2013年9月7日土曜日

先生と呼ばれるほどの…

 「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という言葉があります。

  「先生」と呼ばれて得意となっている者を嗤う一方で、むやみに人のことを先生呼ばわりする風潮を皮肉っているのでしょう。

 「先生」というのは便利な言葉なので気軽に使われますが、特段敬意が込められているわけではないように思います。むしろ馬鹿にされていることすらある(明らかにバカにしているとき雑誌などでは「センセイ」とカタカナで書きますね)。

 士業のはしくれである私自身も 「先生」と呼ばれることがあります。一部の業界には、士業は一応センセイと呼んでおけ、というコンセンサスがあるようです。自分たち自身でも互いを先生呼ばわりしている士業の人たちもいます。

 士業はみなセンセイならば、一級建築士も土地家屋調査士もセンセイだろうと思い、そう呼んでみると、彼らはたいがい困った顔をして「その呼び方、やめてくれない?」と言うことが多いです。
 彼らのこの感覚は、きわめて正常だと思いました。同時に、自分がセンセイと呼ばれることに少なからず疑問を抱くようになりました。

 一級建築士の人たちの気持ちを忖度すると、一級建築士という資格者の中でも、建築家として名を成した人たちだけが先生だ、ということなのかもしれません。

 センセイと呼ばれて良かったこともないわけではありません。某行政機関のA課長は非常に仕事の出来る方で、ご在任中たいへんお世話になったのですが、彼はケースによって呼び方が変わるのです。普段は「長野さん」と呼んでくださるのですが、何か頼みがあるときは「長野先生」。彼から「長野先生、近々少しお時間を頂戴したい。」といわれると「ははあ、込み入った案件だな」と前もって心の準備ができたものです。

 閑話休題(ってイヤな言い方ですね、ぜんぶ閑話なのに)。「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」とはよく言ったものだと思うのは、それが呼ばれた側のためになっていないと感じるからです。先生と持ち上げられたことで慢心する人もいるし、逆に先生と呼ばれたために偉い人間を演じようとする人もいます。

 セミナーや講演で偉そうに振る舞う講師は少なくない(注1)ですが、彼らとて「講師は先生だから偉くあらねばならない」というドグマに囚われた犠牲者という一面もあります。

 彼らがいかに偉そうに振る舞おうが、他者より高い視点を持ち得ていない者が垂れるべき高説などこの世にないことは、水が高きから低きに流れるがごとく当たり前のことです。

 先生なんて呼ばれてていいのかと思いつつ、面と向かって「私を先生と呼ばないで」とはなかなか言い出せないでいました。言われた方は困惑するかもしれないし、いい気持ちがしないかもしれません。「せっかくセンセイと呼んでやってるのにグズグズ言うな」と思われるやもしれません(注2)。

 なので、ここに書きます。

 私は、ほんとうはセンセイと呼ばれるより「長野さん」と言われるほうが嬉しいです。その方がしっくりくる。ちなみにプライベートでは「けんちゃん」「研さん」と呼んでくれる人もいます(後者はなんだか高倉健みたいで恥ずかしいですが…)。街で見かけたら、そう呼んでくださっても結構です(注3)。

 どうぞよろしく…。




(注1)さりとて「私はこんなところでしゃべる資格はないのに主催者がぜひにと…」などと言い訳を述べるのも受講者に失礼です。講師が銘記すべきは、セミナーの目的、すなわち受講生にどんな行動を起こしてもらいたいか、に資することのみのはずです。世間はセミナー花盛りで「受講生に前向きな気持ちになってもらいたい」という目的のセミナーも少なからず見受けられますが、そんな「勉強する振り」に時間を割くくらいなら、綾小路きみまろの独演会にでも行った方がずっと元気になれること請け合いです。

(注2)実際には、こんなガラの悪い方は私のお知り合いにいません。

(注3)柳家喬太郎師匠だって高座の枕で「街で見かけたらキョンキョン、って呼んで♥」って言うじゃありませんか。

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