2012年4月22日日曜日

十年後の花形職業は


高校生のころ、暗誦させられた祇園精舎。いまでも大体は諳んじることができます。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し
猛き人もついには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ

本当にそのとおりだ、と思います。

戦前の大学生就職人気トップ企業は満鉄(南満州鉄道)だったそうです。
天下の秀才を集めた高収益企業だったようですが、当然ながらいまは跡形もありません。

終戦後は、製糖・製紙・セメント・石炭が人気。三白景気、黒いダイヤという言い方もされました。
バブル期は航空会社・銀行が脚光を浴びました。その後については解説は不要でしょう。
松任谷由美さんは「私のアルバムが売れなくなるとしたら、都銀でもつぶれるとき」と言ったそうですが、いずれも現実となりました。

そして天下の東電はかくの如きありさま。

いまの花形職業も、十年後はどうでしょうか。花形でないどころか、そんな職業はもうないかもしれません。
逆に、いまは名もないような職種が脚光を浴びているかもしれません。

私を含め、業際で活動する人たちの多くは、未だ自分たちの役割を適切に表現する「肩書き」を持ち得ていません。
でもそれらの活動が、既存のサービス以上にお客様に役立つものなら、積極的に「肩書き」を作り、使い、情報発信していかなければ、と思っています。

先日、子供の英才教育に関するテレビ番組をやっていました。子供たちの力量は確かに驚嘆に値すると思いましたが、同時に子供たちがとっても気の毒な感じがしたのも事実です。

だって、親たちが子供のために敷いたレールは、いまの親たちに見えている古いレールに過ぎないのですから。


2012年4月7日土曜日

傾聴に値する意見の要件は


 丸山徹さんという方のブログ『裁判員制度徹底解明』〔http://blogs.yahoo.co.jp/maruyama3t/archive/2009/09/20〕
の中に、「日本にも陪審制があった」と題した興味深い記事がありました。

 30年近く前になりますが、私も当時の陪審裁判を取り上げたエッセイ(たしか和久峻三先生)を読みました。
 市井の「門外漢」「法律の素人」「捜査の現場を知らない人」たちが、実に鋭い指摘をしつつ、真実に近づいていく様子が裁判記録から伝わってきて、感動を覚えた記憶があります。


さてブログの中で、丸山さんは、大正デモクラシーの成果である陪審法(当時の陪審制の根拠法)を『日本の法制史上、最も先鋭的、革新的な法律であったと言っても過言ではない。』と評価し、次のように述べておられます。

『15年間で延べ484件の陪審裁判が行われ、81件の無罪判決が出た。無罪率は16.7%。』

『同期間の通常の裁判の無罪率が1.2%から2.0%だったことを勘案すれば、陪審裁判の無罪率は驚異的である。当時の検察、裁判所にとって、それは悪夢であったに違いない。』

『なぜ、こんな劇的な変化が起きたのか。それは、普通の市民である陪審員が、法廷で裁判官が行う被告や証人の尋問を直接きいたり、法廷に提出された証拠を自ら見たりして有罪・無罪の判断をしたからである。』

『刑事裁判の最も基本的な原則が順守された結果、劇的な変化が起きた。密室での被疑者の取り調べ内容が記された調書が、事実上、無条件で証拠となり、有罪判決が下されるというのが当時の裁判の常識であった。陪審裁判は、この常識に従わず、陪審が自らの思考と判断で、事実を認定し、有罪・無罪を決めた。その結果が、無罪率16.7%という数字となって表れたのである。』

  自分は専門家だからとか経験者でないからとかにとらわれないこと。
  一生懸命考えること。
  そして、できれば、思考するためのコツを知っていること。

 どのような分野にせよ、真理に近づくための要件は、この三点に尽きるような気がします。
 それが誰の意見であれ、これらの要件を備えた意見は、傾聴に値すると私は信じます。
(2012.4.7)

2012年3月30日金曜日

不動産鑑定士が抱く「署名」への格別の思い

 かねてからお世話になっている不動産鑑定士のH先生が先般、所属鑑定機関の社長に就任された。

 そのお祝いとして、ささやかながら某文具店のオリジナル万年筆をお送りした。プロトタイプである大手メーカー品よりも書き味において優ると専らの評判で、私自身かねてから欲しかった一本であった。

