2013年9月27日金曜日

画期的(?)な肩こり解消法を発見しました!

 根を詰めると、すぐ肩こりが出る私。

 「肩こり解消法」でネット検索をかけると、いろいろ見つかるので都度実践してみるのですが、なかなか効果が実感できないでいました。
 じつは最近、自己流でアレコレやっているうちに、画期的(?)な肩こり解消法を発見したので、ご紹介しようと思います。

ステップ1
布団の上にラクな感じで横になる。体は横向きに。左右どちらかの耳が下になるイメージ。

ステップ2
上になった方の腕を、肩の付け根から大きくゆっくりグルグル回す。
このとき、腕の回し方を少しずつ変えてみて、なるべく肩甲骨が大きく動くのが望ましい。

ステップ3
胸、脇、背中など、肩の周りの筋肉の凝っているところを指圧してほぐす。強く押しすぎると逆効果なのでご注意を。

 するとどうでしょう!翌朝起きたとき、あなたの肩はとっても軽くなっているはずです。
 この方法は、多くの「肩こり解消法」同様、単に肩甲骨周りの筋肉を動かしてほぐすだけのものに過ぎません。大事なのは「寝転がって、全身が弛緩した状態で行う」ことです。椅子に座った状態では、さほどの効果が実感できません。

 肩こり・首こりは、単に肩や首が凝っているわけではなく、腰や背中の張りに引っ張られて起きていることが多いようです。
 このように胸から背中までの広い範囲の筋肉をこまめにほぐしておくと、深刻な肩こりに陥ることはまずありません。


2013年9月25日水曜日

石垣原合戦・吉弘統幸陣所跡(別府市観海寺)

 前回は「落日の大友家を彩ったスターたち」と題して、佐伯惟定、志賀親次、吉弘統幸の三人を採り上げました。
 今回は、その続編として、これら三名の中でもっとも悲運の最期を遂げた吉弘統幸について書きます。

 天正6年(1578年)、理想郷「むじか」建設のため日向遠征を企てた大友宗麟は、耳川の戦いで劣勢の島津勢に歴史的大敗を喫しました(注)。

 この戦いで父・鎮信を失った統幸は、弱冠14歳で家督を継ぐこととなります。
 天正20年(1592年)、文禄の役に参陣した統幸は、明の総司令官格・李如松(りじょしょう)の軍旗を奪う働きで、豊臣秀吉から「無双の槍使い」と絶賛され、一躍武名を高めました。大友氏改易ののちは、従兄弟である柳川城主・立花宗茂に二千石で仕え、慶長の役では立花軍の四番隊を任されたとされます。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに臨み、統幸は西軍についた立花家を暇請いします。大友家当主・大友義乗が徳川家に仕えていたからです。
 しかし、大友家の旧恩に酬いようと義乗の元へ向う道中、大友家の再興を狙う前当主・大友義統に出会ったことが、統幸の運命を大きく狂わせてしまいます。

 統幸は義統に対し懸命に東軍加担を説きますが、西軍総大将・毛利輝元の「西軍勝利の暁には豊前豊後二か国を進呈する」との甘言に乗せられた義統は聞き入れません。とうとう統幸も旧主に従う決断をせざるを得ませんでした。

 大友勢が東軍・黒田如水の軍勢と激突した「石垣原の戦い」で、統幸は獅子奮迅の活躍を見せます。しかし、奮戦の甲斐なく次第に大友方の劣勢が明らかとなると、統幸は別れの挨拶をすべく大友義統の本陣を訪れます。

 義統に別れを告げたのち、統幸は残った手勢30余騎を率いて黒田勢に突撃、七つ石(現・別府市荘園町)において戦死しました。

 彼が義統に述べた惜別の辞は、次のように伝えられています。

臣ハ累代厚恩ヲ蒙リ、死ヲ以テ君恩ニ報ント存レ共、

是ノ度ノ戦ハ縦ヘ一旦利ヲ得ル共、後ノ利運トハ成難シ、

臣今軍陣ノ中ニ入リ、生テ再ビ歸ラズ。

然レバ今君ノ尊顔ヲ拝スルモ現世ノ御名残ニ候

 「声涙ともに下る」というのは、こういうシーンを表現する言葉だと思わないではいられません。
 知将統幸には、最初から見えていた結果だったでしょう。

 「結果を出してこそプロ」という人もいます。確かにそうかもしれません。でも、望ましい結果が得られないことがわかっていても、プロとしての仕事をやり遂げないではいられないのがプロというのもまた、一面の真理と思えるのです。

