2013年7月28日日曜日

スタッフの高い問題意識が育てるセミナー

 昨日は、大分県信用組合主催『けんしん大学7月講座・ブランドづくりの秘訣』に参加しました。

 とかく「地域ブランド認定」「ジャパンブランド認定」といった思考停止に陥りがちなブランドづくりの議論とはこれまで距離を置いてきた私でしたが、前回の吉津弘一先生(日本文理大学名誉教授)の講座案内を聞き、より本質的な内容を期待して講義に参加しました。

 結論からいえば、すばらしい内容で、大変満足しました。

 経営者の講話をメインに据えるセミナーは多いですが、それをまとまりのある学びの機会にするのは簡単ではありません。
 「いや、経営者のお話から何らかの気付きが得られればそれでよいのだ。」という意見もときおり耳にしますが、それを講座だとかセミナーだとか称しては「看板に偽りあり」の誹りを免れますまい。受講者に対して不親切ですし、多忙ななか講話のために時間を割いて下さった経営者の方々にも失礼です。

 この点、今回の講座は、コーディネータ役を務められた吉津先生が「経営者の講話から何を聞きとってほしいか」をフレームワークを示しつつご教示くださったお陰で、その後の講話が生かされたと思います。
 講話の後のグループワークも、講話をもとに考えを深めるよい機会(ここでフレームワークが生きました)となりました。全体としていわゆる「講座の建てつけ」が非常に良かったと思います。

 吉津先生のご手腕や、講話下さったざびえる本舗太田社長、マリーンパレス橋本社長のご見識ももちろんですが、『講座をただ「今日はいい話が聞けた」で終わらせてはならない』というけんしん大学スタッフの高い問題意識の反映を強く感じた講座でした。

 回を重ねるごとにバージョンアップしていく『けんしん大学』。次回が楽しみです。




 

2013年7月22日月曜日

連関図の効用

 経営問題というものは一般に、さまざまな要因が複雑に絡み合って生じているものと思われ、また個々の問題も互いに密接なつながりを持っていそうです。

 このように複雑な要因が絡むテーマに関し、そこに関わっている要因にはどんなものがあり、またそれらは相互にどのような関係に立っているのかを整理し、明らかにする手法に「連関図法」があります。

 連関図法は、原因→結果,手段→目的といった一定のルールに従って各要因を矢印でつないでいって、要因相互の関係を可視化するものといえ、「新QC7つ道具」のひとつに数えられています。

 最大のメリットは、①要因相互の関係をひとつひとつ吟味することを通じ、論理の飛躍や要因要素の見逃しといったミスが防げる、②複雑に絡み合った要因相互の関係を可視化できる、という二点にありましょう。

 下の図表は、この連関図法を適用して、わが国の水産物のサプライチェーンをめぐる問題構造の図式化を試みたもので、各要因はすべて原因→結果の矢印で関連付けられています。

 連関図法と見た目が似たアプローチに「マインドマップ」があります。「マインドマップは、キーワードの集積ではなく、絵である」とか「マインドマップは、クリティカル・シンキングのアンチテーゼである」などと言われる通り、マインドマップは、連関図のような論理チャートではなく、より直感を重視する点に特徴がある(そしてそのメリットはスピードにある)というのが私の理解です。

 ところで、老若男女を問わず、新たな知識を仕入れたり、チャートやフォーマットで情報を整理することに熱心な人はたいへん多く、頭が下がります。しかしながら、そのチャートが「考えるためのツール」であり、「ツールをどう用いて、何を明らかにするのか」の吟味が重要であることは意外に没却されているように感じられます。

 例を挙げれば、「知的資産経営」を進めるにあたっての重要管理点はまず、固有の知的資産の発見と意味付けにあるはずです。しかしながら、それをいかに見出すかの方法論やプロセスの如何が具体的に論じられることはほとんどありません。知的資産経営報告書をまとめ、開示することの意義が短絡に強調される風潮には、違和感を禁じえません。

 アプローチの仕方に対する関心の薄さは、中小企業支援の現場にもしばしば見られます。
 何のアイデア出しをして、その結果を概観して整理・吟味し、どう収斂させるかのすじみちがあらかじめ予定されていないために、作業が迷走し、結局何だかわからなくなったり、いきなり最終解答のアイデア出しをしようとして、結局ありきたりなアイデアしか出なかったり、といった事態は、その場にいなくともアイデアシートを見れば一目瞭然です。
 最終着地点がどこかはアイデア次第としても、「検討の進め方」の指針なしのグループワークは、単なる雑談にならざるを得ません。「検討の進め方」を体得するには、まず「型を学ぶ」態度から「過程を学ぶ」姿勢への転換が不可欠でしょう。

