2012年9月24日月曜日

「レディースプログラム」なる講座のエピソード

 私がかつて学んだビジネススクール(以下、KBSと呼びます)は、主たる教育方法として「ケースメソッド」を採用していました。
 ケースメソッドは、実際の経営状況をまとめたケースを素材に、ディスカッションを通して新しい知恵を共創する教育方法で、過去70余年間にわたりハーバード大学ビジネススクールが中心となって開発し、改良してきた実践的な経営教育の方法といわれています。

 「ケースメソッド教育」のプロセスは、大きく三段階に分かれます。第一段階は、数十ページに及ぶケースを個々に事前検討すること。第二段階は、いわば「議論のウォーミングアップ」として6名程度のグループでディスカッションすること。第三段階は、講師のリードにより、クラス全体でさらにディスカッションを重ねること。「英知は教えられない」から、経営者の立場を疑似体験するとともに、学生相互の意見交換を通して各自の問題発見力、問題の構造化能力、判断力、意思決定能力を養成しよう、というのが、ケースメソッドの基本的思考といえます。

 ところで、KBSにはかつて「レディースプログラム」という講座があったそうです。これは、KBSの学生向けではなく、学生(社会人が大多数を占める)の奥さんたち向けの講座でした。「うちの旦那は、会社を休職して、夜中まで何を勉強しているのか」の一端を体感してもらい、彼女たちの日ごろの忍耐と献身に報いるための趣向だったと聞いています。奥さんたちの大半は、「経営」とか「決算書」などに馴染みのない方々だったでしょうが、「レディースプログラム」に用いるケースは、本格的なものだったということです。

 私が学んだ二十年前は、すでに「レディースプログラム」はありませんでした。その頃にはもう、学生の4、5人に1人は女性となっていたことも理由のひとつと推測されます。当時クラスメートには、竹田陽子横浜国立大学大学院教授(経営情報システム)、土橋治子青山学院大学准教授(消費者行動論)といった方たちもいました。彼女たちは(私と違って)当時から明確な目標を持ち、片意地を張るところもない、とてもしなやかな感性の方々だったことが思い起こされます。

 閑話休題。レディースプログラムの話に戻ります。
 ある年のこと、レディースプログラムで用いたケースが、期末試験に出題されました。このとき、数名の学生が自宅に電話をかけ、奥さんにレディースプログラムでの先生のお話を聞き出して、答案に生かしたそうです。
 この話を聞いた時、私は思わず「先生、それってカンニングじゃないですか?」と言ってしまいましたが、恩師はにっこり笑ってこうおっしゃいました。
 「自分をとりまく人たちと情報交換を密にして、それをビジネスに生かすのは経営者の重要な能力じゃない?彼らは、事前に奥さんとの間でレディースプログラムに関してコミュニケーションをとっていて、かつ試験当日、それがレディースプログラムの内容に合致すると気付いたわけだよ。それは正当なアドバンテージだと判断して、いい点数を付けたよ。」(写真はイメージ)


2012年9月19日水曜日

2件のセミナーを担当して


 8月下旬から9月中旬にかけて、「起業家養成講座」「創業セミナー」と題する2件のセミナーを担当させていただきました。
 前者は大学生、後者は社会人を対象とするプログラムであるため、テーマはほぼ同一ながら、受講者の属性を考慮し、内容的には少し違ったものになりました。

 講義とビジネスプラン策定演習を併用したセミナーの中で、私が今回とくに意を用いたのは、「講義を講師が一方的にしゃべる片方向のものにしない」ということです。具体的には、各所に「考えてみよう」というコーナーをおき、具体的な事例に即して発言していただくようにしました。

 この点、大学生の人たちは、現役の強みか、「皆さん、これどう思います?」という問いかけに、即ディスカッションモードに入ることができました。誰かの発言に追従することなく、反対意見がさっと出てくるところには感心しました。
 他方、社会人の方々は、私のリードも拙かったのか、当初はかなり戸惑った様子でした。しかしながら二回目の講義では積極的な発言が相次ぎ、また発言内容もさすが社会人、問題のさまざまな側面に光を当てた内容豊かなものでした。

 思えば、われわれ日本人は、小学生の頃はともかく、活発に議論を戦わせる機会にはあまり恵まれていません。積極的に発言する人が偉い、というコンセンサスも本当はなくて、単に「目立ちたがり」「変わった奴」と思われるだけなのかもしれません。
 そんな日本社会の中で、毎日ディスカッションだけを繰り返す学校があります。それは「ビジネススクール」というところです。次回は、ビジネススクールのクラスディスカッションにまつわるエピソードについて書きたいと思っています(写真はイメージ)。