 「無双の槍使い」として「忠義の士」として、まさに本物の侍(プロフェッショナル)であった統幸の最期を知り、こんな関係のないことを考えてしまいました。

 下の写真は別府市観海寺、杉乃井ホテルに上る坂の途中にある吉弘統幸陣所跡です。


(注)この戦いで軍事的統制のなさを露呈し、その結果角隈石宗、佐伯惟教らの有力武将を失った大友家は、以後没落への一途を辿ることになりました。


<参考サイト>
大友氏の終焉・石垣原の戦い
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/ishigaki/ishigaki.html

2013年9月23日月曜日

落日の大友家を彩ったスターたち

 戦国シミュレーションゲーム「信長の野望」をやったことのある方なら、わかっていただけると思うのですが…。
 このゲームで、プレイする戦国大名を「大友義鑑あるいはその息子の義鎮(のちの宗麟)にする」というのは、比較的天下を狙いやすいチョイスと言えるのではないでしょうか。

 何しろ、北部九州の数か国を領し、自らも能力値が高いうえ、軍事面では戸次鑑連(立花道雪)、吉弘鑑理、内政面では臼杵鑑速、吉岡長増ら有能な部下に恵まれています。周辺諸国にさほど強大な敵がいない点も大きなアドバンテージです。

 しかしながら、現実の大友宗麟は、相次ぐ家臣の叛乱への対応に追われ、天下を狙うどころではありませんでした。
 気がつけば強大化した南の島津、北の毛利に圧迫され、秀吉の助けを借りてようやく豊後一国を安堵される始末。後継者に恵まれなかった(息子の大友義統は将器ではなかったと言われます)こともあって、宗麟の死から6年後、大友氏は義統の文禄の役における敵前逃亡を理由に改易され、とうとう本領であった豊後からも追われてしまいました。
 しかし、耳川の合戦以来、没落の一途をたどった大友家も、そこは名門企業、数々のスターを輩出しています。

 その代表と言えるのが、居城・栂牟礼城(とがむれじょう、現佐伯市)に攻め寄せた島津家久の軍を堅田合戦に代表されるゲリラ戦で撃退した佐伯惟定(さいきこれさだ)、居城・岡城(おかじょう、現竹田市)に立て籠もって島津義弘率いる大軍をわずかな兵力で何度も撃退した志賀親次(しがちかつぐ)、豊後三老のひとり吉弘鑑理の孫で、朝鮮での活躍により豊臣秀吉から朱柄の槍を遣わされた槍の名手、吉弘統幸(よしひろむねゆき)らでしょう。

 当時すでに全国的な知名度をもつスター武将であった彼らは、会社(大友家)が潰れても職にあぶれる心配はありませんでした。多くの大名が競って高禄で召し抱えようとしたからです。輝かしい戦歴をもつ剛勇の士を家来に持つことは、大名たちにとって実益を兼ねたステイタスシンボルだったのです。

 大友氏改易後の彼らの消息については諸説ありますが、佐伯惟定は藤堂高虎に仕え、幾度も加増されてついには4,500石を得たようです。志賀親次は、他主に仕えることを潔しとせず隠遁したとも、豊臣秀吉や細川忠興らに仕えたとも言われます。そして吉弘統幸は、三人の中でもっとも悲劇的な最期を遂げました。

 次回は、そんな統幸の最期にまつわる史跡を採り上げます。




<参考サイト>
市報おおいた「大友宗麟の実像」
http://www.city.oita.oita.jp/www/contents/1363338481774/index.html




2013年9月17日火曜日

真田広之に学ぶ「口出しの仕方」

 現在、劇場公開中のアメリカ映画「ウルヴァリン:SAMURAI」(ジェームズ・マンゴールド監督)に重要な役どころで出演されている俳優の真田広之さんは、その制作過程で、煙たがられることは覚悟の上で、撮影スタッフに殺陣や時代考証について、思ったことをどんどん口出ししたそうです。

 もちろん映画「ラストサムライ」での実績あってこそのことでしょうが、「いい映画にしたい」「日本の描写を珍妙なものにしたくない」という彼の熱意はスタッフに伝わり、ついには事前に衣装やセットの図面を見せられ、意見を求められるようにもなったとのことです。

 テレビでのインタビューによれば、撮影中次のようなやりとりもあった由。

 スタッフ 「(剣術の)道場のセットの図面だ。おかしいところがあったら指摘して欲しい。」
 真田 「床に貼ってある格子状のものは何かな?」
 スタッフ 「ああ、それはタタミシートだ。」
 真田 「(そりゃ柔道だよ、と思いつつ)タタミはダークな色合いのフローリングに代えてくれ。」