 スポーツでも受験勉強でも同じだと思いますが、目あたらしい手法に飛びつくより、すでに確立された基礎的方法論について地道に訓練を積むほうが、結局は近道だと思います。
 とりわけ、連関図や特性要因図(例のサカナのホネみたいなやつです)は、サービス業の生産性向上運動など、現場改善を進めるうえで不可欠の武器となるものですから、今後中小企業支援の現場で、活用気運が高まることが期待されます。




 

 

2013年7月17日水曜日

私がブログを書く理由

 ブログブームに沸いた2004年当時は、将来、私自身がブログを書くことになろうなどとは夢にも思いませんでした。「世の中には奇特な人がいるものだ」とブームを冷ややかに見ていた記憶があります。ですが、気が付けば2011年5月にブログを始めてから、すでに2年余りが経過しました。

 「思いついたことを書きたいから書きはじめた」だけで、何のためにブログを綴るのかなどと改めて考えたことはないのですが、「ブログとはカネを稼ぐために書くものだ」「読み手に伝わらなければブログなど意味がない」という見解もよく目にするところです。

 この点、実績ある先輩ブロガーの方々は本当のところ、どう考えておられるのでしょうか。気になったので、関連記事をいくつか拝見してみると、「この方のおっしゃっていることは、俺の感じ方に近いな~」と思える方が何人かおられました。

 「ある理系社会人の思考」というブログを綴っておられるktatchy氏は、『ブログを続ける意義は人それぞれ』と題して、次のように述べられています。まさにおっしゃる通り、という感じです。

多くの方が気にしていない,誰もが読むようなトピックでもないものを採り上げて更新しているので,アクセス数は今ぐらいがちょうど良いと思っています。もちろん読者の方が増えると作者としては嬉しいですが,「増やすためにはどうすればいいのだろう」と思い悩むことはありません。
http://fotlife.exblog.jp/8054426/


 ウェブエンジニアtfmagician氏が技術やサービスに関することを書き綴るブログ「1-byte.jp」では『このブログの存在意義を考えてみた』と題する考察が掲げられています。

定期的なアプトプットは自分のアウトプットの質を高めます。そして、仕入れる情報もアウトプットのために気にするようになるため、インプットの質も高まります。これが今、自分のためになっていることだと思います。
http://1-byte.jp/2010/09/10/reason_to_write_blog/

 私自身のアウトプットの質がブログによって高まったかどうかはわかりませんが、インプットに質的変化が起こること、自分の意見を一応の論理的整合性のある文章にまとめるには大きなエネルギーが必要であることは実感しています(言い方を変えれば、口頭で言えるだけの「自分の考え」はまだ意見としての体をなしていないおそれがあるといえます)。


 「他人の不幸は蜜の味」なるブログを運営するLSTY(エルエスティーワイ)氏は、『ブログは「目的」を持って始めてはいけない。』とまでおっしゃっています。

あんまり「目的」とか「伝えたいこと」なんてのを意識しすぎると、ブログというのは長続きしないのではないかと思う。
http://lsty.seesaa.net/article/25377867.html

 私も、誰も読まないであろう前提で書き始めたので、数か月後にPVが急に増えたときはびっくりしました。そんな風であったからこそ、曲がりなりにも二年続けてこられた気もします。


 「むねさだブログ」のむねさだ氏は、「僕がブログを書く理由はなんだろう?と色々と考えてみたぞ!」と題した記事の結論として、次のようにおっしゃっています。

僕がブログを通して伝えたいものは、「自分の知ったノウハウを、知らない人へ伝えたい」「むねさだ という人間がどういう人間かを伝えたい」です。
http://munesada.com/2013/01/12/blog-1179

 確かに、ある人物の人となりは、その人の問題意識にあらわれるといってよさそうです。自分の問題意識をブログに綴ることは、キレイにまとまった自己アピール文よりもはるかに意味があることなのではないでしょうか。

