2014年12月13日土曜日

岡城と薩摩兵の縁(その3)

 前回は天正15年(1587年)、岡城主志賀親次が鬼ヶ城にて島津勢に決戦を挑み、決定的大勝利を挙げたところまでを書きました。
 
 さて、それから290年後の明治10年(1877年)。不平士族たちが下野した西郷隆盛を盟主に担ぎだして武装蜂起した西南戦争(西南の役)が起こりました。

 熊本城攻めで戦力を毀損し、田原坂でも敗北を喫した西郷軍は、本営を人吉に移します。ここで西郷から豊後方面制圧の命を受けたのが、奇兵隊指揮長・野村忍介(おしすけ)です。
 桐野利秋麾下にあった野村は、この戦争についてはもともと慎重論を説いていたそうですが、開戦以後はむしろ必勝の信念に燃えて積極策を数多く意見具申したとも言われています。
 この点、二二六事件における安藤輝三大尉の姿を重ねてしまいます(注1)。
 
 野村の率いる奇兵隊は、5月13日に竹田を占領。しかし、その後政府軍が到着すると、両軍の間で十数日に及ぶ激戦が繰り広げられ、29日ついに竹田は陥落しました。
 後掲写真の「激戦マップ」に描かれた地。この地こそ、かつて島津勢と志賀勢が相見えた鬼ヶ城一帯なのでした。


 鬼ヶ城の集落を上りきったところにある鴻巣台公園には「西南の役激戦の地」の石碑が立っています(後掲写真上)。
 この公園にほど近い丘には、広瀬武夫中佐の墓(後掲写真中)、さらに狭隘な平坦部に拓かれた市道を百メートルほど進むと、広瀬武夫中佐の生家跡(後掲写真下)があります。





 この戦いで、周辺の民家には火が放たれ、集落はことごとく焼失しました。焼け出された住民の中には、のちに「軍神」と呼ばれる広瀬武夫少年(当時九歳)の姿もあったのです(注2)。

 生きてこの地を退いた野村は、この後も各地を転戦、最後まで西郷に従い郷里の城山に至りましたが、ここでついに投降し、のちに鹿児島新聞社(現在の南日本新聞社の前身)を興したということです。

 それにしても、野村の率いる奇兵隊は、なぜ鬼ヶ城をさいごの反攻拠点に選んだのでしょうか。
 私自身は、薩摩藩伝統の郷中(ごじゅう)教育により「あの島津義弘公ですら落とせなかった」と語り継がれ、刷り込まれてきたからではないかと勝手に思っています(注3)。

(注1)
 安藤輝三は、二二六事件の首謀者のひとり。
 当初は時期尚早と蹶起に反対の立場をとりましたが、いざ蹶起するや、彼の指揮する中隊は最も強力な実行部隊となり、奉勅命令以降、他の青年将校が次々に脱落投降するなか、赤坂山王ホテルを占拠して最後まで頑強な抵抗を見せました。
 東宝映画『226』では、安藤大尉を三浦友和さん、山王ホテルの支配人を梅宮辰夫さんが演じていたと記憶しています。

(注2)
 この戦いで家が焼けてしまった広瀬一家は、武夫の父重武の赴任地である飛騨高山へと引っ越す事になりました。 
 なお、竹田市中心部、竹田市立歴史資料館前の広場には、大分県出身の彫刻家である辻畑隆子が手掛けた広瀬武夫のブロンズ立像が立っています。平成22年に2,000万円あまりを費やして建立されたのだそうです。

(注3)
 不幸なトラブルで惜しくも絶版となった池宮彰一郎の名著『島津奔る』のラストシーン、かつて義弘公の近習として苦楽を共にした中馬大蔵のもとに、子どもたちが「関が原の合戦のときのお話をお聞かせ下さい」とやって来ます。
 いまは老いた大蔵は「世に関が原の合戦と申すは…」と語り始めますが、さまざまな思いが去来し、言葉が続かずに号泣してしまいます。
 やがて少年たちは、一言も語らず絶句したままの大蔵に「いままででいちばん勉強になりもした」と礼をいい、感動した面持ちで帰っていきました。野村忍介にもそんな体験があったのでしょうか。


参考サイト;

  西南戦争茶屋の辻の戦い 

  奇兵隊展開

2014年12月5日金曜日

岡城と薩摩兵の縁(その2)

 前回は、滑瀬からの攻撃に三度失敗した島津勢に、岡城主志賀親次から『滑瀬は足場が悪い。渡河容易な浅瀬をお教えするゆえ、岡城南西方の鬼ヶ城にて雌雄を決したい』との文が届いたところまで書きました。

 ⇒ 岡城と薩摩兵の縁(その1)を見る

 このとき、豊後侵攻を急ぐ島津義弘は、すでに配下の部将稲富新助に兵五千を託し、久住方面に転進していました。
 矢文を受け取った稲富新助は、城方の申し出神妙であると感じ、鬼ヶ城決戦に応じたようです。

 当日早朝、島津勢が鬼ヶ城川向かいの小渡牟礼(おどむれ)で待ち構えていると、岡城からの使者がやってきて、浅瀬を指し示しました。

 それ、と島津勢が渡河を開始すると、川を渡り切るのを待っていたかのように、銃弾が降り注いできました。志賀勢はひそかに鬼ヶ城の高台に鉄砲隊数百を潜ませていたのです。
 志賀勢は、総崩れとなった島津勢をなおも追撃、首級数百を挙げる大勝利をおさめました。
 前出の郷土史誌によると、このとき志賀親次自ら鬼ヶ城至近の魚住(うおずみ)まで出馬し、督戦したということです。

 安土桃山時代最強の武装集団である島津勢も、豊後竹田では全くいいところのないまま、攻略を断念するほかありませんでした。

 島津勢の岡城攻めのお話はここまでです。

 でも、薩摩兵と岡城の縁はまだまだ続きます。時代は変わり明治維新期、薩摩兵はふたたび豊後竹田へとやって来ました。
 そして、それは日露戦争での逸話で知られる広瀬武夫中佐の生い立ちにも深く関わることだったのです。 (つづく) 
                                              
参考サイト 岡城攻防戦


 
 


2014年12月3日水曜日

岡城と薩摩兵の縁(その1)

 稲葉川と白滝川の激流を外堀代わりに、峻険な断崖絶壁を石垣代わりにもつ岡城(大分県竹田市)は、備中松山城(岡山県)、高取城(奈良県)と並び、日本三大山城のひとつにも数えられる名城です。

 一説には日本三大山城として、岡城にかえて岩村城(岐阜県)を挙げる向きもあります。女城主伝説で有名な岩村城も、たしかに一度は訪れてみたい壮麗な城郭ですが、実戦での折り紙つき(combat proven)という点では、岡城の敵ではないでしょう。

 いまに残る岡城の遺構は、江戸時代に中川氏が大幅な改修を加えたものです。しかし、この城の「難攻不落ぶり」を伝える最も有名な逸話はそれ以前、大友宗麟・義統父子の時代に、精強を誇る島津勢三万の大軍が押し寄せたときのもの。

 このとき、弱冠十九歳の城主、志賀親次(しがちかつぐ、洗礼名ドンパウロ)は、兵力一千の寡兵ながら、島津勢を城外で迎え撃ちました。

 大分県立図書館の郷土資料室で閲覧した郷土史誌(書名を失念しました)によると、島津氏来襲に先立って開かれた軍議の席上、籠城策を具申するものもありましたが、老臣某が進み出て「地の利は我が方にあり、城外で迎え撃つべし」と意見を述べると、親次は莞爾と笑って「よくぞ申した、そちに兵300を預ける」と言った云々の記述がありました。

 天正14年(1586年)、阿蘇から九州山地を越えて豊後に侵攻した島津義弘は、さしたる抵抗も受けずに岡城の支城幾つかを攻略したのち、岡城の南方に正対する片ケ瀬台地に陣を構えました。

 義弘がついに岡城総攻撃を下知したのは、本稿を書いている12月2日(もちろん旧暦ですが)のことです。

 薩摩兵は大挙して岡城の南側にある滑瀬(ぬめりぜ)に殺到します。しかし、城内に逃げ込んだとばかり思っていた志賀勢は、断崖絶壁を背に白滝川(大野川)対岸に陣地を築き、鉄砲で猛反撃してきました。
 銃撃されるもの、溺れるもの多数。島津勢は、おびただしい犠牲を出して退却するほかありませんでした。