 彼の話で印象に残ったことがふたつありました(一言一句正確ではありません)。

 ひとつは「口出しの仕方」について。

 『他人の作品や持ち場に口出しすることは、重大な越権行為で、本来は許されないことです。でも、言い方さえ間違えなければ、相当なところまで受け入れてもらえると感じています。』

 もうひとつは「助言者が持つべき視点」について。

 『専門家だと『これはあり得ません』で終わりになってしまう。映画作りの事情、ハリウッドの人たちのイメージも尊重して折衷案を提示できる人間が実はいないんです。』

 よりよい実践に貢献するという助言の目的を達するためには、相手に受け入れられなければいけません。ならば、相手が助言を受け入れやすくする工夫は不可欠です(その工夫とは、相手に恥をかかせたり、徹底的にやりこめたりすることでは決してないでしょう)。

 また、現時点で実行困難な理想論を説いても、よりよい実践につながることはまずありません。お料理に例えれば、帝国ホテルのレシピを完璧に伝授されるより、いま冷蔵庫にある材料で(その人が作れる)なるべく旨いメニューを教えてくれるほうが、よほど有難いわけです。

 かくいう私自身の助言が、はたして十分これら二点を踏まえたものになっているだろうかと考えると、はなはだ疑問。
 今日は、思わぬところで反省の機会を得ることになりました。


<参考サイト>
真田広之だから「ハリウッド」口出しOK
http://news.goo.ne.jp/article/nikkangeinou/entertainment/p-et-tp0-130906-0009.html




2013年9月12日木曜日

借地借家法第10条第2項の重み

 最近、借地借家法第10条第2項(借地権の対抗力等)という条項の重みについて考えさせられる案件がありました。

借地借家法第10条は次のようにいっています。

1  借地権は、その登記がなくても、土地の上に借地権者が登記されている建物を所有するときは、これをもって第三者に対抗することができる。

2  前項の場合において、建物の滅失があっても、借地権者が、その建物を特定するために必要な事項、その滅失があった日及び建物を新たに築造する旨を土地の上の見やすい場所に掲示するときは、借地権は、なお同項の効力を有する。ただし、建物の滅失があった日から二年を経過した後にあっては、その前に建物を新たに築造し、かつ、その建物につき登記した場合に限る。

 同条1項により借地権者は、借地権そのものについては登記をしていなくても、借地上に所有する建物について登記を有する場合には、未登記借地権について「対抗力」が認められることになります。

 しかしこの場合、もし借地期間中に建物が滅失したときは、建物滅失以前に目的土地に権利を取得した第三者には従来どおり借地権を対抗できるものの、建物滅失後目的土地に物権や土地賃借権を得た第三者には借地権を対抗することができないことになってしまいます。

 そこで同法は、かかる場合に借地権者を救済するため、同条2項を置いて、一定の要件を満たせば、建物が滅失したときでもなお、対抗要件が維持されることとしたわけです。

 「滅失」には、自然災害によるものも、人為的なものも含むとされています(澤野後掲268ページ、根拠は示されていません)。だとすれば、朽廃目前の借地権付建物といえども、潜在的には再築により新築の借地権付建物に変身する可能性を持っていることになります。
  
 このように、同条2項の経済的インパクトは極めて大きいのですが、新法(借地借家法)における新設規定であることや、借地権慣行の未成熟な地で業務を営んでいる関係上、情報量が少ないことに困惑させられているのが実情です。

 とまれ、同項をめぐる不動産鑑定評価上の論点は、これがもたらすロス(経済的損失リスク)とベネフィット(経済的利益)をどう定量化するかということでしょう。すなわち、ロスとベネフィットは表裏一体であるものの、保守的観点からは、底地所有者の不利益を、借地権者の将来利益よりも大きくみることが妥当ではないかと思っています。

 上記の通り、私はまだ借地借家法第10条第2項について知見らしきものをほとんど持っていません。そこで、現実の法現象としてどのようなことが起こっているか等、何かご教示をいただけるきっかけになればと思い、投稿した次第です。

参考図書
澤野順彦編 『実務解説借地借家法』 青林書院 2008
稲本洋之助・澤野順彦編 『コンメンタール借地借家法第3版』 日本評論社 2010










2013年9月9日月曜日

プレゼンテーションの本質~言語版「北風と太陽」

 9月8日早朝(日本時間)、2020年の第32回夏季五輪・パラリンピック大会の開催都市が東京に決定しました。その興奮はいまだ冷めやらぬ趣きで、テレビはオリンピック関連の話題で持ちきりです。

