2014年6月28日土曜日

ディスカッションでウェブサイトづくりを学ぶ―JimdoCafe体験記

 法人サイトも個人サイトも全くの自己流で作っている私(専門家のアドバイスも少しは戴いていますが…)。

 開業当初から不動産鑑定士と中小企業診断士の知見を双方向に活用すること」をアイデンティティにしていたこともあって、もともと法人サイト(エリア・サーベイ合同会社)は、「不動産鑑定士のサイトではなく、中小企業診断士のサイトでもない」どっちつかずのものになってしまいました(それでも結構大口のお問い合わせがあったりするのはありがたいことです)。

 不動産鑑定と経営コンサルティングの業務領域の真ん中くらいのご依頼もいろいろ戴く私ですが、多くの方々にとってわかりにくいのでは?という思いから昨年来、法人サイトには不動産鑑定業務にフォーカスしたメタ・ディスクリプション・タグをつけ、他方経営コンサルティングに特化したささやかな個人サイトを立ち上げました。

 ちょうど、誰かにユーザー目線で意見をもらいたいな、と思っていたところ、FacebookでJimdoブラッシュアップ講座」の告知を目にし、即参加希望のメールを送信した次第です。

 Jimdoブラッシュアップ講座というのは、ホームページをより良くするためのワークショップ形式講座です。

 JimdoCafe大分のウェブサイトには次のような説明が掲げられていました。

  この講座は次のような方に向いています。

  Jimdoの作り方や使い方をもっと知りたい。
  ホームページがどう見えるのか、他の人から意見がほしい。
  他の人がどんな感じでホームページを作っているのか知りたい。
  ホームページを更新する内容のヒントがほしい。
  ホームページ作りは一人になりがちなので仲間がほしい。


 そう、ホームページづくりで試行錯誤している私たちが知りたいのは、いわゆる専門家の意見だけではありません。むしろ、ユーザー目線でどうか、というサジェスチョンが欲しいことが少なくないですよね。

 実際参加してみて、「他人のことは見えても、自分のことはよく見えない」ことを改めて痛感しました。

 ワークショップは、一人30分程度の持ち時間で進められていきます。

 発表者は、まず自身のビジネスについて簡単に紹介し、ホームページを見て欲しい顧客のイメージや、ビジネスの中でホームページをどのように使いたいのか、解決したい課題や質問などを(プロジェクターでホームページを示しつつ)説明します。

 その後、他の参加者とブラッシュアップのポイントをディスカッションしていきました。

 私以外の参加者は若い女性の方々で、ご自身もホームページづくりの過程で色々悩んでおられるようでしたが、私にとって大変有益なアドバイスを下さいました。

「メニューバーの色が暗く、すぐ下のヘッダー部分もダークな色合いなので、全体に暗い印象」
「プロフィール写真は、法人サイトで使用しているものの方が印象がよい」
プロフィール写真は、白のベースカラーのところに配置したほうがよい
プロフィールと連絡先は、左のカラムに常時表示させるとよい
「コンサルタントのサイトのコンテンツというのは、いわば『詳しい名刺』のごときものだから、自分がこれまでしてきた仕事の内容などを載せるとよい」

 もちろん、運営者の大隈義弘さん(ITコーディネーター)からは、専門的な助言もいただくことができました。

 いや、参加して良かったです。自分自身、何となくホームページに違和感は感じていましたが、ご指摘いただいてはじめてなるほど!そういうことか!と目が開かされる思いでした。ご助言を生かし、ブラッシュアップしたいと思います。

 また、他の参加者が悩んでいること、迷っていることの中にも、いろいろなヒントがあるようにも思えました。

 まだまだ改善途中ですが、私の個人サイトの「使用前・使用後」を以下に掲げます。

使用後(アドバイスをいただいた後

  個人サイト(大分県の経営コンサルタント・長野研一)