 その後島津勢は、二度にわたり滑瀬からの渡河を試みるも、城方の抵抗が激しく、攻撃は失敗に終わりました。

 そのとき、島津勢に城主志賀親次からの矢文が届きます。次のような内容でした。

 『滑瀬は足場が悪い。渡河容易な浅瀬をお教えするゆえ、岡城南西方の鬼ヶ城にて雌雄を決したい』

 (岡城と薩摩兵の縁(その2)につづく

 下の写真は、現在の片ケ瀬の風景。大野川を挟んで、この真正面に岡城が臥牛のごとく横たわります。島津義弘もここから岡城を睨み、策を練ったのでしょうか。





2014年11月21日金曜日

『軍師勘兵衛』はどう描く?吉弘統幸と井上九郎衛門

 以前、当ブログで「石垣原の戦いにおける吉弘統幸と井上九郎衛門のエピソードは、必ずや大河ドラマ『軍師勘兵衛』で取り上げられるに違いない」と書きました(後掲関連記事参照)が、その期待がいよいよ高まってきました。

 石垣原の戦いは、現在の別府市市街地一帯を舞台に、大友義統と黒田如水が激突した西の関が原、ともいわれる合戦。

 この戦いで、大友方右備えとして現在の杉乃井ホテル付近に陣を敷いたのが、大友家中随一の槍の名手である吉弘統幸でした。

 戦いのさなか、死を覚悟した統幸は、かつて恩をうけた九郎衛門をわざわざ選んで槍をあわせ、その恩に報いるべく首を授けたともいわれます。

 その統幸を的場浩司さんが演じるとなれば、一番のクライマックスシーンをスルーする演出はありえないでしょう。

 さて、もう一方の将、井上九郎衛門は黒田家次席家老。

 石垣原の戦いでは、実相寺山(黒田如水本陣)西方の角殿山(現在のルミエールの丘)に陣を敷いたとされています。

 筆頭家老の栗山善助、三番家老の母里太兵衛と比較すると、ドラマでもやや影の薄い印象があるのが、高橋一生さんがクールに演ずる井上九郎衛門です。
 じっさい、黒田家中でも九郎衛門を「さしたる武功もないのに重用されている」とやっかむ向きもあったようです。

 それが、石垣原での奮戦で、ようやく愁眉を開いたのだとすれば、これまでの九郎衛門の「影の薄い感じ」もじつは伏線めいた演出だった、というのは、穿ち過ぎでしょうか(穿ち過ぎですよね)。

 さいごに、吉弘統幸が祀られている吉弘神社(別府市石垣西6丁目)の写真を掲げようと思ったのですが、撮った写真がどうしても見つからないので、吉弘神社ウェブサイトへのリンクを貼ってこれに代えます。

<関連記事>

  「『軍師官兵衛と永遠のゼロ』ツアー」




2014年10月5日日曜日

休日の朝、仕事場で聴きたい音楽三選

休日のトランポリン効果」という言葉を耳にしたことがあります。

休みの日に、きっぱり仕事から離れて積極的に休養をとることで、休日明けの仕事に対する意欲と効率が高まる、ということのようです。

確かにそのとおりだ、と私も実感するところがあります。個人的にも、毎週土曜日は原則として仕事から離れて、家族と過ごしたり、運動をしたり、体を休めたりすることに充てるようにしています。

ですが日曜日は、またちょっと違う使い方をしています。

事務所に出勤して、プロジェクトについて案を練ったり、雑駁なアイデアをノートに書き出したり、溜まった書類を見返してテーマ別にファイリングしたりと、いわば「急がないけど大事なことする日」にしているのです(注)。

ルーチンワークから離れることが容易で、電話もかかって来ない日曜日は、急がないけど大事なことをするのに最適。音楽でも聴きながら、ゆったりとした気持ちで、贅沢に時間を使ってこそ成果も上がろうというものです。

今回は、そんな休日にもってこいのジャズ系アルバムを三点ご紹介します。

1 Kenny Wheeler / Gnu High (1975/ECM)


先月18日に亡くなったカナダのトランペッター、ケニー・ホイーラーの最高傑作『ヌー・ハイ』。

のっけから天上高く舞い上がるような爽快感で、休日の朝にピッタリです(本稿もこれを聴きながら書いています)。

メインストリームから出発して、フリージャズに傾倒…などと紹介すると、セシル・テイラーやオーネット・コールマンを連想して敬遠したくなるかもしれませんが、この人の場合は心配ご無用。本作もフリーっぽいテイストを感じますが、それが開放感、スケール感を表現するのに大いに役立っていると感じます。(YouTubeで聴く



2 Aaron Parks / Arborescence (2011/ECM)


アーロン・パークスの『アルボレセンス』は、ピアノソロ作品。アーロン・パークスという人のことは、若手天才ジャズ・ピアニストと言われている、ということ以外、よく知らないのですが、これまで聴いてきたピアノソロ作品の中でいちばん「クラシック音楽ファン好み」という気がします。

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第一番みたいなテイストを感じることもあれば、リストのロ短調ソナタ風の響きを感じ取ることもあります。

彼のピアノトリオ作品も聴いてみましたが、響きがとても美しい、という印象は、ピアノソロ作品同様でした。(YouTubeで聴く




3 Keith Jarrett / The Köln Concert (1975/ECM)


なあんだ、という感じかもしれません。

「ポイントは3つあります」などと言われ、聞いてみると、3つめは1つめと同じようなことではないかとか、1と2に比べると3の重要度は格段に落ちるな、3は付け足しだな、と感じることがありませんか?

3枚めにキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』を持ってきたというのは、(名盤であることは誰もが認めるとしても)ありきたり過ぎ、付け足しがミエミエだと自分でも思います。(YouTubeで聴く




でも、奇しくも三枚全てがECM作品になってしまったことと併せ、いろいろ試してみた結果がこれ、というのが実際のところです。

休日のアイデア出しのお役に立てばさいわいです。



(注)各種セミナーの講師のご依頼をいただくことがありますが、そのネタのほとんどは、こうして日曜日に書き溜めたものを再構成して作っています。レジュメやプレゼンテーション・スライドを作る段になって「さあ、何を話そう?」と悩んだ経験はまずありません。


2014年9月25日木曜日

ハインリッヒの法則とまだ見ぬナガノコウイチさんのはなし

 ナガノコウイチさん、という名前には、かねてから聴き覚えがありました。

 私の行きつけの病院で、いつも呼ばれている名前だからです。

 私とよく似た名前のこの方、耳が遠いのか、いつも待合室に名前を呼ぶ声が何度も響きわたるのです。

 一度は私もナースステーションに申し出ました。

「あのお、ナガノケンイチですが、いま名前が呼ばれましたでしょうか?」
「いえ、ナガノコウイチさんをお呼びしました。もう少々お待ちください。」

 それで私も、ナガノコウイチさんと私は縁があるのだなあ、いつも同じ日にこの病院に来ているのだなあ、と思ったわけです。

 ところが、先日はちょっと勝手が違いました。ナガノコウイチさんを呼ぶ声がいつまでもやまないのです。

「ナガノコウイチさ~ん、ナガノコウイチさ~ん」。

 ナガノコウイチさんはいつになったら現れるのだろう?

 それに引き換え、俺の名前は呼ばれないなあ、まさか文盲率がゼロ同然のこの日本で、ナガノケンイチとナガノコウイチを読み違えないよなあ、と思っていたら、それ以上の取り違えでした。

「あの~、ナガノケンイチさんはいらっしゃいますか…?」。

 さきほどのナガノコウイチさんを呼ぶ声の半分以下の音量で、コソコソ聞き歩いている女性職員がいます。

 ようやく事態を理解した私は、「先程から、ナガノコウイチさんの名前をさかんに呼んでいたけど、ナガノケンイチのカルテと取り違えてたわけ?あきれたね!」と、周りの人にも十分聞こえる音量で、ゆっくり、はっきりと言いました。

 いつもの調子で怒鳴ってもよかったのですが、怒鳴りませんでした。この事態の15分ほど前に、職員相手に怒鳴り散らしているおじさんがいて、その振る舞いがじつに醜悪だったからです(おじさん、ありがとう。あなたのお陰で醜態をさらさずに済みました)。

 その後は、これまでにないスピードで診察に呼ばれ、会計窓口へと招じられました(いきさつ上、VIP待遇だったのでしょうか?)。

 さて。

 ハインリッヒの法則、という言葉に聞き覚えがおありになると思います。

 1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する、という事故と災害の関係を示した経験則です。当然、医療の現場にも妥当すると言われています。

 ニュースで、患者を取り違え、健康な臓器を摘出した、などという医療過誤を見聞きすると、そんなありえないことがなぜおこるのか?と思いますよね。

 でも、保険証を示し(診察券を提示することもある)、患者のフルネーム、生年月日、その他の情報もことごとく把握しているはずの医療機関が、受付でも、ナースステーションでも、そのミスに気づかない事態が日常的にあるとしたら。