 先生ご本人の使用感はまだうかがっていないのだが、「一度万年筆の書き味に慣れたら手放せませんよ。不動産鑑定書に署名するときにも良いかもしれません。」と私が言うと、「でも俺、きっと無くすぜ」とおっしゃる。そこで「普段使い用だから、無くしてもあきらめがつきますよ」と申し上げた。

 私たち不動産鑑定士にとって、「署名」には格別の意義・思いがある。自ら立案した不動産鑑定評価書に署名捺印する一瞬は、改めて「これが俺の意見だと胸を張れるか」と自問するときでもある。「留め、はね、払い」がうまくいかなかったら書き直すくらい普通だ。

 事務担当者による校正後、さらに一読し、署名する。署名した後も、もう一度評価書の内容を吟味する。そこでようやく、事務担当者の製本作業に委ねるのが私の習いになっている。

 このささやかなプレゼントが、先生のそんな「一瞬」の一助になるなら、私にとって多としなければならないだろう。
 (2012.2.26)

保有資産の市場価値下落が気になりますか?

 私の許には、「気になりませんか?愛車の現在価格!」というセールスレターがよく届きます。


 あいにく私は愛車の現在価格などまったく気になりません。何しろ実用15年、走行距離11万km近い私のクルマの現在価格など5万円にも満たないことでしょう(いやむしろ廃車費用が顕在化してもっと安いかも?)。

 そもそも、現に保有している資産の市場価値が気になるのは、どのようなケースでしょうか。

 ①利用していないとき。または有効利用度が非常に低いとき。
→クルマでいえば、半年に一度ドライブに行くだけ、というようなケース。年2回レンタカーを調達する代替案と比較考量すべきでしょう。

 ②より市場価格の低い代替資産で、同等の効用が得られるとき。
→クルマでいえば、通勤用にポルシェを使用しているようなケース。ステイタス性などを考慮外とすれば、コンパクトカーのほうが適当かもしれません。

 ③運用コストが有意に低い代替資産がある場合。
  →クルマでいえば、ハイブリッドカーとの買い替えを検討する場面に相当します。

 以上を要するに、現用中の資産を保有し続けると損になるおそれがあるとき、といえそうです。

 「なんでも鑑定団」で中島誠之助さんが『器は使ってこそ価値が出る』とおっしゃっていました。
 企業用不動産(CRE)も事情は同じ。使ってこそ、それも経営の本旨に沿った利用をしてこそ価値が生まれます。不動産が持つインフレ耐性の強さは否定しませんが、遊休物件の継続保有が許容されるのは、将来本業に活用する予定があるものなど、限られたケースと言えそうです。

 但し、上記のクルマの例と同様、現に利用中の不動産といえども有利な代替資産との比較は欠かせません。他方、事業に不可欠な資産として稼働しており、かつそれが事業継続が可能なだけのキャッシュフローを生む見込みがあるならば、不動産市況の悪化など、関心を持つ必要はないでしょう。
 (2012.1.9)

「お墨付き」の真価を問われる「お墨付き産業」

 不動産鑑定業は「ソリューション産業」であると同時に「権威産業」「お墨付き産業」の側面を有しています。
 鑑定評価書というお墨付きによって、価格の正当性を示し、もって当事者を合意に導いたり、トラブルを未然に防止したりといったソリューションを提供する産業、という言い方もできるでしょう。

 いわゆる「かんぽの宿」問題は、かかる不動産鑑定業の本質に関わるような重要な問題を提起しています。

 『国土交通省は26日、旧日本郵政公社が依頼した宿泊・保養施設「かんぽの宿」の一括売却に絡む不動産鑑定で不当な評価をしたとして、不動産鑑定士4人を業務禁止や戒告の懲戒処分、不動産鑑定業者1社を戒告の監督処分にしたと発表した。また13人を文書注意、1社を口頭注意の行政指導とした。国交省によると、鑑定士らは平成19年8月末にかんぽの宿の評価書を公社に提出。事前に公社に示した原案から大幅に価格を引き下げた理由に合理性がない上、実地調査していない物件や、つじつまの合わない記載があり、不当な鑑定評価と判断した。鑑定士が原案を示した際、公社側は「早期に売却したい。今の市場で売れるのか再検討してほしい」と伝えたという。』(2011.8.26産経ニュース)