 本日の「ひるおび! (TBS)では、招致成功のキーポイントとなった最終プレゼンテーションを取り上げていました。

 高円宮妃久子さまの後をうけた最終プレゼンテーションのトップバッターは、走り幅跳びでパラリンピック3度出場の佐藤真海(さとうまみ)さんでした。

 明るく快活だけど、それでいてやわらかな調子でスピーチを始めた彼女は、事故で脚を失ったくだりではやや声を落とすなど、ともすれば「元気だけど単調」になりがちなこの種のスピーチを感情豊かだけど自然に表現し、見事に「自分を救ったスポーツの力」を訴えることに成功していました。

 これをテクニックの勝利とか、プロによる入念なコーチングの成果とか言うのは、間違いにないにせよ、どこか本質を突いていない気がします。

 「ひるおび!」のコメンテータたちも口々に彼女のスピーチを称えていましたが、その中でもっとも「佐藤真海のスピーチのよさ」を的確に言い表したのは、三雲孝江さんの大要次のようなコメントだろうと思いました。

 『もし彼女がもっと強い調子で自らの主張を訴えていたとしたなら、彼女が持つ明るくやわらかなムードが生かされず、説得力が削がれていただろう』

 かつて丸谷才一は、文章の本質を達意自分の考えが十分に相手に理解されるように表現すること)であると指摘しました。

 プレゼンテーションも同じでしょう。スピーカーが自分の言いたいことをありったけまくし立てて、相手に伝わるはずがないのです。

 聴き手のもつ共感能力を刺激するのは、朗々たる大きな声でも、大言壮語でも、美辞麗句でもありません。

 では、何が聴き手の共感能力を刺激するのか。
 それは、スピーカーが自分自身とテーマとの関わりを「もっとも自分らしく」表現することです。佐藤真海さんがしたように。
 聴き手は、自分の身におきかえて考えざるを得なくなります。そこにこそ共感が生まれますし、強く印象に残ります(感極まって絶句したスピーカーって印象に残るではありませんか)。

 IOCロゲ会長がスピーチを終えた佐藤真海さんに囁いたほめ言葉もまさに「インプレッシブ」だったとのことです。


<参考サイト>
秘策!佐藤真海プレゼンが五輪引き寄せた






2013年9月7日土曜日

先生と呼ばれるほどの…

 「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という言葉があります。

  「先生」と呼ばれて得意となっている者を嗤う一方で、むやみに人のことを先生呼ばわりする風潮を皮肉っているのでしょう。

 「先生」というのは便利な言葉なので気軽に使われますが、特段敬意が込められているわけではないように思います。むしろ馬鹿にされていることすらある(明らかにバカにしているとき雑誌などでは「センセイ」とカタカナで書きますね)。

 士業のはしくれである私自身も 「先生」と呼ばれることがあります。一部の業界には、士業は一応センセイと呼んでおけ、というコンセンサスがあるようです。自分たち自身でも互いを先生呼ばわりしている士業の人たちもいます。

 士業はみなセンセイならば、一級建築士も土地家屋調査士もセンセイだろうと思い、そう呼んでみると、彼らはたいがい困った顔をして「その呼び方、やめてくれない?」と言うことが多いです。
 彼らのこの感覚は、きわめて正常だと思いました。同時に、自分がセンセイと呼ばれることに少なからず疑問を抱くようになりました。

 一級建築士の人たちの気持ちを忖度すると、一級建築士という資格者の中でも、建築家として名を成した人たちだけが先生だ、ということなのかもしれません。

 センセイと呼ばれて良かったこともないわけではありません。某行政機関のA課長は非常に仕事の出来る方で、ご在任中たいへんお世話になったのですが、彼はケースによって呼び方が変わるのです。普段は「長野さん」と呼んでくださるのですが、何か頼みがあるときは「長野先生」。彼から「長野先生、近々少しお時間を頂戴したい。」といわれると「ははあ、込み入った案件だな」と前もって心の準備ができたものです。

 閑話休題(ってイヤな言い方ですね、ぜんぶ閑話なのに)。「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」とはよく言ったものだと思うのは、それが呼ばれた側のためになっていないと感じるからです。先生と持ち上げられたことで慢心する人もいるし、逆に先生と呼ばれたために偉い人間を演じようとする人もいます。

 セミナーや講演で偉そうに振る舞う講師は少なくない(注1)ですが、彼らとて「講師は先生だから偉くあらねばならない」というドグマに囚われた犠牲者という一面もあります。

