今回は、Facebookについて書きます。
IT用語辞典e-Wordsによれば、SNSとは、
『人と人とのつながりを促進・サポートする、コミュニティ型のWebサイト。友人・知人間のコミュニケーションを円滑にする手段や場を提供したり、趣味や嗜好、居住地域、出身校、あるいは「友人の友人」といったつながりを通じて新たな人間関係を構築する場を提供する、会員制のサービスのこと。』なのだそうです。
そうだとすると、Facebookに投稿すべきコンテンツは、誰かとのつながりを強める端緒(きっかけ)に相応しいものであるべきでしょう。
かかる意味で私自身はFacebookを「日刊自分マガジン」だと思っています。自分の関心のあること、考えたこと、見つけた本やお店などの情報を日々綴ることで、私がどのような人間か知ってもらい、できれば「この投稿を読んでよかったな」と思ってほしいと考えているのです。
■ あなたの「自分マガジン」はどんな雑誌?
あなたの「日刊自分マガジン」は専門誌でしょうか?娯楽誌でしょうか?総合誌でしょうか?
私のタイムラインに表示される投稿には、詩集あり、TODOリストあり、映画評論あり。
見た瞬間にどなたの投稿かわかるものも少なくなく、リアルなその方をさほど深く知っているわけではないのに、今では「あ~〇〇さんらしいなあ~」と思うことがしばしばあります。その「〇〇さんらしさ」がプラス評価であれば、「日刊自分マガジン」は及第点なのだと思います。
■ 「人は他人の一挙手一投足にはさほど関心がない」という認識
私自身が自分に言い聞かせていることは、「人は他人の一挙手一投足にはさほど関心がない」ということです。なぜかといえば、私も他人の一挙手一投足にさほど関心がないからです。
このブログでもご紹介したことですが、米国の大学の調査によると、人がFacebookで友達を切る最大の理由は「つまらない投稿が延々と続くこと」なのだそうです。
■ 「連載記事にする」というアイデア
投稿を、連載記事やシリーズ記事にしてしまうのも上手いやり方だと思います。私の友達の中にも「映画評」「書評」「気に入った小説の一節」などを継続的に投稿しておられる方々がいて、読むのが楽しみです。
個人のFacebookとFacebookページの使い分けに迷う方がときおりおられます(プライベートとパブリックに分けろ、というのは必ずしも現実的でないことがありますよね)。このような場合、Facebookページへの投稿を「特定の連載記事(複数も可)」だけに限定してしまうのもひとつの方法だと思います。
■ 読者はいずれコンテキストに気付く
自分マガジンの読者は、いずれ投稿者の編集方針(?)や投稿者の気質・思想に気付くことになります。気取り過ぎればイタイ人だと思われかねないし、ナルシスティックな投稿はこちらが気恥ずかしくなるし、あまりにあっけらかんとし過ぎているのもまた「この人、大丈夫か?」と心配になります。
■ 結局、等身大の自分しか表現できない
思うに、読み手が投稿から読み取っているのは、純客観的にテキストが指し示す意味内容ではなくて、コンテキスト(文脈)なのではないでしょうか。
しばらく投稿をフォローしているうちに、「すべてはクライアントのために!」と唱える人が次第にクライアントを「金づる」と捉えているように思えてきたり、友達を交流すべき相手ではなく聴衆(ないしは情報発信先)としか見ていないように見えてきたりすることすらあります。
開示情報を増やすと、結局は等身大の自分をさらけ出すしかなくなる、ということなのかもしれませんね。
IT用語辞典e-Wordsによれば、SNSとは、
『人と人とのつながりを促進・サポートする、コミュニティ型のWebサイト。友人・知人間のコミュニケーションを円滑にする手段や場を提供したり、趣味や嗜好、居住地域、出身校、あるいは「友人の友人」といったつながりを通じて新たな人間関係を構築する場を提供する、会員制のサービスのこと。』なのだそうです。
そうだとすると、Facebookに投稿すべきコンテンツは、誰かとのつながりを強める端緒(きっかけ)に相応しいものであるべきでしょう。
かかる意味で私自身はFacebookを「日刊自分マガジン」だと思っています。自分の関心のあること、考えたこと、見つけた本やお店などの情報を日々綴ることで、私がどのような人間か知ってもらい、できれば「この投稿を読んでよかったな」と思ってほしいと考えているのです。
■ あなたの「自分マガジン」はどんな雑誌?
あなたの「日刊自分マガジン」は専門誌でしょうか?娯楽誌でしょうか?総合誌でしょうか?
私のタイムラインに表示される投稿には、詩集あり、TODOリストあり、映画評論あり。
見た瞬間にどなたの投稿かわかるものも少なくなく、リアルなその方をさほど深く知っているわけではないのに、今では「あ~〇〇さんらしいなあ~」と思うことがしばしばあります。その「〇〇さんらしさ」がプラス評価であれば、「日刊自分マガジン」は及第点なのだと思います。
■ 「人は他人の一挙手一投足にはさほど関心がない」という認識
私自身が自分に言い聞かせていることは、「人は他人の一挙手一投足にはさほど関心がない」ということです。なぜかといえば、私も他人の一挙手一投足にさほど関心がないからです。
このブログでもご紹介したことですが、米国の大学の調査によると、人がFacebookで友達を切る最大の理由は「つまらない投稿が延々と続くこと」なのだそうです。
■ 「連載記事にする」というアイデア
投稿を、連載記事やシリーズ記事にしてしまうのも上手いやり方だと思います。私の友達の中にも「映画評」「書評」「気に入った小説の一節」などを継続的に投稿しておられる方々がいて、読むのが楽しみです。
個人のFacebookとFacebookページの使い分けに迷う方がときおりおられます(プライベートとパブリックに分けろ、というのは必ずしも現実的でないことがありますよね)。このような場合、Facebookページへの投稿を「特定の連載記事(複数も可)」だけに限定してしまうのもひとつの方法だと思います。
■ 読者はいずれコンテキストに気付く
自分マガジンの読者は、いずれ投稿者の編集方針(?)や投稿者の気質・思想に気付くことになります。気取り過ぎればイタイ人だと思われかねないし、ナルシスティックな投稿はこちらが気恥ずかしくなるし、あまりにあっけらかんとし過ぎているのもまた「この人、大丈夫か?」と心配になります。
■ 結局、等身大の自分しか表現できない
思うに、読み手が投稿から読み取っているのは、純客観的にテキストが指し示す意味内容ではなくて、コンテキスト(文脈)なのではないでしょうか。
しばらく投稿をフォローしているうちに、「すべてはクライアントのために!」と唱える人が次第にクライアントを「金づる」と捉えているように思えてきたり、友達を交流すべき相手ではなく聴衆(ないしは情報発信先)としか見ていないように見えてきたりすることすらあります。
開示情報を増やすと、結局は等身大の自分をさらけ出すしかなくなる、ということなのかもしれませんね。
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