 さいごに、コラムニスト小田嶋隆さんの言葉を掲げます。この言葉を励みにして、コンスタントとは決して言えないながらもブログに取り組んでいる私です(名コラムニストと何の実績もないブログ初心者の私を同列に論じるつもりは毛頭ありません)。


『ネタは、出し続けることで生まれる。ウソだと思うかもしれないが、これは本当だ。三ヵ月何も書かずにいると、さぞや書くことがたまっているはずだ、と、そう思う人もあるだろうが、そんなことはない。三ヵ月間、何も書かずにいたら、おそらくアタマが空っぽになって、再起動が困難になる。つまり、たくさんアイディアを出すと、アイディアの在庫が減ると思うのは素人で、実のところ、ひとつのアイディアを思いついてそれを原稿の形にする過程の中で、むしろ新しいアイディアの三つや四つは出てくるものなのだ。ネタは、何もせずに寝転がっているときに、天啓のようにひらめくものではない。歩いているときに唐突に訪れるものでもない。多くの場合、書くためのアイディアは、書いている最中に生まれてくる。というよりも、実態としては、アイディアAを書き起こしているときに、派生的にアイディアA’が枝分かれしてくる。だから、原稿を書けば書くほど、持ちネタは増えるものなのである。』(「小田嶋隆のコラム道」より引用)






2013年7月10日水曜日

SNSは「日刊自分マガジン」だ!

 今回は、Facebookについて書きます。
 
 IT用語辞典e-Wordsによれば、SNSとは、
『人と人とのつながりを促進・サポートする、コミュニティ型のWebサイト。友人・知人間のコミュニケーションを円滑にする手段や場を提供したり、趣味や嗜好、居住地域、出身校、あるいは「友人の友人」といったつながりを通じて新たな人間関係を構築する場を提供する、会員制のサービスのこと。』なのだそうです。

 そうだとすると、Facebookに投稿すべきコンテンツは、誰かとのつながりを強める端緒(きっかけ)に相応しいものであるべきでしょう。

 かかる意味で私自身はFacebookを「日刊自分マガジン」だと思っています。自分の関心のあること、考えたこと、見つけた本やお店などの情報を日々綴ることで、私がどのような人間か知ってもらい、できれば「この投稿を読んでよかったな」と思ってほしいと考えているのです。

■ あなたの「自分マガジン」はどんな雑誌?

 あなたの「日刊自分マガジン」は専門誌でしょうか?娯楽誌でしょうか?総合誌でしょうか?
 私のタイムラインに表示される投稿には、詩集あり、TODOリストあり、映画評論あり。
 見た瞬間にどなたの投稿かわかるものも少なくなく、リアルなその方をさほど深く知っているわけではないのに、今では「あ~〇〇さんらしいなあ~」と思うことがしばしばあります。その「〇〇さんらしさ」がプラス評価であれば、「日刊自分マガジン」は及第点なのだと思います。

■ 「人は他人の一挙手一投足にはさほど関心がない」という認識

 私自身が自分に言い聞かせていることは、「人は他人の一挙手一投足にはさほど関心がない」ということです。なぜかといえば、私も他人の一挙手一投足にさほど関心がないからです。
 このブログでもご紹介したことですが、米国の大学の調査によると、人がFacebookで友達を切る最大の理由は「つまらない投稿が延々と続くこと」なのだそうです。

■ 「連載記事にする」というアイデア

 投稿を、連載記事やシリーズ記事にしてしまうのも上手いやり方だと思います。私の友達の中にも「映画評」「書評」「気に入った小説の一節」などを継続的に投稿しておられる方々がいて、読むのが楽しみです。
 個人のFacebookFacebookページの使い分けに迷う方がときおりおられます(プライベートとパブリックに分けろ、というのは必ずしも現実的でないことがありますよね)。このような場合、Facebookページへの投稿を「特定の連載記事(複数も可)」だけに限定してしまうのもひとつの方法だと思います。

■ 読者はいずれコンテキストに気付く

 自分マガジンの読者は、いずれ投稿者の編集方針(?)や投稿者の気質・思想に気付くことになります。気取り過ぎればイタイ人だと思われかねないし、ナルシスティックな投稿はこちらが気恥ずかしくなるし、あまりにあっけらかんとし過ぎているのもまた「この人、大丈夫か?」と心配になります。

■ 結局、等身大の自分しか表現できない

 思うに、読み手が投稿から読み取っているのは、純客観的にテキストが指し示す意味内容ではなくて、コンテキスト(文脈)なのではないでしょうか。
 しばらく投稿をフォローしているうちに、「すべてはクライアントのために!」と唱える人が次第にクライアントを「金づる」と捉えているように思えてきたり、友達を交流すべき相手ではなく聴衆(ないしは情報発信先)としか見ていないように見えてきたりすることすらあります。
 開示情報を増やすと、結局は等身大の自分をさらけ出すしかなくなる、ということなのかもしれませんね。





2013年7月1日月曜日

「ブルー・オーシャン」はあるか?

