリングしたりと、いわば「急がないけど大事なことする日」にしているのです(注)。

ルーチンワークから離れることが容易で、電話もかかって来ない日曜日は、急がないけど大事なことをするのに最適。音楽でも聴きながら、ゆったりとした気持ちで、贅沢に時間を使ってこそ成果も上がろうというものです。

今回は、そんな休日にもってこいのジャズ系アルバムを三点ご紹介します。

1 Kenny Wheeler / Gnu High (1975/ECM)


先月18日に亡くなったカナダのトランペッター、ケニー・ホイーラーの最高傑作『ヌー・ハイ』。

のっけから天上高く舞い上がるような爽快感で、休日の朝にピッタリです(本稿もこれを聴きながら書いています)。

メインストリームから出発して、フリージャズに傾倒…などと紹介すると、セシル・テイラーやオーネット・コールマンを連想して敬遠したくなるかもしれませんが、この人の場合は心配ご無用。本作もフリーっぽいテイストを感じますが、それが開放感、スケール感を表現するのに大いに役立っていると感じます。(YouTubeで聴く



2 Aaron Parks / Arborescence (2011/ECM)


アーロン・パークスの『アルボレセンス』は、ピアノソロ作品。アーロン・パークスという人のことは、若手天才ジャズ・ピアニストと言われている、ということ以外、よく知らないのですが、これまで聴いてきたピアノソロ作品の中でいちばん「クラシック音楽ファン好み」という気がします。

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第一番みたいなテイストを感じることもあれば、リストのロ短調ソナタ風の響きを感じ取ることもあります。

彼のピアノトリオ作品も聴いてみましたが、響きがとても美しい、という印象は、ピアノソロ作品同様でした。(YouTubeで聴く




3 Keith Jarrett / The Köln Concert (1975/ECM)


なあんだ、という感じかもしれません。

「ポイントは3つあります」などと言われ、聞いてみると、3つめは1つめと同じようなことではないかとか、1と2に比べると3の重要度は格段に落ちるな、3は付け足しだな、と感じることがありませんか?

3枚めにキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』を持ってきたというのは、(名盤であることは誰もが認めるとしても)ありきたり過ぎ、付け足しがミエミエだと自分でも思います。(YouTubeで聴く




でも、奇しくも三枚全てがECM作品になってしまったことと併せ、いろいろ試してみた結果がこれ、というのが実際のところです。

休日のアイデア出しのお役に立てばさいわいです。



(注)各種セミナーの講師のご依頼をいただくことがありますが、そのネタのほとんどは、こうして日曜日に書き溜めたものを再構成して作っています。レジュメやプレゼンテーション・スライドを作る段になって「さあ、何を話そう?」と悩んだ経験はまずありません。


2014年9月25日木曜日

ハインリッヒの法則とまだ見ぬナガノコウイチさんのはなし

 ナガノコウイチさん、という名前には、かねてから聴き覚えがありました。

 私の行きつけの病院で、いつも呼ばれている名前だからです。

 私とよく似た名前のこの方、耳が遠いのか、いつも待合室に名前を呼ぶ声が何度も響きわたるのです。

 一度は私もナースステーションに申し出ました。

「あのお、ナガノケンイチですが、いま名前が呼ばれましたでしょうか?」
「いえ、ナガノコウイチさんをお呼びしました。もう少々お待ちください。」

 それで私も、ナガノコウイチさんと私は縁があるのだなあ、いつも同じ日にこの病院に来ているのだなあ、と思ったわけです。

 ところが、先日はちょっと勝手が違いました。ナガノコウイチさんを呼ぶ声がいつまでもやまないのです。

「ナガノコウイチさ~ん、ナガノコウイチさ~ん」。

 ナガノコウイチさんはいつになったら現れるのだろう?

