2012年8月2日木曜日

資料の妥当性を判断するということ


 わたくしたち専門職業家が、分析調査の過程で採用する各種のデータは、採用した時点でそれを「専門職業家として」妥当と認めたことになる。それゆえ、その提示資料が信頼するに足るものかどうかの吟味がきわめて重要となるし、資料の妥当性を判断する眼力を養う努力は欠かせない。

 以下は、私がかつて経験した案件。

 借金苦で夜逃げするのはテナントの方というのが世間の常識で、オーナーが夜逃げする時代がくるなど、かつては考えられなかった。しかしながら、不動産市況が長期低迷する中、かかる事態は決して珍しいことではなくなっている。

 ある貸店舗で、オーナー行方不明の状況下、テナント側は月額賃料の数十倍の保証金を支払ったと主張、その証拠として敷金授受の旨を記載した覚書を提示した(なお、月額賃料の何倍程度までが買受人の引き受けになるか、という論点はひとまずおく)。
 これをそのまま採用すれば、保証金の運用益を考慮した実質賃料は、月額支払賃料と相当差のある高額なものとなる。しかし、私はこの敷金授受には疑問があると判断し、その運用益を考慮しなかった。その理由は、家賃の入金口座に保証金授受の記録がなく、かつ提示された覚書は、その当時のテナントの名称ではなく、その数年後に商号変更した現在の社名での記名捺印であったからである(商号変更の経緯は法人登記簿で確認した)。

 資料の妥当性を判断する眼力が求められる点は、ドキュメンタリー作家なども同じであろう。
 澤地久枝氏の『雪はよごれていた 昭和史の謎二・二六事件最後の秘録』は、丹念な文献調査に基づき、これまで闇の中にあった昭和史の真実を暴きだした名著とされる。

 しかしながら、一読者としては、アプローチの見事さに興奮を覚えつつも、他の既出資料が意図的な隠ぺいを仕組んだもので、新たに発見した資料や証言こそが真実を語るものとなぜ言えるのかがわからなかった。当時、二・二六をめぐる軍法会議が統制派の掌中にあったことは当然で、そこから得た情報には相当なバイアスがかかっていると見る方が自然に思えたのである(昭和史の研究者である大江志乃夫先生も澤地説には疑問を呈されていた)。

 事実がどうであったか、それはわからない。明らかなことは、澤地氏が実績あるプロのドキュメンタリー作家として、これらの資料を「妥当と認めた」ことだけだ。







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