2012年12月25日火曜日

「忘れない」だけではないメモの効用


 こまめにメモをとることに消極的な意見の二大潮流は、「メモしなければ覚えられないようなことは重要ではない」派と、「メモなどしなくても頭に入っている」派。メモするしないはその人の自由で、ケチをつけるつもりはありませんが、私は徹底的な逐一メモ派です。

 小学生の頃から高校生まで、ノートすらほとんどとっていなかった私が今のようなメモ魔になったのには理由があります。ありていに言えば、学校で教わることはノートしなくても教科書に書いてあるけれど、自分が思いついたこと、考えたことは、どこにもバックアップがないことに気付いたからです。
 さらに言えば、単純なタスクをたくさん覚えておこうとすると、考えを巡らすことの邪魔になるので、それらのタスクは頭の中から一度消去した方がよさそうだということです。

 京都産業大学客員教授の樋口裕一先生は、著書『頭の整理がヘタな人うまい人』の中で、
 「頭を整理し、論理力を生かすためには、基本としてメモをとる習慣をつけるようにしたい。(中略)メモをとることによって、考えを詰めることができるからだ。」
と言われていました。

 私たちコンサルタントの仕事は、ひとことで言えば考えること。アイデアを書きとめ、それを眺めて発展させることほど重要なことはないと思っています。



サンタクロースとの対話


 昨晩、サンタクロースさんがご多忙な中、当事務所にお見えになりました。 以下は、そのときのやりとりのあらましです。

サ『やあケンイチ、ビジネスのほうはどんな塩梅かね?』

私『恥ずかしながら、今月までの売上累計実績で、前期比五割の体たらくです』

サ『ふうむ。しかし、新たなビジネスへの足がかりは築けたようだね?』

私『はい、その点は所期のもくろみを完全に達したと思っています。ただ、それなりに忙しい一年を過ごしてきて、この程度の数字しか上がらないものかと…脱力感を禁じ得ません。』

サ『ハハ、それはいかんね。しかし、私の目には、君たちはさほど魅力的とは言えない現在の収入を維持することに汲々としているように映る。不幸にしていまの収入源を失ったとしたら、挽回する、否、それをバネに一層飛躍するための手立てを考えているかね?』

私『……』

サ『…それは頭になかったようだね。君は、中小企業の経営革新を支援したりもしているようだが、経営革新をいま最も求められているのは、私の見るところ…不動産鑑定士の人たちだ。』

私『おっしゃる通りかもしれません…でも、どうすればいいのか…』

サ『きみがそんなことではいかんね。私が思うに、まずは自分たちの独占業務を根拠づけている法律まで立ち戻ってみることだ。不動産鑑定の重要性はいささかも低下していないが、その根拠法が謳う法目的は、時代にあわなくなってきている。国土利用計画法がいい例だよ。』

私『私たちは、自らの存立基盤に無頓着すぎたということですね。』

サ『そうだ。君たちが説明責任を果たすべきは、まずそこからだ。鑑定評価書の中だけの問題ではない。つぎに、クライアントひいてはその背後にいる利害関係者の期待にどうしたらもっと応えることができるか考えることだ。価格等ガイドラインはもちろん、法律ですら不変の制約条件ではないはずだよ。』




2012年12月20日木曜日

パワポものがたり


 最初は出来心だった。

 安易にセミナー講師を引き受け、付け焼刃で準備したA氏は、こう思ったのだ。
 「プレゼンテーションスライドとレジュメの両方をつくるなんて、めんどくせーな。だったら、スライドをレジュメのかわりに配ったら…。あっ、俺って頭いいー!」。

 未完成のレジュメを、若干字を大きくしてパワーポイントにコピーすると、なんだかそれらしくなった。
 当然、レジュメ通りに話をするつもりだったから、話すことは一応全部スライドに載せた。当然、字を小さし、行間を詰めなければならなかったが、なんとかスライドにおさめた。

 さて、セミナー当日。スライド上には、細かい字がびっしりと並んだ。グラフなどはさらに見にくかった。聴衆は仕方なしに手元に「レジュメ代わりに」配られたスライドのコピーに目を落とした。