使用前(アドバイスをいただく前



2014年6月23日月曜日

大田実少将の決別電報を読む

 きょう6月23日は昭和20年の沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日。沖縄県はこの日を「慰霊の日」と定めており、学校などは休みとなります。

 この日が「沖縄戦が終わった日」とされているのは、沖縄守備隊(第32軍)最高指揮官の牛島満中将と、同参謀長の長勇(ちょう いさむ)中将が、摩文仁の軍司令部で自決した日だからです(22日との説もあります)。

 実際には、沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)に後退を余儀なくされた5月末の時点で、第32軍はその戦力のほとんどを失い、事実上壊滅していたようです。

 陸軍第32軍(二個師団・一個旅団基幹)を中核とする沖縄守備隊は、海軍部隊である沖縄方面根拠地隊をも指揮下に収めていました。

 沖縄方面根拠地隊は、飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成した部隊で、装備も貧弱でしたが、米国公刊戦史にも残る勇猛な戦いぶりだったそうです。

 その司令官の職にあった人物が、いまなお沖縄県民の尊敬を集める大田実少将(戦死後中将)です。
 大田少将は、司令部を置いた地下壕間近まで敵の迫った6月6日、海軍次官宛に有名な訣別電報を発信しています(一週間後の6月13日に自決)。

 全滅を覚悟した部隊指揮官の決別電報は、玉砕の覚悟を綴ったのち天皇陛下万歳と締めくくるのが通例ですが、彼の発した決別電報は異例でした。

 沖縄県民が、いかに忠良な日本国民として戦争に協力し、困難に耐えたか、その決意や振る舞いがいかに立派だったかをきわめて具体的に列挙し、『沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』と締めくくったのです。

 → 大田実少将の決別電報全文及び現代語訳(ウィキペディア)

 浅田次郎氏のエッセイによると、大田少将は、さとうきび畑をつぶして砲陣地を設置するたび、丹精した農地を荒らしたことを耕作者に謝って歩いていたそうです。

 その彼に、大きな影響を与えたとされる人物がいます。当時の沖縄県知事、島田 叡(しまだ あきら)です。

 島田は、米軍の来襲が決定的となった昭和20年1月、逃げるように沖縄を去った前任者に代わって知事として着任しました。自決用の青酸カリを携えての沖縄入りだったとも伝えられています(島田は殉職したとされるも、遺体は見つかっていない由)。

 沖縄県民の生命を守るために、ときには軍と衝突しながら奔走する島田の姿勢にふれ、大田は島田を深く敬愛するようになっていきました。

 そのことが、大田自身の県民に対する態度ひいては「沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク(中略)本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上」で始まる上記決別電報の伏線になったと思われます。

 ところで、この沖縄戦を描いた映画としてまず挙げなければならないのが、『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年東宝、岡本喜八監督)でしょう。

 私は小学校二年生のとき、父に連れられてこの映画を大分市内の映画館で見ました(ストーリーはよく理解できませんでしたが、真っ赤に染まった泥水の中で息絶えようとする老婆の手を握った仲代達矢が最期を看取るシーンは鮮明に覚えています)。

 物語は、事実上の主人公である八原大佐(第32軍高級作戦参謀・仲代達矢)、牛島司令官(小林桂樹)、長勇参謀長(丹波哲郎)らを中心に描かれていきますが、これと平行して様々な人々の細かなエピソードが、相当の時間とエネルギーを費やして描かれています。

 なかでも印象に残るのが、神山繁演じる島田知事と池部良が演じた大田少将でした。

 実は、この映画には、特撮や考証、演出にいろいろ突っ込みどころがあるのです。

 それでもなお、この映画を名作ならしめているのが、細かなエピソードの集積でもって、沖縄戦の実相をできる限り克明に描こうとした岡本監督の執念だったのではないかと思っています。

 → BATTLE OF OKINAWA 激動の昭和史 沖縄決戦予告編(youtube)




2014年6月16日月曜日

形見の品に込められた官兵衛のメッセージとは?(解答編)

 黒田如水(官兵衛孝高)が、息子長政に与えた形見の品、それは履き古した草履と下駄片方ずつだった。

 さて、擦り切れた草履と下駄に込められたメッセージとは何だったか?