 それに引き換え、俺の名前は呼ばれないなあ、まさか文盲率がゼロ同然のこの日本で、ナガノケンイチとナガノコウイチを読み違えないよなあ、と思っていたら、それ以上の取り違えでした。

「あの~、ナガノケンイチさんはいらっしゃいますか…?」。

 さきほどのナガノコウイチさんを呼ぶ声の半分以下の音量で、コソコソ聞き歩いている女性職員がいます。

 ようやく事態を理解した私は、「先程から、ナガノコウイチさんの名前をさかんに呼んでいたけど、ナガノケンイチのカルテと取り違えてたわけ?あきれたね!」と、周りの人にも十分聞こえる音量で、ゆっくり、はっきりと言いました。

 いつもの調子で怒鳴ってもよかったのですが、怒鳴りませんでした。この事態の15分ほど前に、職員相手に怒鳴り散らしているおじさんがいて、その振る舞いがじつに醜悪だったからです(おじさん、ありがとう。あなたのお陰で醜態をさらさずに済みました)。

 その後は、これまでにないスピードで診察に呼ばれ、会計窓口へと招じられました(いきさつ上、VIP待遇だったのでしょうか?)。

 さて。

 ハインリッヒの法則、という言葉に聞き覚えがおありになると思います。

 1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する、という事故と災害の関係を示した経験則です。当然、医療の現場にも妥当すると言われています。

 ニュースで、患者を取り違え、健康な臓器を摘出した、などという医療過誤を見聞きすると、そんなありえないことがなぜおこるのか?と思いますよね。

 でも、保険証を示し(診察券を提示することもある)、患者のフルネーム、生年月日、その他の情報もことごとく把握しているはずの医療機関が、受付でも、ナースステーションでも、そのミスに気づかない事態が日常的にあるとしたら。

 あっ、しまった!やべーやべー。それで済まされた異常事態がいくつかの偶然と相俟ったとき…ありえない医療過誤は起きているのではないか?そう思いました。

 今後私は、どこの医療機関でも、手渡されたカルテが本当に自分のものかどうか、きちんと確認しようと思います。

 でも、この「カルテの取り違え」には、水際作戦たる簡単なアイデアがあります。

 受付担当者が保険証と照合し、カルテを探しだした段階で、保険証の名宛人を呼ぶのではなく、カルテの名を呼べばいいのです。

 ナースステーションと違って、待っている患者は少数だし、リードタイムも一分以下です。カルテの取り違えがあれば、「えっ、それって俺のこと?名前が違うよ?」と、すぐに判明することでしょう(そもそもフルネームと生年月日の照合を必須とすべきことは言うまでもありません)。

 病院を出るときの私の胸には、次のような疑念が、ほとんど確信に変わろうとしていました。

「僕は、ナガノコウイチさんとほんとうにご一緒したことがあるのだろうか?毎度のように、カルテを取り違えられ、違う名前で呼ばれ続けていたのではないか?」

 
<追記>
専門職業家のなかには、おおきなミスの原因となるような気付きを「ヒヤリ・ハット事例」としてとりまとめている人たちもいます。業界の社会的信頼、ひいては社会的地位は、このような地道で、相互信頼と協働意識なしには生まれない活動の上に成立している、と思うこともあります。







 

 


2014年8月22日金曜日

甘えん坊の美点

下川式成功手帳の発案者であるしもやん(下川浩二)という方の講演を聴いたことがあります。
講演の半ば、彼はわれわれ聴衆に向かってこう問いかけました。
 『みなさん、人生でいちばん大事なことは何やと思いますか?』

人生でいちばん大事なこと…私も考えてみました。
正直であることか?一生懸命にやることか?友達を大切にすることか?はたまた健康か?
どれも大事なことだけど、決定的ではない気がしました。月並み過ぎるというか…。

しもやんが提示した答えは、もっと腑に落ちるものでした。

彼はこう言ったのです。
 『人生でいちばん大事なこと、それはな、人から好かれることや。』
そして、こう続けました。
 『人から好かれるのはな、素直な人や。人の話を素直によく聴く人や。』

そういえば、ある業界の重鎮の方から、こんな話を聞いたことがあります。
 『相手に疎まれたり、嫌われたりしてまで苦言を呈するほどお人好しではないよ。』
 『ひとの意見を聞く姿勢のない者には、二度と意見することはない。』

どうも、彼から助言をもらう機会を永遠に失った人は何人もいるようです。
思うに、失ったのは「助言をもらう機会」だけではないのではないかと…。

「人の話を素直に聞けない人」は、こんな反応をしがちです。

 スルー型:『ご助言ありがとうございます。』と口では言いつつ、書きとめようとも、話題にしようともしない(メモする姿勢を見せたかどうかで、相手の提供情報の質が変わる、ということはしばしばあります)。

 肯定型:『そうなんですよ!』と肯定的な相槌をうちつつ、後に言い訳が続く(そんなことは言われなくてもわかってる、ということなのでしょう)。

 甘え型:(いろいろ言い訳した後に)『どうかご理解ください』『温かく見守ってください』(口を出さず賛意だけ示せということか?)

