今でしょ!の林修先生が先日、テレビ番組で「最も尊敬する人物」の話をされていました。
その人物とは、元東大総長・フランス文学者にして映画評論家・文芸評論家としても知られる蓮實重彦氏です。
林先生は、蓮實氏が東大総長に就任した時の記者会見のVTRを引用し、『ほんとうの知識人とはこういう人のことを言うんです!』と言われていました。
件の総長就任会見の冒頭、記者から『まずは率直な感想をお聞かせください』と質問された蓮實氏は、『どうもありがとうございます。』と応えました。続けて『実はさきほど賭けをしまして、まずは率直な感想を聞かれる、という方に賭けたのです。額は言えませんが、私は相当儲けさせていただきました。』と(まともな質問も用意出来なかった記者たちにとって、これ以上の皮肉はない気がしませんか?)。
では、こんな風に記者たちを揶揄した蓮實氏自身は、いったいどれほどの質問力の持ち主なのでしょうか。
その片鱗を覗うことのできる格好のエピソードが、斎藤孝『「できる人」はどこがちがうのか』(ちくま新書)で紹介されていました(注1)。
蓮實がフランス映画界の巨匠ジャン=リュック・ゴダールをインタビューした時のこと。多忙でインタビュー嫌いのゴダールから許されたのは、わずか三十分、しかも質問はひとつだけだった。ゴダールはフィルム編集の手を休めず、不機嫌そうだ。
この厳しい制約のもとで、蓮實は、こう切り出した。
「あなたの映画は、だいたいどれも一時間半ですが、私はそれがあなたの職業的倫理観からくるものだと…」
ゴダールは、蓮實が言い終わらないうちに「そうなんだ!」と叫び、すぐに秘書を呼んでその日の予定を全てキャンセルさせ、フィルムを編集するときの断腸の思い、鑑賞者の視点に立てず徒に長時間作品を垂れ流す映画界の現状に対する批判などを何時間も熱く語った。
斎藤氏は、この蓮實氏の質問を次のように評価されています。
これは、非常にすぐれた質問だと思う。相手が今一番関心を持って取り組んでいる作業に合わせているし、相手の過去についてちゃんと勉強をしてきていることがわかるし、長い映画が多くなってきているという今の映画界の問題点がわかっていることが伝わるし、その上、相手のプロ意識を刺激している。
斎藤氏のこの総括を読んで、まっさきに想起したのは、立花隆氏が著書『知のソフトウェア』(講談社現代新書)の中で述べていた「いい話を聞くための条件を一語で要約するなら、こいつは語るに足るやつだと相手に思わせることである。」という一節でした(注2)。
インタビューに対して冷淡な反応を返すことが多い印象のある野茂秀雄氏やイチロー氏も、一流のスポーツジャーナリスト(玉木正行氏や二宮清純氏)の問い掛けには、真摯に、次元の高いコメントで応えているのは、玉木氏や二宮氏が「語るに足る相手」だからに違いありません。
インタビュワーがぞんざいな問い掛けをし、相手が質問に沿わない勝手なコメントを返し、それでもインタビュワーは相手のコメントをコントロールできずに漫然と話が続いていく…そんな場面を何度も何度もさまざまなところで見るにつけ、質問の質を決めるのは、質問の背景にある質問者の問題意識だと改めて思うのです。
<追記>
私自身は、インタビューをするとき、インタビューの目的や相手の属性に拘わらず「ご教示いただく」という姿勢を保っているつもりです。
そして、相手の回答を「…ということですか?」と若干の専門用語を用いて要約し、確認しています。それで、私の理解の正邪を確認できるし、相手は私のことを、一定の知識がある人間だと認識できるであろうからです。
但し、業界特有の符牒みたいな言い方は口にしません。たとえ知っていても、外部の人間が口にしていい言い方ではない気がするからです。
業界人なら必ず一度は悩んだことがあるであろう事柄について「…はどうされてます?」という問いかけをすることで、瞬時に相手の反応が変わった経験は一度や二度ではありません。
(注1)正確には、本書には、質問をひとつに限ったことやゴダールが「そうなんだ!」と叫んだ描写がありません。私がこのエピソードを知ったのは本書以外の書物である可能性が高いのですが、残念ながら現時点では、その出所を特定できないでいます。
(注2)立花氏は「話が通じるための要素」として、充分な予備知識と理解力を持っていること、自分の気持ちをよくわかってくれるなと思ってもらうこと、そして人間として信頼できるやつだと思ってもらうことと述べています。