 というクイズの解答です(問題編はこちら)。


 童門冬二『黒田官兵衛―知と情の軍師』(時事通信社)から引用いたします(注)。

 『その草履と下駄には何の意味もない。』

 『おまえは、意味のない品物に意味を見つけようと苦労している。つまり、異見会においてもおまえの関心は、いかに異見会をうまく主宰できるか、ということばかりにこだわっている。そしてできれば、見事に仕切って出席者に好印象を与えようというような低俗な心で会を仕切っているのだ。会そのものの本旨からずれている。』

 私はこれを「体面や世間体のために物事の本質を見失うな、本来の目的は何だったかを自らに厳しく問え」という教えだと解釈しました。

 あなたはどのように受け止められたでしょうか?


(注)このエピソードは、私自身は本書ではじめて目にしたもので、類書で見たことはありません。また出典もとくに記されていませんでした。かりにこのエピソードが童門氏の脚色が濃いものだとしても、本書でいちばん記憶に残った箇所なので、採り上げた次第です。










2014年6月15日日曜日

形見の品に込められた官兵衛のメッセージとは?(問題編)

 黒田如水(官兵衛孝高)は、晩年、体調を崩して寝付くことが多くなりました。

 有名な話ですが、この頃から彼は、見舞いに来る家来たちを相手に、ことあるごとに古参の部下の悪口を言うようになったそうです。

 苦楽を共にした部下たちを「某には高禄を与えたが、惜しいことをした。さほどの器量ではなく、大した働きはしなかった」などと評したことは、たちまち国許に伝わり、いずれは本人の耳に入ります。
 悲憤慷慨する者、怒りに震える者。「われわれが従うべきは大殿ではなく、長政公だ。」と、次第に家臣たちの心は離れて行きました。

 事態を危ぶんだ現当主で息子の長政がその旨を告げると、官兵衛は「それで安堵した」と微笑しました。
 播州以来の古参の家臣たちの多くは、まだまだ当主長政より、官兵衛を慕う気持ちが強い。そのままでは安心してあの世に行けないので、一芝居打ったと言うのです。心のなかで古参の部下たちに詫びながら。

 父の深い思いやりに打たれ、長政は落涙します。

 またこれも有名な話ですが、官兵衛は死の間際、愛用の兜を息子の長政にではなく、筆頭家老の栗山善助に与えました。

 文武に秀で、人格者であるばかりでなく、有岡城から官兵衛を救出した命の恩人でもある善助に報いる気持ちもあったでしょうが、これには長政に対する別のメッセージも込められていました。

「善助をこのわしだと思え。善助の諫言あらば、深く心に刻み、決して粗略に扱ってはならない。」

 では、長政に与えられた形見の品は何だったか。

 童門冬二『黒田官兵衛―知と情の軍師』(時事通信社)によると、それは履き古した草履と下駄片方ずつでした。

 長政は、これを終生大切にしたそうです。

 さて、ここで問題です。

 擦り切れた草履と下駄に込められたメッセージとは何だったのでしょうか?