 逆ギレ型:いわずもがなでしょう。

しかし、次のような言い方(受け止め方)に変えると、相手に与える印象も会話の展開も、大きく違ったものになるのではないでしょうか。

 『いや、私も△△と○○のトレードオフに悩みまして、当面の措置としては○○を重視する選択をしたのです。あなただったらどうお考えになりますか?』

猫は、人の膝に乗るのが上手です。いまだったら膝に乗っても問題ない雰囲気を読み取って膝に乗ってきます。

甘えるのが上手い人も似たようなところがある気がします。じつにいい感じで相手の懐に入っていくフィーリングを身につけているのです。

逆に、甘えるのが下手な人は、他人との距離を縮められなかったり、反対に相手が不快に感じるくらいTPOを選ばない距離感の縮め方をしているように思われます。

幼少期から無意識に身に付けた対人関係能力の差もあるのかもしれませんが、虚勢を張っていたり、他人からの批判を過剰に恐れたりすると(そしてそれは自己肯定感の不足が根っこにある気もします)、他人に甘え、他人に甘えられる相互関係が築きにくくなるように見えます。

そう考えると、ある種猫に近い感覚を身につけたかのような甘えん坊の我が子を見ていると、それも一種の才能とも思えてくるのです。










 








2014年8月9日土曜日

少年整備兵がみた出撃前夜の特攻隊員たち

 平和への祈りと鎮魂の季節がやってまいりました。個人的には、この時期がちょうど盂蘭盆会にあたることに救いみたいなものを感じます。

 もうずいぶん前のことになりますが、太平洋戦争末期に特攻基地で整備兵をしておられた方のお話をうかがう機会がありました。

 これまであまり人に話したことはありません。英霊を貶めるたぐいの話では決してないけれど、なんとなく話のネタにするのが畏れ多い気がしたからです。

 今回も、書こうか書くまいか迷いましたが、私だけの記憶にとどめるのはやはり勿体ないと、綴っている次第です。

 万一、お話下さった方にご迷惑がかかってもいけないので、どのような機会にどこでお話をうかがったかは伏せさせていただきます。また、うかつにもその方の所属部隊がどこだったかをお尋ねしませんでした。

 以下は、その方にうかがった内容です。


 特攻出撃の命令は、前日にわかるんや。

 その晩、出撃する隊員の食事はな、折り詰めに普段目にせんようなご馳走が盛られちょった。淡雪(注)もあったな。ビールも。もう二度と帰って来ん人たちへのせめてもの心づくしやったんやろうな。

 でも、みんな食べんのよ。つつくだけ。それはそうや、喉を通らんやろうな。ビールをラッパ飲みする人もおったけど、見ると喉が鳴ってない。飲んでないんや。ただビールが胸元をぬらすだけ。

 折り詰めに大量の料理を残したまま寝てしまうのが常やった。あんたは意地汚いと思うかもしれんけど、わしはそこにこっそり忍んで行って、食べ残しを貪り食ってた。ろくなもん食べてなかったからな。淡雪がほんと美味かった。

 飛行機に吊るす爆弾は、普通は操縦席の引き柄をひくと投下されるもんじゃが、特攻機は違った。ボルトでぎりぎりに締め上げて固定してしまうんや。飛び立ったらもう(爆弾の重量で)着陸できんようにするわけや。

 特攻機には必ず護衛の戦闘機が付いた。ある地点まで護衛したら引き返してくるはずなのだが、ただの一機も帰ってきたのを知らない。途中で敵機に撃ち落とされたのかもしれんし、あるいは燃料が尽きるまで特攻機と運命をともにしたのかもしれん。

 隊舎の横で、チャボを飼っている隊員がいた。律義に卵を産むチャボを可愛がっていたが、出撃が決まった日、彼はチャボを全部拳銃で撃ち殺してしまった。どんな気持ちだったんやろう。(私が「そんな振る舞い、上官が咎めないんですか」と訊くと)咎める人なんか誰もおらん。明日には英霊になる人たちなんやけん…。

(注)淡雪は、メレンゲを使ったムース状の寒天菓子。九州ではおせち料理に欠かせない定番である。この方にとって、淡雪は当時、ご馳走の象徴だったようで、淡雪のことは何度も話にでてきた。