 彼らがいかに偉そうに振る舞おうが、他者より高い視点を持ち得ていない者が垂れるべき高説などこの世にないことは、水が高きから低きに流れるがごとく当たり前のことです。

 先生なんて呼ばれてていいのかと思いつつ、面と向かって「私を先生と呼ばないで」とはなかなか言い出せないでいました。言われた方は困惑するかもしれないし、いい気持ちがしないかもしれません。「せっかくセンセイと呼んでやってるのにグズグズ言うな」と思われるやもしれません(注2)。

 なので、ここに書きます。

 私は、ほんとうはセンセイと呼ばれるより「長野さん」と言われるほうが嬉しいです。その方がしっくりくる。ちなみにプライベートでは「けんちゃん」「研さん」と呼んでくれる人もいます(後者はなんだか高倉健みたいで恥ずかしいですが…)。街で見かけたら、そう呼んでくださっても結構です(注3)。

 どうぞよろしく…。




(注1)さりとて「私はこんなところでしゃべる資格はないのに主催者がぜひにと…」などと言い訳を述べるのも受講者に失礼です。講師が銘記すべきは、セミナーの目的、すなわち受講生にどんな行動を起こしてもらいたいか、に資することのみのはずです。世間はセミナー花盛りで「受講生に前向きな気持ちになってもらいたい」という目的のセミナーも少なからず見受けられますが、そんな「勉強する振り」に時間を割くくらいなら、綾小路きみまろの独演会にでも行った方がずっと元気になれること請け合いです。

(注2)実際には、こんなガラの悪い方は私のお知り合いにいません。

(注3)柳家喬太郎師匠だって高座の枕で「街で見かけたらキョンキョン、って呼んで♥」って言うじゃありませんか。

2013年9月4日水曜日

合元寺の赤壁(中津市寺町)

 いまやカーアイランド九州屈指の自動車工業集積地となった大分県中津市は、来年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で盛り上がっており、まちのいたるところに『黒田官兵衛孝高』の幟が立っています。

 天正15年(1587年)九州を平定した豊臣秀吉は、側近の黒田孝高を豊前中津12万石に封じました。すぐれた軍略家である孝高を九州の抑えとする意図もあったでしょうが、あまりに頭の切れる彼を恐れた秀吉が中央から遠ざけたともいわれます。

 孝高が築いたとされる中津城は、中津川河口にいまも三角形の遺構を残しています。福沢通りを挟んでその南東方の寺町界隈は、城下町の風情が感じられる散策路が整備され、格好の観光スポットとなっています。今日は、その中ほどにある合元寺(ごうがんじ)を訪れました。


 じつは、このお寺には、中津城、黒田孝高あるいはその息子の黒田長政を語る時、決して触れないわけにはいかない「いきさつ」があるのです。

 中津城主となった孝高には、目の上のたんこぶともいえる人物がいました。豊前守護職の家柄で代々当地に勢力を張る城井谷城主の宇都宮鎮房(「信長の野望」では城井鎮房の名で登場します)です。
 秀吉が命じた伊予国への移封を鎮房が拒否したことから、事態は深刻化し、ついには鎮房が城井谷城に立てこもるまでになりました。
 孝高の息子長政は、城井谷城を攻撃しますが、なにぶん天然の要害であり、度々戦上手の鎮房に翻弄されます。

 最終的には和議を受け入れて中津城に赴いた鎮房でしたが、城内で謀殺され、合元寺にとどめ置かれた家来たちも皆殺しされたということです。

 合元寺境内の案内板には次のような記述があります。

 天正17年4月孝高が前領主宇都宮鎮房を謀略結婚により中津城内に誘致したときその従臣らが中津城を脱出してこの寺を拠点として奮戦し最後をとげた。
 以来門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになった。当時の激戦の様子は現在も境内の大黒柱に刀の痕が点々と残されている。


 作家の井沢元彦さんは、『日本の歴史を理解するキーは、ケガレ思想と怨霊信仰だ』と述べ、その文脈で『神社の造営の中心人物を特定すれば、事件の黒幕が分かる』という趣旨の発言をしています。
 要するに『太宰府天満宮を建てた人が、菅原道真追放の張本人だ』というようなことです。ちなみに、宇都宮鎮房を祀る城井(きい)神社を建てたのは、黒田孝高(官兵衛)でした。

 しかし、本当はどうなのでしょう?以下は私の勝手な憶測です。

 秀吉に肥後54万国を与えられた佐々成政は、国人一揆がおこった責任を問われ切腹を命じられました。秀吉が鎮房に対して飽くまで強硬であったのは、じつは孝高を難しい立場に追い込み、ついには失政の責任を問うための策略であったとしたら…。