 あっ、しまった!やべーやべー。それで済まされた異常事態がいくつかの偶然と相俟ったとき…ありえない医療過誤は起きているのではないか?そう思いました。

 今後私は、どこの医療機関でも、手渡されたカルテが本当に自分のものかどうか、きちんと確認しようと思います。

 でも、この「カルテの取り違え」には、水際作戦たる簡単なアイデアがあります。

 受付担当者が保険証と照合し、カルテを探しだした段階で、保険証の名宛人を呼ぶのではなく、カルテの名を呼べばいいのです。

 ナースステーションと違って、待っている患者は少数だし、リードタイムも一分以下です。カルテの取り違えがあれば、「えっ、それって俺のこと?名前が違うよ?」と、すぐに判明することでしょう(そもそもフルネームと生年月日の照合を必須とすべきことは言うまでもありません)。

 病院を出るときの私の胸には、次のような疑念が、ほとんど確信に変わろうとしていました。

「僕は、ナガノコウイチさんとほんとうにご一緒したことがあるのだろうか?毎度のように、カルテを取り違えられ、違う名前で呼ばれ続けていたのではないか?」

 
<追記>
専門職業家のなかには、おおきなミスの原因となるような気付きを「ヒヤリ・ハット事例」としてとりまとめている人たちもいます。業界の社会的信頼、ひいては社会的地位は、このような地道で、相互信頼と協働意識なしには生まれない活動の上に成立している、と思うこともあります。







 

 


2014年8月22日金曜日

甘えん坊の美点

下川式成功手帳の発案者であるしもやん(下川浩二)という方の講演を聴いたことがあります。
講演の半ば、彼はわれわれ聴衆に向かってこう問いかけました。
 『みなさん、人生でいちばん大事なことは何やと思いますか?』

人生でいちばん大事なこと…私も考えてみました。
正直であることか?一生懸命にやることか?友達を大切にすることか?はたまた健康か?
どれも大事なことだけど、決定的ではない気がしました。月並み過ぎるというか…。

しもやんが提示した答えは、もっと腑に落ちるものでした。

彼はこう言ったのです。
 『人生でいちばん大事なこと、それはな、人から好かれることや。』
そして、こう続けました。
 『人から好かれるのはな、素直な人や。人の話を素直によく聴く人や。』

そういえば、ある業界の重鎮の方から、こんな話を聞いたことがあります。
 『相手に疎まれたり、嫌われたりしてまで苦言を呈するほどお人好しではないよ。』
 『ひとの意見を聞く姿勢のない者には、二度と意見することはない。』

どうも、彼から助言をもらう機会を永遠に失った人は何人もいるようです。
思うに、失ったのは「助言をもらう機会」だけではないのではないかと…。

「人の話を素直に聞けない人」は、こんな反応をしがちです。

 スルー型:『ご助言ありがとうございます。』と口では言いつつ、書きとめようとも、話題にしようともしない(メモする姿勢を見せたかどうかで、相手の提供情報の質が変わる、ということはしばしばあります)。

 肯定型:『そうなんですよ!』と肯定的な相槌をうちつつ、後に言い訳が続く(そんなことは言われなくてもわかってる、ということなのでしょう)。

 甘え型:(いろいろ言い訳した後に)『どうかご理解ください』『温かく見守ってください』(口を出さず賛意だけ示せということか?)

 逆ギレ型:いわずもがなでしょう。

しかし、次のような言い方(受け止め方)に変えると、相手に与える印象も会話の展開も、大きく違ったものになるのではないでしょうか。

 『いや、私も△△と○○のトレードオフに悩みまして、当面の措置としては○○を重視する選択をしたのです。あなただったらどうお考えになりますか?』

猫は、人の膝に乗るのが上手です。いまだったら膝に乗っても問題ない雰囲気を読み取って膝に乗ってきます。

甘えるのが上手い人も似たようなところがある気がします。じつにいい感じで相手の懐に入っていくフィーリングを身につけているのです。

逆に、甘えるのが下手な人は、他人との距離を縮められなかったり、反対に相手が不快に感じるくらいTPOを選ばない距離感の縮め方をしているように思われます。

幼少期から無意識に身に付けた対人関係能力の差もあるのかもしれませんが、虚勢を張っていたり、他人からの批判を過剰に恐れたりすると(そしてそれは自己肯定感の不足が根っこにある気もします)、他人に甘え、他人に甘えられる相互関係が築きにくくなるように見えます。

そう考えると、ある種猫に近い感覚を身につけたかのような甘えん坊の我が子を見ていると、それも一種の才能とも思えてくるのです。










 








2014年8月9日土曜日

少年整備兵がみた出撃前夜の特攻隊員たち

 平和への祈りと鎮魂の季節がやってまいりました。個人的には、この時期がちょうど盂蘭盆会にあたることに救いみたいなものを感じます。

 もうずいぶん前のことになりますが、太平洋戦争末期に特攻基地で整備兵をしておられた方のお話をうかがう機会がありました。

 これまであまり人に話したことはありません。英霊を貶めるたぐいの話では決してないけれど、なんとなく話のネタにするのが畏れ多い気がしたからです。

 今回も、書こうか書くまいか迷いましたが、私だけの記憶にとどめるのはやはり勿体ないと、綴っている次第です。

 万一、お話下さった方にご迷惑がかかってもいけないので、どのような機会にどこでお話をうかがったかは伏せさせていただきます。また、うかつにもその方の所属部隊がどこだったかをお尋ねしませんでした。

 以下は、その方にうかがった内容です。


 特攻出撃の命令は、前日にわかるんや。

 その晩、出撃する隊員の食事はな、折り詰めに普段目にせんようなご馳走が盛られちょった。淡雪(注)もあったな。ビールも。もう二度と帰って来ん人たちへのせめてもの心づくしやったんやろうな。

 でも、みんな食べんのよ。つつくだけ。それはそうや、喉を通らんやろうな。ビールをラッパ飲みする人もおったけど、見ると喉が鳴ってない。飲んでないんや。ただビールが胸元をぬらすだけ。

 折り詰めに大量の料理を残したまま寝てしまうのが常やった。あんたは意地汚いと思うかもしれんけど、わしはそこにこっそり忍んで行って、食べ残しを貪り食ってた。ろくなもん食べてなかったからな。淡雪がほんと美味かった。

 飛行機に吊るす爆弾は、普通は操縦席の引き柄をひくと投下されるもんじゃが、特攻機は違った。ボルトでぎりぎりに締め上げて固定してしまうんや。飛び立ったらもう(爆弾の重量で)着陸できんようにするわけや。

 特攻機には必ず護衛の戦闘機が付いた。ある地点まで護衛したら引き返してくるはずなのだが、ただの一機も帰ってきたのを知らない。途中で敵機に撃ち落とされたのかもしれんし、あるいは燃料が尽きるまで特攻機と運命をともにしたのかもしれん。

 隊舎の横で、チャボを飼っている隊員がいた。律義に卵を産むチャボを可愛がっていたが、出撃が決まった日、彼はチャボを全部拳銃で撃ち殺してしまった。どんな気持ちだったんやろう。(私が「そんな振る舞い、上官が咎めないんですか」と訊くと)咎める人なんか誰もおらん。明日には英霊になる人たちなんやけん…。

(注)淡雪は、メレンゲを使ったムース状の寒天菓子。九州ではおせち料理に欠かせない定番である。この方にとって、淡雪は当時、ご馳走の象徴だったようで、淡雪のことは何度も話にでてきた。



2014年7月21日月曜日

メダカからわかる大分のむかし

 昨日、子どもたちを連れて大分市中心部の竹町通りにある少年少女科学体験スペースO-Labo(オーラボ)に行ってきました。

 オーラボは「きっと科学が好きになる・あそんで学ぶワクワク科学体験」をキャッチフレーズに毎週末、小学生向けの科学実験や生物観察講座を開講しています。

 今回参加したのは「メダカと友達になろう」と題した講座です。

 冒頭、講師の松尾敏生先生から、メダカとはどんな生き物か、地域によってどのような外見的特徴があるか、などのお話をうかがったのち、

  メダカは流れに対してどのように泳いでいるだろうか?
  流れを止めて周りの景色だけを動かすとどう反応するだろうか?
  その反応からどのようなことがわかるだろうか?