2014年7月21日月曜日

メダカからわかる大分のむかし

 昨日、子どもたちを連れて大分市中心部の竹町通りにある少年少女科学体験スペースO-Labo(オーラボ)に行ってきました。

 オーラボは「きっと科学が好きになる・あそんで学ぶワクワク科学体験」をキャッチフレーズに毎週末、小学生向けの科学実験や生物観察講座を開講しています。

 今回参加したのは「メダカと友達になろう」と題した講座です。

 冒頭、講師の松尾敏生先生から、メダカとはどんな生き物か、地域によってどのような外見的特徴があるか、などのお話をうかがったのち、

  メダカは流れに対してどのように泳いでいるだろうか?
  流れを止めて周りの景色だけを動かすとどう反応するだろうか?
  その反応からどのようなことがわかるだろうか?

などを小実験をしつつ考えていきました。
 参加した子どもたちからは様々な意見が出て、とてもよい生物観察講座になったと思います。

 後ろで聴いていた私自身も大変よい勉強になりました(子どもたちより熱心にノートをとりましたww)。

 従来、国内の野生メダカは一種類と考えられてきました。それをメダカと呼んでいたわけです。

 しかしながら、研究が進むにつれ、北海道のメダカと九州のメダカは遺伝子が異なる別種である(人間でいえば人種が違うレベルだそうです)ことがわかってきて、2013年にキタノメダカミナミメダカという二種の標準和名が付けられた由。

 さらに大分県に生息するミナミメダカについて興味深いお話もありました。

 日田市のメダカは北部九州型、大分市や佐伯市のメダカは西瀬戸内型とされてきたところ、ミトコンドリアDNA解析の結果、つい最近になって大分市のメダカは大隅半島などに生息する大隅型であることが判明したというのです。

 松尾先生によれば、メダカは稲作とともに生息地を拡大してきた経緯があり、大分県に三種もの異なるタイプのメダカが生息している興味深い現象も、人文地理的要因による(注1)と考えられるそうです。すなわち、稲作に関連して大分と鹿児島には古くからの物的交流があったと推測されるというのです。

 別府八湯がきわめてバラエティに富む泉質に恵まれていることはよく知られている(注2)ところですが、大分県はメダカの分布でも特筆すべきところがあったんですね。

 しかもそれが古くからこの地で暮らしてきた人々の営為によるものである、ということに一層動かされる気がしました。


(注1)大昔、別府湾に注ぐ大分川・大野川と杵築の八坂川は一本の川だったそうですが、メダカの生息はそれより後の現象と考えられるとのことです。

(注2)11に分類される泉質のうち10種類の湯を楽しむことができます。





2014年7月1日火曜日

ブルー・ジャスミンと「価値相対性」

 もう25年以上も前のこと。世はバブル真っ盛りでした。

 当時、司法試験を受験していた知人がこんなことを言いました。

「僕が司法試験の受験生だと知ると、みんな『すごいですね』という。でも心のどこかで、もしかしたら報われることのない努力を何年も続ける、奇特な人だと思ってるんだろうね。」

 そんなことを今更ながら思い出したのは、映画館でウッディ・アレン監督脚本、ケイト・ブランシェット主演の『ブルー・ジャスミン』を見ていた時のことでした。

 映画評論家の高崎俊夫氏は、

『一文無しなのに、根拠のないプライドと過去の虚名のみを糧に生きる、この傍迷惑なヒロインは、見る者の共感を完璧に拒む。』

と評していますが、私は彼女を鼻持ちならないイヤな女とは全く思いませんでした(滑稽だとは思っいましたが)。

 ふと頭に浮かんだのは「価値相対性」という言葉です。

 誰かにとって人生を賭ける価値のあることが、別の人から見たらバカみたいに見えることなど、珍しいことではないと思います。そういう達観がないと、東大を目指さない人間はクズだなどと思ってしまうことになりかねません。

 映画の中では、物事を深く考えず、享楽的にセレブ生活を満喫していたジャスミンが、じつは自分の見たいものだけを見、見たくないものからは目をそむけていたことが次第に明らかになっていきます。

 それは「享楽的なセレブ妻を演じていた」という表現とは、若干ニュアンスが違います。自らをも欺いていたという点において。

 ウッディ・アレン監督は、見る者に「自分の中のジャスミンに気づけ。そして、嗤え。」と言っているのではないか、ふとそう思いました。