 競争の激しい既存市場を「レッド・オーシャン」と規定し、競争のない未開拓市場である「ブルー・オーシャン」を切り開くべきだと説く「ブルー・オーシャン戦略」。

 今では、もうめったに語られる機会がなくなりました。しかし最近私は、よくこの言葉を思い出します。「ブルー・オーシャン(競争のない新たな市場空間)って、本当にあるんじゃないかな?」としばしば思うのです(もとより、眼前に青く広がる海など知りません。青い入江をときおり垣間見るだけです)。

 顧客ニーズに関し「ドリルを買いたい顧客はドリルが欲しいのではなく、穴が欲しいのだ」というフレーズがよく引用されます。
 「ドリルをください」というお客様の求めの先にある真の需要を見出すことで、より真の需要に即応した新たな提案が可能になる、という教えなのでしょう。その趣旨に異論はありませんが、これは飽くまでレッド・オーシャンの発想だと思います。

 ブルー・オーシャンでは、お客様はむしろ自分の真の需要に忠実です。
 先のフレーズになぞらえて言えば、お客様はそもそもドリルという道具を知らないし、ドリルがホームセンターで売っていることはなおさら知らないからです。「あのね、壁に径9ミリぴったりの穴を開けてフックを取り付けたいんだ」。あるいはより直截的に「リビングルームに絵を掛けたいんだ」と相談するかもしれません。

 そのとき相談者を困惑させるのは、相談した相手から「あなたが何を欲しているのかわからない。要するに何が必要ですか?」などと問い返されることです。相談に行ったら「話を整理してまたお出で下さい。」と言われた、という話はよく聞きます。
 相談した相手が知りたいのは、「真の需要」ではなく、「ドリル」という商品名であった、というじつに残念な事態です。

 端的にいえば、依頼を受けた側が「はい、わかりました」と即答できるような仕事は、すでに真っ赤に染まっています。そこまで至らなくても「具体的なサービスメニュー」を第三者が理解可能な表現で示すことができた時点で、もう赤い色に染まりかかっていると言えそうです。

 依頼する側も何をどう依頼したらよいかわからないし、依頼を受けた側も何をどのようにしたらよいかわからない、というケースは、今後も増え続けるでしょう。しかも、そこには依頼者の知らないさまざまな制約条件もあるはずです(その制約を正しく理解し、依頼者の目的達成に貢献できる人のことをプロと言うのでしょう)。

 このようなケースでは、「目的達成のために必要な要素は何で、その要素はどの程度のクオリティで、どのように獲得していけばよいか」を議論しながら組立て、確認していく『ワークショップ形式』をとるほかないと思います。依頼者の持っている情報は、タスクを遂行する上では不足であり、しかも不必要な情報を多分に含んでいるのが通常であることも銘記すべきです。

 そして、そのためには、

 1 業際、学際にわたる幅広い知識と思考の枠組みを身につけておくこと。

 2 論点を整理しながら議論を進め、それを「見える化」するスキルを身につけておくこと。

が欠かせないような気がします。

 何より、誰に頼めばいいか、何と頼めばいいかわからないような事柄について、「まずあの人に相談してみよう」と言われる存在になりたいものですね。






2013年6月26日水曜日

図書館は読書生活のキーステーションだ!