その人物とは、元東大総長・フランス文学者にして映画評論家・文芸評論家としても知られる蓮實重彦氏です。
林先生は、蓮實氏が東大総長に就任した時の記者会見のVTRを引用し、『ほんとうの知識人とはこういう人のことを言うんです!』と言われていました。
件の総長就任会見の冒頭、記者から『まずは率直な感想をお聞かせください』と質問された蓮實氏は、『どうもありがとうございます。』と応えました。続けて『実はさきほど賭けをしまして、まずは率直な感想を聞かれる、という方に賭けたのです。額は言えませんが、私は相当儲けさせていただきました。』と(まともな質問も用意出来なかった記者たちにとって、これ以上の皮肉はない気がしませんか?)。
では、こんな風に記者たちを揶揄した蓮實氏自身は、いったいどれほどの質問力の持ち主なのでしょうか。
その片鱗を覗うことのできる格好のエピソードが、斎藤孝『「できる人」はどこがちがうのか』(ちくま新書)で紹介されていました(注1)。
蓮實がフランス映画界の巨匠ジャン=リュック・ゴダールをインタビューした時のこと。多忙でインタビュー嫌いのゴダールから許されたのは、わずか三十分、しかも質問はひとつだけだった。ゴダールはフィルム編集の手を休めず、不機嫌そうだ。
この厳しい制約のもとで、蓮實は、こう切り出した。
「あなたの映画は、だいたいどれも一時間半ですが、私はそれがあなたの職業的倫理観からくるものだと…」
ゴダールは、蓮實が言い終わらないうちに「そうなんだ!」と叫び、すぐに秘書を呼んでその日の予定を全てキャンセルさせ、フィルムを編集するときの断腸の思い、鑑賞者の視点に立てず徒に長時間作品を垂れ流す映画界の現状に対する批判などを何時間も熱く語った。
斎藤氏は、この蓮實氏の質問を次のように評価されています。
これは、非常にすぐれた質問だと思う。相手が今一番関心を持って取り組んでいる作業に合わせているし、相手の過去についてちゃんと勉強をしてきていることがわかるし、長い映画が多くなってきているという今の映画界の問題点がわかっていることが伝わるし、その上、相手のプロ意識を刺激している。
斎藤氏のこの総括を読んで、まっさきに想起したのは、立花隆氏が著書『知のソフトウェア』(講談社現代新書)の中で述べていた「いい話を聞くための条件を一語で要約するなら、こいつは語るに足るやつだと相手に思わせることである。」という一節でした(注2)。
インタビューに対して冷淡な反応を返すことが多い印象のある野茂秀雄氏やイチロー氏も、一流のスポーツジャーナリスト(玉木正行氏や二宮清純氏)の問い掛けには、真摯に、次元の高いコメントで応えているのは、玉木氏や二宮氏が「語るに足る相手」だからに違いありません。
インタビュワーがぞんざいな問い掛けをし、相手が質問に沿わない勝手なコメントを返し、それでもインタビュワーは相手のコメントをコントロールできずに漫然と話が続いていく…そんな場面を何度も何度もさまざまなところで見るにつけ、質問の質を決めるのは、質問の背景にある質問者の問題意識だと改めて思うのです。
<追記>
私自身は、インタビューをするとき、インタビューの目的や相手の属性に拘わらず「ご教示いただく」という姿勢を保っているつもりです。
そして、相手の回答を「…ということですか?」と若干の専門用語を用いて要約し、確認しています。それで、私の理解の正邪を確認できるし、相手は私のことを、一定の知識がある人間だと認識できるであろうからです。
但し、業界特有の符牒みたいな言い方は口にしません。たとえ知っていても、外部の人間が口にしていい言い方ではない気がするからです。
業界人なら必ず一度は悩んだことがあるであろう事柄について「…はどうされてます?」という問いかけをすることで、瞬時に相手の反応が変わった経験は一度や二度ではありません。
(注1)正確には、本書には、質問をひとつに限ったことやゴダールが「そうなんだ!」と叫んだ描写がありません。私がこのエピソードを知ったのは本書以外の書物である可能性が高いのですが、残念ながら現時点では、その出所を特定できないでいます。
(注2)立花氏は「話が通じるための要素」として、充分な予備知識と理解力を持っていること、自分の気持ちをよくわかってくれるなと思ってもらうこと、そして人間として信頼できるやつだと思ってもらうことと述べています。
0 件のコメント:
コメントを投稿