 本件では、依頼者側から「低めに評価してほしい」という要請、いわゆる『依頼者プレッシャー』があったことが非常に大きく採り上げられています。
 しかしながら、何らかのソリューションを目的に鑑定評価を依頼している依頼者が、「なるべく安ければ(高ければ)いいな」という期待を持つのはむしろ当然です。依頼者プレッシャー、とひとことに言いますが、相当に執拗かつ悪質な強要があった場合はともかく、プレッシャーが不当鑑定の理由になるのならば、「鑑定評価額は不動産鑑定士の主体的意見である」という前提そのものが覆ってしまいます。

 依頼者の意向に盲目的に従っておいて、「お墨付き」としての真価が問われたときに合理的な説明資料とはならず、「依頼者プレッシャーの結果です」となったのでは、何のための鑑定評価かわかりません。

 「もう少しコストダウンできない?」というクライアントの真意は、「粗悪品を作れ」ということでは決してないでしょう。不動産鑑定士は、依頼者に寄り添い、適切なソリューションを目指しつつも、合理的な価格のありどころを依頼者にこそ示せなければならないと思います。
 本件が「不動産鑑定業の重大な危機」を示していることは間違いありませんが、「ソリューション産業」としての不動産鑑定業は、遅まきながら「お墨付き」の中身をも問われ始めたことで、一層成熟する機会を得たのかもしれない、とも思うのです。
 (2011.9.23)

「新規性」の要件に目を奪われるな

 経営革新計画をはじめとする中小企業の経営計画支援諸制度は、企業が自ら事業を見つめなおし、次の一歩を計画的に踏み出すための意義ある制度であると評価しています。

 しかしながら、「計画承認を得ることが自己目的化」すれば、むしろ当該企業の事業劣化を引き起こしかねない危うさも孕んでいます。端的に言うなら、「企業が計画の実行組織たりうるためにまず手を打つべきことは、計画策定以前にあるのではないか」ということです。

 実行組織の脆弱なまま進められる経営革新計画は、クルマにたとえれば、軽四のシャシーにBMWのストレート6を積むようなもの。ストレート6の能力が発揮されないばかりか、軽四本来の良さすら失わせてしまいます。

 計画支援にあたる専門家である私どもは、「新規性」の要件のみに目を奪われることなく、企業の現状や保有能力に十分配慮しつつ支援を提供したいものです。
 (2011.8.25)

金づちしか持たないものには釘しか見えない

 ネット販売などで目にすることも多くなった無農薬リンゴ。先日も、青森県弘前で無農薬リンゴの栽培を20年続けているという生産者の木村秋則氏がテレビに出演されていました。

 この無農薬リンゴを目にするたびに思い出すことがあります。


 もう20年近くも前、まだインターネットは一般的でなかったパソコン通信全盛の時代ですが、ニフティサーブに農業について語るコーナーがありました。そのコーナーでは生産者と消費者の意見交換などが行われていたのですが、あるときユーザーからリンゴ栽培について質問が寄せられました。内容は概略、『果樹栽培を手がけてみたいのだが、これまでリンゴの無農薬栽培など身近に聞いたことがない。どなたか無農薬リンゴの栽培を手掛けておられる方がいたらご教示いただきたい』というようなものであったと記憶しています。

 回答はすぐに寄せられました。『専門家なら常識のように誰でも知っていることですが、リンゴはきわめて病気に弱いので無農薬栽培などありえないのです』。まるで『だから素人は困る』と言わんばかりのものでした。このやりとりは、『ありがとうございます。やはり無理なのですね。』と終わるはずでしたが、ここでは終わりませんでした。『私は無農薬リンゴの栽培をもう何年もやっている。具体的には…』という別の回答が寄せられたからです。この後のやりとりについては記憶があいまいですが、『無農薬栽培などありえない』と言った先の回答者の発言はもうなかったのではないかと思います。

 私は「金づちしか持たないものには釘しか見えない」「人間は自分は偉いと思ったとたんにバカになる」という言葉が好きです。前者は、経験や知識が不足していると視野が狭まり問題解決策を見出しにくくなること、後者は、虚心坦懐に考えたり他人から学ぶ謙虚さを失うと判断を誤ることを戒めた警句だと理解しています。

 巷間『○○の専門家』を自認する人々の中には、素人の意見を即座に全否定する人もいるし、素人にも「専門家がこう言っていた」とその無謬性を疑わない人もいますが、このような人を見るたび、前掲の警句を思い出して自らへの戒めとしています。
 中小企業診断士などの専門家による支援に、最も求められていることも、「金づち以外の道具」=「その業界には従前なかった知見」でもって「真の課題や改善テーマに対する洞察」を示すことなのではないのか、と。
 (2011.8.20)