今回は、「月1,500円からの読書生活術」シリーズの番外編として、図書館活用術を取り上げたいと思います。題して「図書館は読書生活のキーステーションだ!」です。

図書の分類記号を少しだけ知っておこう

 ご存知の通り、図書館の蔵書は原則として、0から9までの分類番号(日本十進分類法)順に並んでいます。
 分類記号は原則三桁表示であり、最初の数字が大分類、次が中分類、末尾が細分類を示しています。通常、この三つの数字を「類」「綱」「目」と言います。
 例えば、分類記号323は、3類(社会科学)の2綱(法律)の3目(憲法)を示します。
 
■ 自分の読書の「偏り」を自覚しよう

 利用者が圧倒的に多いのは、9類(文学)でしょう。人それぞれ、借りる本には分類上の偏りがあるはずです。私自身の場合は、いちばん多いのは3類(社会科学)、つづいて2類(歴史地理)、6類(産業)といったところでしょうか。
 自分の読書の偏りを知ったところで、たまには異分野の本を読んでみるのも良いものです。個人的には、4類(自然科学)の本には、課題の設定の仕方、課題へのアプローチの選び方、といった点で参考になるところが甚だ多いと思っています。 

■ 新着図書コーナーで関心の薄い分野に触れる
 
 異分野の本を読もう、と思ったとき役立つのが図書館の「新着図書コーナー」です。私自身も、このコーナーを見て、あまり読む機会のない0類(総記)、1類(哲学宗教)、4類(自然科学)などの図書を手に取って見るようにしています。
 最近読んだものでは、『エピソードでつかむ生涯発達心理学』(岡本祐子ほか編著・ミネルヴァ書房 2013)が平易な記述でとっつきやすく、ためになりました。ちなみにこの本は、分類記号143でした。

■ 新着図書コーナーの定点観測でわかること

 「新着図書コーナー」を定点観測しておりますと、出版傾向にそのときどきの世の中の重大関心事が大きく反映していることがわかります。
 最近感じるテーマは「原発」「放射能」。それは、自然科学や産業の分野にとどまらず、反原発運動を現象として捉えた場合には社会学、放射能被害に係る心のケアといった面では医学、といった分野的広がりを持ちます。
 とりわけ個人的に関心を持ったのは『危機の憲法学』(奥平康弘・樋口陽一編著・弘文堂 2013)でした。この本は、東日本大震災を契機に顕在化した憲法上の諸問題に取り組んだ法律書で、「原子力災害と知る権利」についても論じています。

■ 分類記号100番以下が面白い

 注目すべきオススメの分野は、0類(総記)です。とくに、
  002 知識、学問、学術
  007 情報科学
  014 資料の収集、資料の整理、資料の保管
  019 読書、読書法
  070 ジャーナリズム、新聞
 のカテゴリーには、好奇心を刺激してくれる面白いものが多く、重宝しています。










2013年6月13日木曜日

履歴書ではわからない「潜在的な業務センス」

 人材確保といえば、二言目には「即戦力」という時代になって久しいですね。すべてに余裕を失った時代を反映する現象なのかもしれません。

 いまここに、同じ学校を出て、同じ会社に入り、同じ職場に配属されて同じ仕事を同じ年数経験した二人の若者がいるとします。
 彼らの履歴書の内容は自然と似たものになりますし、顕在的な業務スキルもきっと同程度でしょう。
 しかしながら、彼らの業務感覚というか、潜在的な業務センスには、数年で大きな差が生まれている可能性があります。そうした差を生むのは、それぞれが感じた問題意識の質と量の違いだと思います(つきつめれば、生まれ育ちの違いなのかもしれません)。

 このような差は、経験や顕在的業務スキルに着目しただけでは決してわかりません。彼らを従前と違う業務やより高度な判断を要する業務につけたときに、一気に顕在化することになります。
 
 本来であれば、経験に寄りかからず異なる視点で物事を捉えられるか、知識経験の乏しい業務を遂行するためにどのような工夫をするか、といったところが採用にあたって重要なチェックポイントにされるべきだと思います。しかしながら、知識経験ベースでものを考える人は、他人を評価する時も知識経験の多寡を基準にしがちです(それ以外の評価基準を持たないからでしょう)。そのような人物に、これら二人の若者の差を見抜くことは困難だと思います。

 「意欲的でチャレンジ精神にあふれ、専門的知識と技術を持ち、コミュニケーション能力の高い人材を月給二十万円で雇いたい」というような話を聞くと、飯を食わない嫁ならもらってもいい、と言ったケチな男の昔話を連想します。でも実は、そんな人材も確実にいるのです
 問題は二つだけ。
 一つは、その人の高い意識と能力を採用側が見抜けるか、ということ。
 もう一つは、そんな人物に身を投じさせるだけの魅力が企業にあるかということです。