 ヒントを二つ差し上げます。

 一つ目のヒント。

 このころ長政は「異見会」を主宰して、家来たちの意見に耳を傾けていました。「異見会」とは、主だった家臣を集めて、相互に思ったことを意見し合うディスカッションの場でした。

 異見会については、当ブログでも以前取り上げたことがあります(「諫言を容れる度量」)。

 しかし官兵衛は、主宰者としての長政の姿勢に一抹の不安を覚えていました。官兵衛のメッセージは、これに発したものです。

二つ目のヒント。

 このメッセージは、誰かを指導したり、助言したりする立場にある人(かつ、わが身を振り返る勇気のある人)なら、きっと耳の痛い指摘であろうと思います。

 解答編は次回といたします。

 (注)このクイズは前掲書の童門冬二氏の説に依拠しております。





2014年6月6日金曜日

「軍師官兵衛と永遠のゼロ」ツアー

 平成26年5月30日(金)、大分県別府市のホテル白菊にて、一般社団法人九州・沖縄不動産鑑定士協会連合会第三回通常総会が開催されました。

 その翌日、九州各県からいらした総勢三十名のお客様を「軍師官兵衛と永遠のゼロツアー」と銘打って、中津・宇佐方面にご案内しました。

 別府ICから一路中津を目指す前に、吉弘神社(別府市石垣西)、実相寺山(別府市大字鶴見)を車中から望見。
 後者は「西の関ヶ原」といわれる石垣原の戦いで黒田如水(勘兵衛孝高)が本陣をおいた場所。前者はこの戦いで敢闘の末討死した大友方の勇将吉弘統幸を祀っています。

 石垣原の戦いに詳しいH先生からは、実相寺山西方の角殿山(現在のルミエールの丘)には黒田家次席家老の井上九郎衛門が陣を敷いた由のご説明もありました。

 なお、H先生によれば、この戦いにおける吉弘統幸と井上九郎衛門のエピソードは、必ずや大河ドラマ『軍師勘兵衛』で取り上げられるに違いないとのことなので、ここではネタバレを控えます。

 石垣原の戦い及び吉弘統幸については以前当ブログでも取り上げました。こちらもご覧ください。



 さて、ようやく中津城へ。まずは城内の一角にある城井神社に参拝。

 ここは、黒田孝高が豊前中津12万石に封じられる前の領主であった宇都宮鎮房が祀られています。伊予今治への転封を不服として反乱を起こした鎮房は、その後降伏して許されますが、翌年孝高の嫡子長政によって中津城で酒宴の最中斬殺されます。

 鎮房の身を案じながら中津城下の合元寺で待っていた家来たちの多くも黒田方の討手により殺されました。これが「宇都宮鎮房謀殺事件」のてんまつです。

 「長政は深く思うところあって」(余程寝覚めが悪かったということでしょう)、後に城井神社を建立し、宇都宮鎮房を祀ったということです。

 なお、宇都宮鎮房の本拠地であった城井谷のある福岡県築上町は 「黒田官兵衛最大の宿敵」として宇都宮鎮房を売り出し中です。


 
 城井神社の次は、ガイドさんの引率で中津城内を見学。

 下の写真は、黒田官兵衛孝高が白村江の戦い の頃築かれた古城・唐原城(とうばるじょう、現上毛町)の石垣をリサイクルして造営した中津城の石垣です。



 下の写真は、中津城模擬天守横の石垣。写真中央を斜めに走る線の左右で石積みが全く違っています。
 向かって右が黒田官兵衛孝高が築いたもの、左が細川忠興が築いたもの。関ヶ原の功により豊前39万石を与えられた細川忠興が城郭拡張工事をした時にできたのでしょう。
 工法の違いは分かりませんが、官兵衛孝高が用いた石材の方が形が揃っているので、きれいに見えますね。



 中津城をあとに向かったのは、城下にある赤壁合元寺(ごうがんじ)。



 前述のとおり、黒田氏が宇都宮鎮房を謀殺した時、ここで休息していた鎮房の家来たちにも討手が差し向けられ、斬り合いとなりました。その時の壁の血しぶきが、何度塗り直しても赤く染み出でくるため、ついに赤壁とせざるを得なかったという逸話が残っています。

 合元寺については以前当ブログでも取り上げました。こちらもご覧ください。

  「合元寺の赤壁(中津市寺町)