などを小実験をしつつ考えていきました。
 参加した子どもたちからは様々な意見が出て、とてもよい生物観察講座になったと思います。

 後ろで聴いていた私自身も大変よい勉強になりました(子どもたちより熱心にノートをとりましたww)。

 従来、国内の野生メダカは一種類と考えられてきました。それをメダカと呼んでいたわけです。

 しかしながら、研究が進むにつれ、北海道のメダカと九州のメダカは遺伝子が異なる別種である(人間でいえば人種が違うレベルだそうです)ことがわかってきて、2013年にキタノメダカミナミメダカという二種の標準和名が付けられた由。

 さらに大分県に生息するミナミメダカについて興味深いお話もありました。

 日田市のメダカは北部九州型、大分市や佐伯市のメダカは西瀬戸内型とされてきたところ、ミトコンドリアDNA解析の結果、つい最近になって大分市のメダカは大隅半島などに生息する大隅型であることが判明したというのです。

 松尾先生によれば、メダカは稲作とともに生息地を拡大してきた経緯があり、大分県に三種もの異なるタイプのメダカが生息している興味深い現象も、人文地理的要因による(注1)と考えられるそうです。すなわち、稲作に関連して大分と鹿児島には古くからの物的交流があったと推測されるというのです。

 別府八湯がきわめてバラエティに富む泉質に恵まれていることはよく知られている(注2)ところですが、大分県はメダカの分布でも特筆すべきところがあったんですね。

 しかもそれが古くからこの地で暮らしてきた人々の営為によるものである、ということに一層動かされる気がしました。


(注1)大昔、別府湾に注ぐ大分川・大野川と杵築の八坂川は一本の川だったそうですが、メダカの生息はそれより後の現象と考えられるとのことです。

(注2)11に分類される泉質のうち10種類の湯を楽しむことができます。





2014年7月1日火曜日

ブルー・ジャスミンと「価値相対性」

 もう25年以上も前のこと。世はバブル真っ盛りでした。

 当時、司法試験を受験していた知人がこんなことを言いました。

「僕が司法試験の受験生だと知ると、みんな『すごいですね』という。でも心のどこかで、もしかしたら報われることのない努力を何年も続ける、奇特な人だと思ってるんだろうね。」

 そんなことを今更ながら思い出したのは、映画館でウッディ・アレン監督脚本、ケイト・ブランシェット主演の『ブルー・ジャスミン』を見ていた時のことでした。

 映画評論家の高崎俊夫氏は、

『一文無しなのに、根拠のないプライドと過去の虚名のみを糧に生きる、この傍迷惑なヒロインは、見る者の共感を完璧に拒む。』

と評していますが、私は彼女を鼻持ちならないイヤな女とは全く思いませんでした(滑稽だとは思っいましたが)。

 ふと頭に浮かんだのは「価値相対性」という言葉です。

 誰かにとって人生を賭ける価値のあることが、別の人から見たらバカみたいに見えることなど、珍しいことではないと思います。そういう達観がないと、東大を目指さない人間はクズだなどと思ってしまうことになりかねません。

 映画の中では、物事を深く考えず、享楽的にセレブ生活を満喫していたジャスミンが、じつは自分の見たいものだけを見、見たくないものからは目をそむけていたことが次第に明らかになっていきます。

 それは「享楽的なセレブ妻を演じていた」という表現とは、若干ニュアンスが違います。自らをも欺いていたという点において。

 ウッディ・アレン監督は、見る者に「自分の中のジャスミンに気づけ。そして、嗤え。」と言っているのではないか、ふとそう思いました。




2014年6月28日土曜日

ディスカッションでウェブサイトづくりを学ぶ―JimdoCafe体験記

 法人サイトも個人サイトも全くの自己流で作っている私(専門家のアドバイスも少しは戴いていますが…)。

 開業当初から不動産鑑定士と中小企業診断士の知見を双方向に活用すること」をアイデンティティにしていたこともあって、もともと法人サイト(エリア・サーベイ合同会社)は、「不動産鑑定士のサイトではなく、中小企業診断士のサイトでもない」どっちつかずのものになってしまいました(それでも結構大口のお問い合わせがあったりするのはありがたいことです)。

 不動産鑑定と経営コンサルティングの業務領域の真ん中くらいのご依頼もいろいろ戴く私ですが、多くの方々にとってわかりにくいのでは?という思いから昨年来、法人サイトには不動産鑑定業務にフォーカスしたメタ・ディスクリプション・タグをつけ、他方経営コンサルティングに特化したささやかな個人サイトを立ち上げました。

 ちょうど、誰かにユーザー目線で意見をもらいたいな、と思っていたところ、FacebookでJimdoブラッシュアップ講座」の告知を目にし、即参加希望のメールを送信した次第です。

 Jimdoブラッシュアップ講座というのは、ホームページをより良くするためのワークショップ形式講座です。

 JimdoCafe大分のウェブサイトには次のような説明が掲げられていました。

  この講座は次のような方に向いています。

  Jimdoの作り方や使い方をもっと知りたい。
  ホームページがどう見えるのか、他の人から意見がほしい。
  他の人がどんな感じでホームページを作っているのか知りたい。
  ホームページを更新する内容のヒントがほしい。
  ホームページ作りは一人になりがちなので仲間がほしい。


 そう、ホームページづくりで試行錯誤している私たちが知りたいのは、いわゆる専門家の意見だけではありません。むしろ、ユーザー目線でどうか、というサジェスチョンが欲しいことが少なくないですよね。

 実際参加してみて、「他人のことは見えても、自分のことはよく見えない」ことを改めて痛感しました。

 ワークショップは、一人30分程度の持ち時間で進められていきます。

 発表者は、まず自身のビジネスについて簡単に紹介し、ホームページを見て欲しい顧客のイメージや、ビジネスの中でホームページをどのように使いたいのか、解決したい課題や質問などを(プロジェクターでホームページを示しつつ)説明します。

 その後、他の参加者とブラッシュアップのポイントをディスカッションしていきました。

 私以外の参加者は若い女性の方々で、ご自身もホームページづくりの過程で色々悩んでおられるようでしたが、私にとって大変有益なアドバイスを下さいました。

「メニューバーの色が暗く、すぐ下のヘッダー部分もダークな色合いなので、全体に暗い印象」
「プロフィール写真は、法人サイトで使用しているものの方が印象がよい」
プロフィール写真は、白のベースカラーのところに配置したほうがよい
プロフィールと連絡先は、左のカラムに常時表示させるとよい
「コンサルタントのサイトのコンテンツというのは、いわば『詳しい名刺』のごときものだから、自分がこれまでしてきた仕事の内容などを載せるとよい」

 もちろん、運営者の大隈義弘さん(ITコーディネーター)からは、専門的な助言もいただくことができました。

 いや、参加して良かったです。自分自身、何となくホームページに違和感は感じていましたが、ご指摘いただいてはじめてなるほど!そういうことか!と目が開かされる思いでした。ご助言を生かし、ブラッシュアップしたいと思います。

 また、他の参加者が悩んでいること、迷っていることの中にも、いろいろなヒントがあるようにも思えました。

 まだまだ改善途中ですが、私の個人サイトの「使用前・使用後」を以下に掲げます。

使用後(アドバイスをいただいた後

  個人サイト(大分県の経営コンサルタント・長野研一)

使用前(アドバイスをいただく前



2014年6月23日月曜日

大田実少将の決別電報を読む

 きょう6月23日は昭和20年の沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日。沖縄県はこの日を「慰霊の日」と定めており、学校などは休みとなります。

 この日が「沖縄戦が終わった日」とされているのは、沖縄守備隊(第32軍)最高指揮官の牛島満中将と、同参謀長の長勇(ちょう いさむ)中将が、摩文仁の軍司令部で自決した日だからです(22日との説もあります)。

 実際には、沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)に後退を余儀なくされた5月末の時点で、第32軍はその戦力のほとんどを失い、事実上壊滅していたようです。

 陸軍第32軍(二個師団・一個旅団基幹)を中核とする沖縄守備隊は、海軍部隊である沖縄方面根拠地隊をも指揮下に収めていました。

 沖縄方面根拠地隊は、飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成した部隊で、装備も貧弱でしたが、米国公刊戦史にも残る勇猛な戦いぶりだったそうです。

 その司令官の職にあった人物が、いまなお沖縄県民の尊敬を集める大田実少将(戦死後中将)です。
 大田少将は、司令部を置いた地下壕間近まで敵の迫った6月6日、海軍次官宛に有名な訣別電報を発信しています(一週間後の6月13日に自決)。

 全滅を覚悟した部隊指揮官の決別電報は、玉砕の覚悟を綴ったのち天皇陛下万歳と締めくくるのが通例ですが、彼の発した決別電報は異例でした。

 沖縄県民が、いかに忠良な日本国民として戦争に協力し、困難に耐えたか、その決意や振る舞いがいかに立派だったかをきわめて具体的に列挙し、『沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』と締めくくったのです。

 → 大田実少将の決別電報全文及び現代語訳(ウィキペディア)

 浅田次郎氏のエッセイによると、大田少将は、さとうきび畑をつぶして砲陣地を設置するたび、丹精した農地を荒らしたことを耕作者に謝って歩いていたそうです。

 その彼に、大きな影響を与えたとされる人物がいます。当時の沖縄県知事、島田 叡(しまだ あきら)です。

 島田は、米軍の来襲が決定的となった昭和20年1月、逃げるように沖縄を去った前任者に代わって知事として着任しました。自決用の青酸カリを携えての沖縄入りだったとも伝えられています(島田は殉職したとされるも、遺体は見つかっていない由)。

 沖縄県民の生命を守るために、ときには軍と衝突しながら奔走する島田の姿勢にふれ、大田は島田を深く敬愛するようになっていきました。

 そのことが、大田自身の県民に対する態度ひいては「沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク(中略)本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上」で始まる上記決別電報の伏線になったと思われます。