 そんなことを繰り返しているうちに、講師らも聴衆たちも「前を見て話を聞く」ことをだんだん忘れていった。誰かが、「講演だってコミュニケーションだ」と言っていたが、実際のセミナーは講師と聴衆とにとって、互いに顔の見えないものになっていった。

 こうなると、レジュメとは別に、「前を見て話を聞く」ためのスライドを用意した講師たちにも、「スライドを配ってくれ」という要求が寄せられるようになった。レジュメを配るという文化は、急速に失われざるを得なかった。

 かくしてプレゼンテーションスライドは、「いま講師はどこの話をしているか?」を示す目次のようなものでしかなくなったのである。「字が小さくてよく見えません」なんてことは、もう誰も言わない。


2012年12月11日火曜日

ミッションに照らして最も大事なこと


 私にはふたりの子供がいます。まだ小学生です。
 一大イベントであるクリスマスには、いつも手柄をサンタさんに独り占めされ、いささか割り切れない思いもしています。
 でも、「本当はパパが買ってやったんだ、感謝しろ」という親はいません。不思議なサプライズに喜ぶ子供の笑顔が何よりうれしいからでしょう。

 「お客さまのよき伴走者として」「お客様の笑顔をつくる」といったミッションを掲げる人たちがいます。すばらしいことです。ただし、そのミッションに照らして最も大事なことは、「お客様が笑顔になった」ことであって「私が笑顔にした」かどうかは二の次のはずです。

 もちろん、事業の発展的継続のためにアピールが欠かせないことも理解できます。ですが、私たち零細企業者が成果を挙げるためには、人の力を借りること、いろいろな能力と知見を持った人たちと相互に結びつくことが、これまでになく重要になってきています。
 自分の成果をアピールしなければならない、という「自己宣伝の強迫観念」が、他の企業者とのネットワークを傷つけてはいないでしょうか。

 先日亡くなった小沢昭一を評して永六輔いわく、「自分の功績を隠したがる人だった」。
 彼が自己宣伝に満ち満ちた人だったとしたら、小沢昭一は我々の前に出現したのでしょうか。あの小沢節はどのように私たちの耳に響いたでしょうか。



2012年12月9日日曜日

森の専門家たちの寓話


「あのう。少しの間、その焚火で暖まらせてもらえませんか?」 
 
マーシャは、背の高い「専門家」に話しかけました。
 
その「専門家」は言いました。
 
「いいよ。娘さん。それにしても、こんな吹雪の森に、たった一人で何をしに来たのかね…?」 
 
「あのう…マツユキ草を探しに…でないと、私は家には入れてはもらえないの…」

「娘さん、きみには色々と大変な事情があるようだね。よーし、分かった。その願いを叶えてあげようじゃないか。」
  
「専門家仲間の皆、どうだろう?」
 
「私達はかまいませんよ。専門家だから!」
 
まず最初に、「気候をコントロールする専門家」がその手に持つ杖を一振りすると…

降りしきる雪は止み、冷たい風は少しずつ暖かいものになっていきました。

次に「花を咲かせる専門家」が春の歌を歌うと、色とりどりの春の草花が咲き乱れ始めました。

さらに「花摘みの専門家」が手のひらを広げると、持ち切れないほどのマツユキ草が。 

「専門家のみなさん、どうもありがとう!ほんとうにありがとう!」
 
しばらくして、専門家たちは、マーシャの訃報に接しました。親に虐待された末の衰弱死だったということです。

仲間のうちのひとり、背の高い「専門家」がつぶやきました。

「僕らがしてあげるべきことは、マツユキ草を摘むことだったのかな?」

即座に別の「専門家」が言いました。

「クライアントの要請は、マツユキ草を摘むことで、僕らは成果をあげ、クライアントに喜ばれた。それでいいじゃないか。」

もうひとりがいいました。

「そうだよ、それを生かすかどうかはクライアントの力量。あの娘さんは寿命だったということさ。」

それを聞いて、背の高い「専門家」はもう一度つぶやきました。

「そうなのかなあ、どこか違うような気がしてならない…。」  (おしまい)