2014年6月6日金曜日

「軍師官兵衛と永遠のゼロ」ツアー

 平成26年5月30日(金)、大分県別府市のホテル白菊にて、一般社団法人九州・沖縄不動産鑑定士協会連合会第三回通常総会が開催されました。

 その翌日、九州各県からいらした総勢三十名のお客様を「軍師官兵衛と永遠のゼロツアー」と銘打って、中津・宇佐方面にご案内しました。

 別府ICから一路中津を目指す前に、吉弘神社(別府市石垣西)、実相寺山(別府市大字鶴見)を車中から望見。
 後者は「西の関ヶ原」といわれる石垣原の戦いで黒田如水(勘兵衛孝高)が本陣をおいた場所。前者はこの戦いで敢闘の末討死した大友方の勇将吉弘統幸を祀っています。

 石垣原の戦いに詳しいH先生からは、実相寺山西方の角殿山(現在のルミエールの丘)には黒田家次席家老の井上九郎衛門が陣を敷いた由のご説明もありました。

 なお、H先生によれば、この戦いにおける吉弘統幸と井上九郎衛門のエピソードは、必ずや大河ドラマ『軍師勘兵衛』で取り上げられるに違いないとのことなので、ここではネタバレを控えます。

 石垣原の戦い及び吉弘統幸については以前当ブログでも取り上げました。こちらもご覧ください。



 さて、ようやく中津城へ。まずは城内の一角にある城井神社に参拝。

 ここは、黒田孝高が豊前中津12万石に封じられる前の領主であった宇都宮鎮房が祀られています。伊予今治への転封を不服として反乱を起こした鎮房は、その後降伏して許されますが、翌年孝高の嫡子長政によって中津城で酒宴の最中斬殺されます。

 鎮房の身を案じながら中津城下の合元寺で待っていた家来たちの多くも黒田方の討手により殺されました。これが「宇都宮鎮房謀殺事件」のてんまつです。

 「長政は深く思うところあって」(余程寝覚めが悪かったということでしょう)、後に城井神社を建立し、宇都宮鎮房を祀ったということです。

 なお、宇都宮鎮房の本拠地であった城井谷のある福岡県築上町は 「黒田官兵衛最大の宿敵」として宇都宮鎮房を売り出し中です。


 
 城井神社の次は、ガイドさんの引率で中津城内を見学。

 下の写真は、黒田官兵衛孝高が白村江の戦い の頃築かれた古城・唐原城(とうばるじょう、現上毛町)の石垣をリサイクルして造営した中津城の石垣です。



 下の写真は、中津城模擬天守横の石垣。写真中央を斜めに走る線の左右で石積みが全く違っています。
 向かって右が黒田官兵衛孝高が築いたもの、左が細川忠興が築いたもの。関ヶ原の功により豊前39万石を与えられた細川忠興が城郭拡張工事をした時にできたのでしょう。
 工法の違いは分かりませんが、官兵衛孝高が用いた石材の方が形が揃っているので、きれいに見えますね。



 中津城をあとに向かったのは、城下にある赤壁合元寺(ごうがんじ)。



 前述のとおり、黒田氏が宇都宮鎮房を謀殺した時、ここで休息していた鎮房の家来たちにも討手が差し向けられ、斬り合いとなりました。その時の壁の血しぶきが、何度塗り直しても赤く染み出でくるため、ついに赤壁とせざるを得なかったという逸話が残っています。

 合元寺については以前当ブログでも取り上げました。こちらもご覧ください。

  「合元寺の赤壁(中津市寺町)

 中津に来たならやっぱり鱧、ということで「和風味処鬼太郎」の鱧しゃぶ御膳をいただいた後は、宇佐へ。宇佐市平和資料館と海軍宇佐航空隊跡(城井一号掩体壕史跡公園)を訪ねました。

 

 上の写真は、宇佐市平和資料館に展示されている零式艦上戦闘機二一型の実物大レプリカ(映画「永遠の0(ゼロ)」で使用されたものである由)。垂直尾翼の番号は721空(第七二一海軍航空隊)所属を示しています。

 721空は別名神雷部隊、特攻兵器桜花を搭載した一式陸攻隊でした。つまりこのレプリカは神雷部隊の護衛戦闘機のものということになります。

 宇佐市平和資料館、城井一号掩体壕史跡公園についてはこちらもご覧ください。

  「宇佐市平和資料館に行ってきました」

  「戦史遺跡と不動産鑑定士」

  「終戦の日に(宇佐海軍航空隊のお話)」

 以上で、全行程を終了し、帰路につきました。お客様方は満足してくださったでしょうか。
 

2 件のコメント:

  1. ご丁寧な、旅程、史跡の解説、有り難うございます。二日酔いの頭の整理が出来ました。

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    1. 恐れ入ります。またお目にかかるのを楽しみにしております。

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