 ところで、この沖縄戦を描いた映画としてまず挙げなければならないのが、『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年東宝、岡本喜八監督)でしょう。

 私は小学校二年生のとき、父に連れられてこの映画を大分市内の映画館で見ました(ストーリーはよく理解できませんでしたが、真っ赤に染まった泥水の中で息絶えようとする老婆の手を握った仲代達矢が最期を看取るシーンは鮮明に覚えています)。

 物語は、事実上の主人公である八原大佐(第32軍高級作戦参謀・仲代達矢)、牛島司令官(小林桂樹)、長勇参謀長(丹波哲郎)らを中心に描かれていきますが、これと平行して様々な人々の細かなエピソードが、相当の時間とエネルギーを費やして描かれています。

 なかでも印象に残るのが、神山繁演じる島田知事と池部良が演じた大田少将でした。

 実は、この映画には、特撮や考証、演出にいろいろ突っ込みどころがあるのです。

 それでもなお、この映画を名作ならしめているのが、細かなエピソードの集積でもって、沖縄戦の実相をできる限り克明に描こうとした岡本監督の執念だったのではないかと思っています。

 → BATTLE OF OKINAWA 激動の昭和史 沖縄決戦予告編(youtube)




2014年6月16日月曜日

形見の品に込められた官兵衛のメッセージとは?(解答編)

 黒田如水(官兵衛孝高)が、息子長政に与えた形見の品、それは履き古した草履と下駄片方ずつだった。

 さて、擦り切れた草履と下駄に込められたメッセージとは何だったか?

 というクイズの解答です(問題編はこちら)。


 童門冬二『黒田官兵衛―知と情の軍師』(時事通信社)から引用いたします(注)。

 『その草履と下駄には何の意味もない。』

 『おまえは、意味のない品物に意味を見つけようと苦労している。つまり、異見会においてもおまえの関心は、いかに異見会をうまく主宰できるか、ということばかりにこだわっている。そしてできれば、見事に仕切って出席者に好印象を与えようというような低俗な心で会を仕切っているのだ。会そのものの本旨からずれている。』

 私はこれを「体面や世間体のために物事の本質を見失うな、本来の目的は何だったかを自らに厳しく問え」という教えだと解釈しました。

 あなたはどのように受け止められたでしょうか?


(注)このエピソードは、私自身は本書ではじめて目にしたもので、類書で見たことはありません。また出典もとくに記されていませんでした。かりにこのエピソードが童門氏の脚色が濃いものだとしても、本書でいちばん記憶に残った箇所なので、採り上げた次第です。










2014年6月15日日曜日

形見の品に込められた官兵衛のメッセージとは?(問題編)

 黒田如水(官兵衛孝高)は、晩年、体調を崩して寝付くことが多くなりました。

 有名な話ですが、この頃から彼は、見舞いに来る家来たちを相手に、ことあるごとに古参の部下の悪口を言うようになったそうです。

 苦楽を共にした部下たちを「某には高禄を与えたが、惜しいことをした。さほどの器量ではなく、大した働きはしなかった」などと評したことは、たちまち国許に伝わり、いずれは本人の耳に入ります。
 悲憤慷慨する者、怒りに震える者。「われわれが従うべきは大殿ではなく、長政公だ。」と、次第に家臣たちの心は離れて行きました。

 事態を危ぶんだ現当主で息子の長政がその旨を告げると、官兵衛は「それで安堵した」と微笑しました。
 播州以来の古参の家臣たちの多くは、まだまだ当主長政より、官兵衛を慕う気持ちが強い。そのままでは安心してあの世に行けないので、一芝居打ったと言うのです。心のなかで古参の部下たちに詫びながら。

 父の深い思いやりに打たれ、長政は落涙します。

 またこれも有名な話ですが、官兵衛は死の間際、愛用の兜を息子の長政にではなく、筆頭家老の栗山善助に与えました。

 文武に秀で、人格者であるばかりでなく、有岡城から官兵衛を救出した命の恩人でもある善助に報いる気持ちもあったでしょうが、これには長政に対する別のメッセージも込められていました。

「善助をこのわしだと思え。善助の諫言あらば、深く心に刻み、決して粗略に扱ってはならない。」

 では、長政に与えられた形見の品は何だったか。

 童門冬二『黒田官兵衛―知と情の軍師』(時事通信社)によると、それは履き古した草履と下駄片方ずつでした。

 長政は、これを終生大切にしたそうです。

 さて、ここで問題です。

 擦り切れた草履と下駄に込められたメッセージとは何だったのでしょうか?

 ヒントを二つ差し上げます。

 一つ目のヒント。

 このころ長政は「異見会」を主宰して、家来たちの意見に耳を傾けていました。「異見会」とは、主だった家臣を集めて、相互に思ったことを意見し合うディスカッションの場でした。

 異見会については、当ブログでも以前取り上げたことがあります(「諫言を容れる度量」)。

 しかし官兵衛は、主宰者としての長政の姿勢に一抹の不安を覚えていました。官兵衛のメッセージは、これに発したものです。

二つ目のヒント。

 このメッセージは、誰かを指導したり、助言したりする立場にある人(かつ、わが身を振り返る勇気のある人)なら、きっと耳の痛い指摘であろうと思います。

 解答編は次回といたします。

 (注)このクイズは前掲書の童門冬二氏の説に依拠しております。





2014年6月6日金曜日

「軍師官兵衛と永遠のゼロ」ツアー

 平成26年5月30日(金)、大分県別府市のホテル白菊にて、一般社団法人九州・沖縄不動産鑑定士協会連合会第三回通常総会が開催されました。

 その翌日、九州各県からいらした総勢三十名のお客様を「軍師官兵衛と永遠のゼロツアー」と銘打って、中津・宇佐方面にご案内しました。

 別府ICから一路中津を目指す前に、吉弘神社(別府市石垣西)、実相寺山(別府市大字鶴見)を車中から望見。
 後者は「西の関ヶ原」といわれる石垣原の戦いで黒田如水(勘兵衛孝高)が本陣をおいた場所。前者はこの戦いで敢闘の末討死した大友方の勇将吉弘統幸を祀っています。

 石垣原の戦いに詳しいH先生からは、実相寺山西方の角殿山(現在のルミエールの丘)には黒田家次席家老の井上九郎衛門が陣を敷いた由のご説明もありました。

 なお、H先生によれば、この戦いにおける吉弘統幸と井上九郎衛門のエピソードは、必ずや大河ドラマ『軍師勘兵衛』で取り上げられるに違いないとのことなので、ここではネタバレを控えます。

 石垣原の戦い及び吉弘統幸については以前当ブログでも取り上げました。こちらもご覧ください。



 さて、ようやく中津城へ。まずは城内の一角にある城井神社に参拝。

 ここは、黒田孝高が豊前中津12万石に封じられる前の領主であった宇都宮鎮房が祀られています。伊予今治への転封を不服として反乱を起こした鎮房は、その後降伏して許されますが、翌年孝高の嫡子長政によって中津城で酒宴の最中斬殺されます。

 鎮房の身を案じながら中津城下の合元寺で待っていた家来たちの多くも黒田方の討手により殺されました。これが「宇都宮鎮房謀殺事件」のてんまつです。

 「長政は深く思うところあって」(余程寝覚めが悪かったということでしょう)、後に城井神社を建立し、宇都宮鎮房を祀ったということです。

 なお、宇都宮鎮房の本拠地であった城井谷のある福岡県築上町は 「黒田官兵衛最大の宿敵」として宇都宮鎮房を売り出し中です。


 
 城井神社の次は、ガイドさんの引率で中津城内を見学。

 下の写真は、黒田官兵衛孝高が白村江の戦い の頃築かれた古城・唐原城(とうばるじょう、現上毛町)の石垣をリサイクルして造営した中津城の石垣です。



 下の写真は、中津城模擬天守横の石垣。写真中央を斜めに走る線の左右で石積みが全く違っています。
 向かって右が黒田官兵衛孝高が築いたもの、左が細川忠興が築いたもの。関ヶ原の功により豊前39万石を与えられた細川忠興が城郭拡張工事をした時にできたのでしょう。
 工法の違いは分かりませんが、官兵衛孝高が用いた石材の方が形が揃っているので、きれいに見えますね。



 中津城をあとに向かったのは、城下にある赤壁合元寺(ごうがんじ)。



 前述のとおり、黒田氏が宇都宮鎮房を謀殺した時、ここで休息していた鎮房の家来たちにも討手が差し向けられ、斬り合いとなりました。その時の壁の血しぶきが、何度塗り直しても赤く染み出でくるため、ついに赤壁とせざるを得なかったという逸話が残っています。

 合元寺については以前当ブログでも取り上げました。こちらもご覧ください。

  「合元寺の赤壁(中津市寺町)