 中津に来たならやっぱり鱧、ということで「和風味処鬼太郎」の鱧しゃぶ御膳をいただいた後は、宇佐へ。宇佐市平和資料館と海軍宇佐航空隊跡(城井一号掩体壕史跡公園)を訪ねました。

 

 上の写真は、宇佐市平和資料館に展示されている零式艦上戦闘機二一型の実物大レプリカ(映画「永遠の0(ゼロ)」で使用されたものである由)。垂直尾翼の番号は721空(第七二一海軍航空隊)所属を示しています。

 721空は別名神雷部隊、特攻兵器桜花を搭載した一式陸攻隊でした。つまりこのレプリカは神雷部隊の護衛戦闘機のものということになります。

 宇佐市平和資料館、城井一号掩体壕史跡公園についてはこちらもご覧ください。

  「宇佐市平和資料館に行ってきました」

  「戦史遺跡と不動産鑑定士」

  「終戦の日に(宇佐海軍航空隊のお話)」

 以上で、全行程を終了し、帰路につきました。お客様方は満足してくださったでしょうか。
 

2014年6月1日日曜日

官民連携で進める観光振興―おんせん県おおいたの取り組み

 平成26年5月30日(金)大分県別府市のホテル白菊にて一般社団法人九州・沖縄不動産鑑定士協会連合会第三回通常総会が開催されました。

 総会に先立って催された講演会のテーマは「おんせん県プロジェクト」。

 『日本一のおんせん県おおいた♨味力も満載~官民連携で進める観光振興の取り組み』と題して、大分県観光・地域振興課主幹の渡辺様、ホテル白菊社長の西田様にご講演いただきました。

 渡辺様は、観光行政をあずかる官のお立場から、おんせん県PR、ディスティネーションキャンペーン、大分県のターゲット層とそれへのアプローチ、商標登録をめぐる動きなど、大分県のツーリズム戦略の取組み概要についてお話下さいました。

 第8回全広連鈴木三郎助地域賞で優秀賞を受賞した「おんせん県おおいた」のCM(シリーズ全作計7分間)をご覧戴いたのち、CM出演者でもある西田様のお話。

 西田様には、観光産業に携わる経済人という民のお立場から、民間の声からはじまった取組みのきっかけ、民間におけるこれまでの取組みと今後の展望などを、おんせん県CM撮影の裏話も交えつつお話いただきました。

 開演前に上映した「めじろんコール・ミー・メイビー」「キティ&TAO」、講演者交代の合間に上映した「おんせん県おおいた」CMの動画も好評で、とりわけ「おんせん県おおいた」CMの上映時は、講演者自身の出演もあってか、たびたび笑いが起こりました。

 「おんせん県プロジェクト」の取り組みのきっかけは、東北大震災だったということは、意外と知られていないことだと思います(私自身知りませんでした)。
 講演者である西田氏ら別府市の経営者有志が、3.11の被災地に温泉を届ける活動を行ったとき、現地で「新婚旅行は別府だった。復興したら、絶対また旅行に行くからね!」などの反応を得て、これをきっかけに「大分県の温泉はやっぱり日本一だ、これを全国にアピールしなければ」という声が若手経営者らから起こったのだそうです。

 かかる民間からの声を受けて、大分県は「大分県はおんせん県」を提唱することになりました、と書いてしまうのは簡単ですが、これが大分県の観光ツーリズム戦略の重要な柱と位置付けられるようになるまでには、官民双方の関係者のご尽力があったものと推察されます。

 商標登録をめぐる動きが、他県も巻き込む賛否両論を巻き起こしたことも記憶に新しいところですが、商標登録をめぐる騒動を逆手に取ったテレビコマーシャルは、県外広報としてじつに心憎いうまいやり方だったと思います(先日の新聞報道では、広告効果11億円以上である由)。

 もしまだご覧になっていない方がおられましたら、ぜひ以下のリンクからどうぞ。
 おんせん県って言っちゃいましたけん!CMシリーズ総集編