 中津に来たならやっぱり鱧、ということで「和風味処鬼太郎」の鱧しゃぶ御膳をいただいた後は、宇佐へ。宇佐市平和資料館と海軍宇佐航空隊跡(城井一号掩体壕史跡公園)を訪ねました。

 

 上の写真は、宇佐市平和資料館に展示されている零式艦上戦闘機二一型の実物大レプリカ(映画「永遠の0(ゼロ)」で使用されたものである由)。垂直尾翼の番号は721空(第七二一海軍航空隊)所属を示しています。

 721空は別名神雷部隊、特攻兵器桜花を搭載した一式陸攻隊でした。つまりこのレプリカは神雷部隊の護衛戦闘機のものということになります。

 宇佐市平和資料館、城井一号掩体壕史跡公園についてはこちらもご覧ください。

  「宇佐市平和資料館に行ってきました」

  「戦史遺跡と不動産鑑定士」

  「終戦の日に(宇佐海軍航空隊のお話)」

 以上で、全行程を終了し、帰路につきました。お客様方は満足してくださったでしょうか。
 

2014年6月1日日曜日

官民連携で進める観光振興―おんせん県おおいたの取り組み

 平成26年5月30日(金)大分県別府市のホテル白菊にて一般社団法人九州・沖縄不動産鑑定士協会連合会第三回通常総会が開催されました。

 総会に先立って催された講演会のテーマは「おんせん県プロジェクト」。

 『日本一のおんせん県おおいた♨味力も満載~官民連携で進める観光振興の取り組み』と題して、大分県観光・地域振興課主幹の渡辺様、ホテル白菊社長の西田様にご講演いただきました。

 渡辺様は、観光行政をあずかる官のお立場から、おんせん県PR、ディスティネーションキャンペーン、大分県のターゲット層とそれへのアプローチ、商標登録をめぐる動きなど、大分県のツーリズム戦略の取組み概要についてお話下さいました。

 第8回全広連鈴木三郎助地域賞で優秀賞を受賞した「おんせん県おおいた」のCM(シリーズ全作計7分間)をご覧戴いたのち、CM出演者でもある西田様のお話。

 西田様には、観光産業に携わる経済人という民のお立場から、民間の声からはじまった取組みのきっかけ、民間におけるこれまでの取組みと今後の展望などを、おんせん県CM撮影の裏話も交えつつお話いただきました。

 開演前に上映した「めじろんコール・ミー・メイビー」「キティ&TAO」、講演者交代の合間に上映した「おんせん県おおいた」CMの動画も好評で、とりわけ「おんせん県おおいた」CMの上映時は、講演者自身の出演もあってか、たびたび笑いが起こりました。

 「おんせん県プロジェクト」の取り組みのきっかけは、東北大震災だったということは、意外と知られていないことだと思います(私自身知りませんでした)。
 講演者である西田氏ら別府市の経営者有志が、3.11の被災地に温泉を届ける活動を行ったとき、現地で「新婚旅行は別府だった。復興したら、絶対また旅行に行くからね!」などの反応を得て、これをきっかけに「大分県の温泉はやっぱり日本一だ、これを全国にアピールしなければ」という声が若手経営者らから起こったのだそうです。

 かかる民間からの声を受けて、大分県は「大分県はおんせん県」を提唱することになりました、と書いてしまうのは簡単ですが、これが大分県の観光ツーリズム戦略の重要な柱と位置付けられるようになるまでには、官民双方の関係者のご尽力があったものと推察されます。

 商標登録をめぐる動きが、他県も巻き込む賛否両論を巻き起こしたことも記憶に新しいところですが、商標登録をめぐる騒動を逆手に取ったテレビコマーシャルは、県外広報としてじつに心憎いうまいやり方だったと思います(先日の新聞報道では、広告効果11億円以上である由)。

 もしまだご覧になっていない方がおられましたら、ぜひ以下のリンクからどうぞ。
 おんせん県って言っちゃいましたけん!CMシリーズ総集編



 



 
 
 

2014年5月5日月曜日

インタビュー嫌いの巨匠に二時間喋らせた魔法の質問

 今でしょ!の林修先生が先日、テレビ番組で「最も尊敬する人物」の話をされていました。
 その人物とは、元東大総長・フランス文学者にして映画評論家・文芸評論家としても知られる蓮實重彦氏です。
 林先生は、蓮實氏が東大総長に就任した時の記者会見のVTRを引用し、『ほんとうの知識人とはこういう人のことを言うんです!』と言われていました。

 件の総長就任会見の冒頭、記者から『まずは率直な感想をお聞かせください』と質問された蓮實氏は、『どうもありがとうございます。』と応えました。続けて『実はさきほど賭けをしまして、まずは率直な感想を聞かれる、という方に賭けたのです。額は言えませんが、私は相当儲けさせていただきました。』と(まともな質問も用意出来なかった記者たちにとって、これ以上の皮肉はない気がしませんか?)。

 では、こんな風に記者たちを揶揄した蓮實氏自身は、いったいどれほどの質問力の持ち主なのでしょうか。
 その片鱗を覗うことのできる格好のエピソードが、斎藤孝『「できる人」はどこがちがうのか』(ちくま新書)で紹介されていました(注1)。

 蓮實がフランス映画界の巨匠ジャン=リュック・ゴダールをインタビューした時のこと。多忙でインタビュー嫌いのゴダールから許されたのは、わずか三十分、しかも質問はひとつだけだった。ゴダールはフィルム編集の手を休めず、不機嫌そうだ。
 
 この厳しい制約のもとで、蓮實は、こう切り出した。

「あなたの映画は、だいたいどれも一時間半ですが、私はそれがあなたの職業的倫理観からくるものだと…」

 ゴダールは、蓮實が言い終わらないうちに「そうなんだ!」と叫び、すぐに秘書を呼んでその日の予定を全てキャンセルさせ、フィルムを編集するときの断腸の思い、鑑賞者の視点に立てず徒に長時間作品を垂れ流す映画界の現状に対する批判などを何時間も熱く語った。

 斎藤氏は、この蓮實氏の質問を次のように評価されています。

 これは、非常にすぐれた質問だと思う。相手が今一番関心を持って取り組んでいる作業に合わせているし、相手の過去についてちゃんと勉強をしてきていることがわかるし、長い映画が多くなってきているという今の映画界の問題点がわかっていることが伝わるし、その上、相手のプロ意識を刺激している。

 斎藤氏のこの総括を読んで、まっさきに想起したのは、立花隆氏が著書『知のソフトウェア』(講談社現代新書)の中で述べていた「いい話を聞くための条件を一語で要約するなら、こいつは語るに足るやつだと相手に思わせることである。」という一節でした(注2)。

 インタビューに対して冷淡な反応を返すことが多い印象のある野茂秀雄氏やイチロー氏も、一流のスポーツジャーナリスト(玉木正行氏や二宮清純氏)の問い掛けには、真摯に、次元の高いコメントで応えているのは、玉木氏や二宮氏が「語るに足る相手」だからに違いありません。

 インタビュワーがぞんざいな問い掛けをし、相手が質問に沿わない勝手なコメントを返し、それでもインタビュワーは相手のコメントをコントロールできずに漫然と話が続いていく…そんな場面を何度も何度もさまざまなところで見るにつけ、質問の質を決めるのは、質問の背景にある質問者の問題意識だと改めて思うのです。

<追記>
 私自身は、インタビューをするとき、インタビューの目的や相手の属性に拘わらず「ご教示いただく」という姿勢を保っているつもりです。
 そして、相手の回答を「…ということですか?」と若干の専門用語を用いて要約し、確認しています。それで、私の理解の正邪を確認できるし、相手は私のことを、一定の知識がある人間だと認識できるであろうからです。
 但し、業界特有の符牒みたいな言い方は口にしません。たとえ知っていても、外部の人間が口にしていい言い方ではない気がするからです。
 業界人なら必ず一度は悩んだことがあるであろう事柄について「…はどうされてます?」という問いかけをすることで、瞬時に相手の反応が変わった経験は一度や二度ではありません。


(注1)正確には、本書には、質問をひとつに限ったことやゴダールが「そうなんだ!」と叫んだ描写がありません。私がこのエピソードを知ったのは本書以外の書物である可能性が高いのですが、残念ながら現時点では、その出所を特定できないでいます。

(注2)立花氏は「話が通じるための要素」として、充分な予備知識と理解力を持っていること、自分の気持ちをよくわかってくれるなと思ってもらうこと、そして人間として信頼できるやつだと思ってもらうことと述べています。







2014年4月27日日曜日

アロマオイルで集中力を高める

 今年(2014年)の3月頃、ローズマリーのエッセンシャルオイルが非常に品薄になったことがありました。地元の百貨店でも入荷は4月半ばになると言われましたし、Amazonでも多くの関連商品が在庫なしになっていました。

 発端は、2月25日にテレビ朝日系で放送された『たけしの健康エンターテインメント!みんなの家庭の医学~名医が診断 若返り&長生きできる!3つの悩み解決SP』というテレビ番組のようです。

 私自身は視聴していないのですが、同番組の中で「アロマの香りを嗅ぐことで、脳を若返らせ認知症が予防できる。またすでに発症した認知症もアロマオイルで改善する」という話題が取り上げられたようなのです。

 具体的には、ローズマリーとレモンのエッセンシャルオイルを2:1の比でアロマオイル用のペンダントに含ませ、首から下げておくと、認知症に卓効がある由。このオイルは、集中力と記憶力を高める作用があるとも。

 残念ながら、アロマオイル用のペンダントは現在も極めて入手困難なようなのですが、集中力と記憶力を高める作用があるなら、これを仕事に生かさない手はありません。

 下の写真は、私が仕事場で使っているUSB接続式のアロマ・ディフューザー。香り立ちはあまりいいとはいえませんが、火や水の心配がいらず、手軽に使えるのでおすすめです。

 なお、シガーソケットに差し込むタイプのアロマディフューザーもネット通販などで簡単に入手できるので、妙なカーフレグランスを買うよりよほど健康的です。

 そもそも、ディフューザーなどなくとも、アロマを楽しむ方法はあります。ティッシュペーパーに数滴垂らして身近に置いておいてもいいし、スープカップなどの広口の器に熱湯を張り、オイルを数滴垂らせば簡易ディフューザーになります。

 最後にもうひとつ。花粉症などで鼻水が止まらない時、ラベンダーのオイルをティッシュペーパーに数滴垂らして枕元に置くと、不思議に鼻の通りがよくなる由。ぜひお試しを。

 関連サイト http://currentdiary.seesaa.net/article/389907434.html









2014年4月25日金曜日

知っちょることも知らん振りをせにゃならん仕事

 日露戦争で満州軍総司令官をつとめた大山巌(元帥・陸軍大将)は晩年、孫に「おじいさま、軍司令官って、どんなお仕事なの?」と訊かれて「知っちょることも知らん振りをせにゃならん仕事じゃ」と答えたそうです。

 会田雄次『日本人の意識構造』(講談社現代新書)には、まさに「知っちょることも知らん振りをせにゃならん仕事」を実践した大山のエピソードが掲げられています。

 世界史上屈指の大会戦と言われる奉天会戦で、日本側の一斉砲撃が始まった朝。
 
 軍司令部では、異様な緊張感の中、児玉源太郎参謀長が憑かれたように作戦指揮に没頭していました。そこに寝所からおもむろに起きてきた大山は「児玉どん、朝からやかましかが、何ぞごわしたか?」
 一瞬怪訝な顔をした児玉でしたが、そこは陸軍一の秀才である彼のこと、瞬時に大山の意図を察知し、ゆっくりと(いわずもがなの)報告をはじめたそうです。

 大山のオトボケは、前線でも発揮されます。

 狂ったように砲兵部隊を指揮する若手将校のもとに視察に訪れた大山が、轟音の中、何かを尋ねました。総司令官直々の下問に将校が畏まって耳を傾けると大山は「大筒ちゅうもんは、上に向けるほど遠くにとぶんでごわすか?」と訊いています。

 将校が何と答えたかはわかりませんが、内心あっけにとられていたに違いありません。

 これらのエピソードに出てくるトボけた問いかけをおもいっきり意訳するならば、それは「大事においてほど、熱くなりすぎて自分を見失ってはいけないよ」ということでしょう。

 でも「熱くなるな」「堅くなるな」と言われてリラックスできる人は、むしろ稀です。ゆえに大山は、相手が過熱していることをあえて指摘せず、トボけた問いかけでもって我に返らせようとしました。

 人にはそれぞれ、その人なりの事情があり、メンツがあり、プライドがある。それを丸裸にしてしまう厳しく的を射た指摘が、つねに好ましい結果をもたらすわけではないことを彼はよくわかっていたのだと思います。

 蛇足ですが「大筒ちゅうもんは、上に向けるほど遠くにとぶんでごわすか?」と訊いた大山は、砲の設計改良で若くして名を挙げた、砲術のエキスパートだったということです。



 

2014年4月23日水曜日

ケース・ディスカッションに関するノート(2)

 前回は、自作の事例教材『株式会社甲物産』を用いて私がケースリーダーを務めたディスカッションについて書きました。

 今回は、私が作成した前出の事例教材を採り上げ、また違った方向から光を当ててくださった日本文理大学の橋本堅次郎教授の「けんしん大学」3月講座におけるケースリードについて書きます。

 私自身は、ケースリードに当たって、いま事例企業の中で起こっていることの全体構造を明らかにすることを重視しました。それを通じて、なぜ大きな認識のズレやディスコミュニケーションが起こるのか、という問題に接近しようとしたわけです。

 しかし今回、橋本先生は、これとはまったく異なるアプローチを採用されました。ケースに登場する人物のうち、下級職員のBさんに焦点を当て、「彼はどのような人物か」「彼にはどのような能力開発が必要か」「彼はどうすべきだったか」と受講者に問いかけたのです。

 この点、まだ橋本先生には直接お伺いしていないのですが、かかるアプローチをとられた理由は、講演テーマや先生ご自身の専門分野との関わりだけではなかったものと推察します。
 多くの受講者に近い立場にあるBさんの視点に立ったことで、受講者のハードルが下がったであろうことは想像に難くありません。
 
 ケース研究の効用のひとつに「自分とは全く異なる立場で考えることを可能にする」点があることは確かですが、上記のようなアプローチがあり得るということは、私にとって大きな気付きになりました。

 今回、ケースリーダーの立場を離れ、一受講者として講座に参加して改めて感じたことは、受講者が「Bさんという人物について論じているようでいて、結局は発言者自身の仕事観や業務経験の幅や深さを告白しているも同様である」ということです。ケース・ディスカッションの意義と魅力が、そこに大いに現れていると感じた講義でした。




 

 

 

2014年4月5日土曜日

ケース・ディスカッションに関するノート(1)

 前回に引続き、大分県信用組合主催 「けんしん大学」2月講座について書きます。もう一カ月以上前のことになりますが、自らの研究と実践のために振り返って整理しておく必要を強く感じています。

1  「けんしん大学」2月講座における実践

 前回述べた二つの問題意識は、大要次のようなかたちで講座に反映されました。


①導入講義~「新しいリーダーシップ」概説
 これから受講者の方々がリーダーシップ問題について考える準備段階として、リーダーシップとは何か、リーダーシップ問題が質的に変化してきたのはなぜか等について概説しました。ここでは、リーダーシップと「組織における人間行動」や「マネジメント・コントロール」との関わりについても触れました。

②ケース読み込み・各自検討
 事前に配布しておいた事例教材『株式会社甲物産』を各自読んでもらい、この会社で何が起こっているのか、何が問題なのか、自分だったらどうするか等について整理していただきました。
 ちなみに、事例教材『株式会社甲物産』は、私が作成した架空のショートケースです。講座の性質上、事前に時間をかけて読み込むことは望めないので、A4四ページほどのコンパクトな内容とし、組織図や財務諸表などは省略しました。

③グループ・ディスカッション
 四名程度のグループに分かれ、ケースについて意見交換していただきました。グループの統一見解をまとめる必要はなく、意見交換を踏まえて各自の意見をそれぞれブラッシュアップしていただくようお願いしました。
 このような講座では、えてして受講者が「正解は何だろうか」(もっと正確にいえば「講師が正解と想定しているのはどのような答えだろうか」)と考えがちです。この点に関しては「唯一の正解というのはなく、説得力を持ち得れば全部正解」ということをしつこいくらいに繰り返しました。

④クラス・ディスカッション
 上記のプロセスを経て、今度は講師である私が受講者の方々に問いかけるかたちで、全員でケース討議をしました。議論に沿って、ホワイトボードに登場人物それぞれの姿勢や立場、関係などを(リッチ・ピクチャーもどきに)絵ときしていき、現れていない論点をあぶりだすことで、問題の全体構造を明らかにすることを重視しました。

⑤まとめ講義

 ケース討議のまとめをかねて、導入講義でふれた事柄を振り返りました。さらに、今回言及できなかったアドバンスな問題については、参考図書をコメント付きでご紹介しました(けんしん大学事務局のご配慮で、その一部は会場に展示されていました)。


2 ケース討議とは何か

  
 ウイリアム・エレット『入門ケースメソッド教授法』の前書きは、ケース・メソッド(通常、ハーバードスタイルのケース教育を指します)について、こう述べています。

 ケース・メソッドとは、教授から一方的に知識を受け取ることではなく、クラスの仲間と時には口角泡を飛ばしながら議論することにより、知識をつくり出し体得していく教授法である。そして、最終的には、課題や困難に直面したときに、自分がどう臨んでいくかのAttitudeを形成するものである。
 現実の社会においては、多くの場合1つの明確な回答はない。不確実な状況の中で、何が問題であるかを見つけ出し、分析し、最善と思われる解決策を考え、それを実行する手立てを考え、実行する中でどのように軌道修正していくか、このようなプロセスを実行するAttitudeをつくるものである。

 「英知は教えられない」けれど、経営者の立場を疑似体験することを通じ、学生相互の意見交換を通して各自の問題発見力、問題の構造化能力、判断力、意思決定能力を養成しよう、というのが、ケースメソッドの基本的思考であるわけです(注1)。



3 2月講座の反省と総括

 いかんせん前例のない試みということもあり、受講者のみなさんはさぞ戸惑われたことと思います。やや「実験的」色彩を帯びたことも否定できません。また「議論に不慣れな受講者が多い中で、果たして十分な意見交換が成り立つだろうか」という懸念も、必ずしも杞憂ではありませんでした。

 しかし「積極的な発言が相次いだ」とは言えぬまでも、私の問いかけに対しては概ね説得力のある見解が示されましたし、議論のおわりには私が内心「この論点には気付いてほしい」と思っていたポイントが指摘されました。
 受講者の方々は、よく私の期待に応えてくださったと感謝しなくてはなりません。

 ところで、今回用いたケースは、『株式会社甲物産』という架空の会社における具体的な状況について書かれています。
 でも、ケース討議に参加する人々が問われているのは「A課長やB主任やE専務はどんな問題に直面しており、そこでどう行動すべきか(すべきだったか)」ということだけではありません。その背景となる各人の問題意識こそが問われているのです(注2)。ありていに言えば、ケースはある会社の成功(または失敗)物語ではなく、「私たちがこれから直面するであろう問題状況を再現している」のです。登場人物にわが身を置き換えて、俺なら私ならどうするだろう?と考えてみることは、どんな立場にある人にとっても有益だと信じます。


4 おわりに

 上記の実践を通じ、私は 「成功例を知識として学ぶのではなく、事例に即して考えることで自分自身が知恵を身につける」というケース・ディスカッションは、ビジネス教育の手法としてきわめて有効である、と改めて思いました。今後も、実践機会を得て、教材づくりと手法の改善を進めていきたいと思っています。

  この点、さまざまな示唆をくださったのが、日本文理大学の橋本堅次郎教授です。橋本先生は、「けんしん大学」3月講座で、私が作成した前出の事例教材を採り上げ、また違った方向から光を当ててくださいました。次回は、この件について書きたいと思います。

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(注2)講師とて同じことです。リーダーシップの講座を担当する講師は、まさに自身のリーダーシップに対する問題意識を問われているわけです。




2014年3月8日土曜日

グループワークはなぜ「ワーク」しないか

 先月下旬、大分県信用組合主催 「けんしん大学」2月講座の講師をつとめさせていただきました。講座テーマは『異なる人々を統率する力~情報社会の新しい「リーダーシップ」』です。

 今回、リーダーシップ論を語るに当たり、私にはふたつの強い問題意識がありました。
 ひとつは『旧態依然たるリーダーシップイメージを無批判に念頭に置いていてよいのか』という疑問です。「リーダーかくあるべし」「リーダーには何が必要か」といった抽象論や優れたリーダーのエピソードを延々と熱く語るタイプの講座を見るにつけ、いかがなものかと常々思っていたのです。
 端的に言って、「リーダーには責任感と強い意志、コミュニケーション能力が大事」という、いわば当たり前のことを再確認して、どんな学びがあったと言えばいいか、私にはわかりません。

 もうひとつは『グループワークのあり方』についての疑問です。今日、講演セミナーの多くは、講師が一方的にしゃべる座学スタイルから、グループディスカッション、それを踏まえたグループ発表を組み込んだ受講者参加型のものに変化しつつあります。
 それ自体には賛成ですが、「どうしてこのテーマでこのワークなのか?(竜頭蛇尾)」「発散型のグループディスカッションを志向しているのに、なぜ収斂型のグループ発表をくっつけるのか?」と首を傾げざるを得ないことのほうがむしろ多い印象です。
 意地悪な言い方をすれば、「講演セミナーのねらいに即してグループワークを組み込んだのではなく、グループワークを組み込むこと自体が目的である」かのような印象を拭えなかったのです。

 本来グループワークの長所は、参加者がフラットな立場で、しかもインフォーマルな発言スタイルで意見交換できるために、各人の個性を反映した(記述要素として出てきにくい)情報をスピーディーに集めるのに適していることにあります。反面、講師がディスカッションをコントロールしにくく、議論の漂流や停滞が起こりやすい短所があることも否めません。
 それゆえ、グループワークをワーク(有効に機能)させるためには、①ディスカッションリードの訓練を受けたグループリーダーが事前に講師の教育目的を理解し、グループメンバーをまだ気付いていない論点に誘導したり、②講師がクラスディスカッションで議論の全体像を見える化しつつ、論点を総括するような工夫が求められます。

 ところが、現実のグループワークは、最後にグループ発表が予定されているために、往々にして次のいずれかのパターンになります。

 Ⅰ:議論のスタートから予定調和をイメージして、各人が個性的意見を控える。主たる関心は、各人の発言の共通点に向き、意見の食い違う背景にあるものは何かといった論点の掘り下げは一切されない。傍目には侃侃諤諤の議論をしているように見えるが、これはまとめるための議論に過ぎない。

 Ⅱ:議論百出、個性的な意見がたくさん出て、それに触発された意見が続く、非常にいいムードである。飛び交う情報量も非常に多く、ディスカッションが充実していることがわかる。ところが発散型で進めてきたために、まとめる段階でハタと困る。整理できない。次元の高い議論をしたのにもかかわらず、グループ発表ではその数分の一くらいのまとまりのない内容を告げるだけになってしまう(本来まとまるはずがないのだ!)。

 当然ながら、望ましいグループワークスタイルは上記Ⅱです。意図不明のグループ発表をくっ付けたせいで「角を矯めて牛を殺す」結果になるのは残念なことです。

 これらふたつの問題意識に共通するのは「教育目的(研修のねらい)は何か」を繰り返し問うという発想ではないでしょうか

 たしかに、受講者が何を感じるかは各人の自由で、彼彼女にどんな内的変化が生まれたかは、講師のコントロールの及ぶところではありません。しかしながら「参加すりゃ、何かそれぞれ学びがあるだろ、なけりゃ受講者の自己責任だよ」というのは、講師としてあまりに無責任と思うのです。

 今回、これらの問題意識をけんしん大学事務局のスタッフの方々やコーディネータの吉津先生にお伝えし、協議を重ねました。その結果、講座の建てつけやテキスト、席の配置等をどう工夫したかについては、次回述べたいと思います。






 

2014年1月11日土曜日

『営業力の強化』はなぜ完遂されないか

 中小企業の経営計画においては、しばしば「営業力の強化」が経営課題に掲げられます。

 しかしながら、課題への対応ないしアクションプランに「営業力の強化」に即応する具体的対策案が掲げられることはあまりないような気がします。

 まるで若書きの短歌のように、経営課題として高らかに「営業力の強化」を掲げたボルテージが、いざ実行レベルになると尻すぼみ、といった印象を受けることがじつに多いのです。

 ときには、「営業力の強化」という課題に対して、「全社的な営業体制を構築し、PDCAを繰り返すことを通じて営業力を強化する」というような、単なる言い換えに過ぎないような解決策が掲げられていることすらあります。

 なぜそうなるのか。

 私は、「営業力」というものの構成要素や本質をバイパスして感覚的・経験的な議論に終始しているからではないかと思っています。

 『営業力の強化』という経営課題が完遂されない理由は、HOW(いかにして強化するか)よりもまずWHAT(営業力とは何か)がつかめていないところにあると思うのです。

 つい、こんな笑い話を連想してしました(須賀原洋行さんのマンガのネタだったような?)。

 ある高校で、英語の試験に『次の英文を訳しなさい』という問題が出ました。「何語に」という指定はありません。悪乗りした生徒が「火星語に訳してみました」と、意味不明の記号を羅列してきましたが、教員はこれを不正解とする根拠がありませんでした。

 営業力の内実を問わぬままに、「営業力の強化」を図ろうとする。それはまるで、何語に訳すかも決めずに英文解釈に励む人みたいです。

 高水準の売上を維持している、または売上が順調に伸びている企業をアプリオリに「営業力がある」と決めつけるわけにもいきませんが、かりにその企業に高い営業力が備わっているとしたら、その片鱗は具体的にどこにたちあらわれているでしょうか?営業マンの営業活動やその準備にはどのような特徴があるでしょうか?またマネジャーは、彼らの活動をどうコントロールしているでしょうか?

 私自身は、いまそのような視点からすぐれたセールスパースンの活動を眺めて、自分なりに「士業にとって営業力とは何か?」にアクセスしようとしているところです。

 いまだ結論には至りませんが、「士業にとっての営業力」について、これまでの検討や経験から得た「感触」を他日を期して述べたいと思います。