2012年8月15日水曜日

終戦の日に(宇佐海軍航空隊のお話)


 大分県宇佐市にある「城井1号掩体壕史跡公園」は、かつてこの地にあった旧日本海軍・宇佐海軍航空隊(海軍航空隊宇佐基地)に係る戦史遺跡を宇佐市が買い取り、史跡公園として整備したものです。

 宇佐航空隊は元来、爆撃機・攻撃機の搭乗員の教育を行う訓練部隊でしたが、太平洋戦争末期の昭和20年には特別攻撃隊が編成され、154名の特攻隊員が出撃していきました。

 航空隊の滑走路があったところは、現在フラワーロードと呼ばれる市道になっていますが、その周囲には10基の掩体壕(飛行機を敵の攻撃から守るために造られた小さな格納庫)が残っています。

 隊員であった東條重道さんが戦友の思い出を綴った手記「野中繁男君を回想する」(なにわ会ニュース53号13頁 昭和60年9月掲載)によると、「20年の紀元節までは宇佐は桃源境だった」ようです。
 若い隊員たちは、それぞれに短い青春を謳歌したことがうかがわれます。毎週末日豊本線で湯の町別府に行き、決まって杉の井旅館に泊まったこと。亡き戦友の家に遊びに行き、息子の身代わりのように歓待されたこと。意中の女性について話したこと。

 しかし、のんなのどかな日々も「マルダイ部隊野中一家が駐機するに及んで空気は一変した」。マルダイ部隊とは、有人ミサイルともいえる特攻ロケット爆弾「桜花」を搭載する一式陸攻隊です。
 部隊長の野中五郎少佐は、二・二六事件の首謀者野中四郎大尉の実弟(前出の野中繁男中尉とは全く別人)でした。

 一式陸攻は、緒戦期に大活躍した双発の爆撃機ですが、図体が大きく鈍重で、長大な航続力と引き換えに防弾装備は極めて脆弱でもあったため、昼間攻撃では生還はおろか、敵艦に近づくことすら覚束ないのが実情でした。

 繊細でやさしい人柄であったと伝えられる野中少佐は、特攻に極めて批判的であったと言われていますが、暗くなりがちなムードを払拭するため、隊員たちの前では、任侠の大親分を気取って芝居がかった振る舞いをしていたそうです。部隊はいつしか、彼の名を冠し、「野中一家」と呼ばれるようになりました。

 昭和20年3月、出撃命令を受けた野中部隊は、米機動部隊に到達できぬまま敵艦載機に全機撃墜され、全滅しました。

 前出の東條さんの手記に戻ります。

「戦局日々急迫、3月1日第10航空隊に編入され、練習機をもってする特別攻撃隊が編成された。その第1回の編成が第1八幡護皇隊である。艦攻隊は全機をもって編成した。八幡とは宇佐神宮の八幡さんから、護皇は勿論皇室を護るという意味であった」。

「艦攻は3人乗りである。丁度7分咲きの吉野桜を背に挟み、八幡護皇隊と染抜いた白鉢巻も凛々しく正装して出撃命令を待っている。池田の小母さんも見送りにみえている。野中君とは目礼して十分意は通じた。「かかれ」の号令で愛機へ。そして淡々として次々に離陸、見事な編隊で宇佐空を飛び立っていった。操縦の乱れは全く見られない。何時もの訓練と同じように飛んで行った。私の胸にはジーンとするものが、いつまでも残っていた。俺もすぐ行くのだ、こんな風に見送られてと思いつつ。」

 その後、野中中尉は4月6日特攻出撃し、敵戦闘機と交戦、戦死されました。史跡公園の石碑に、彼のお名前を見つけることができます(下写真、上列の右から四人目)。



2012年8月9日木曜日

戦史遺跡と不動産鑑定士


 今日的な不動産鑑定評価の重要なテーマのひとつに、土壌汚染があります 。

 それゆえ不動産鑑定士は、対象物件の現況(植生、残置物その他)のみならず、周囲の状況、周辺地を含めた過去の利用状況(いわゆる地歴)を調査し、汚染が不動産の価格形成に影響を及ぼす可能性を判断するのが通常です。
 地歴を調べることは、歴史をひもとくことであり、しばしば太平洋戦争が残した様々な傷跡にも行きあたることとなります。

 大分県宇佐市にはいまだに旧陸軍省名義の字図混乱地域が残されたままですし、地元のお年寄りたちも知らない地下壕が張り巡らされているらしき基地跡もあります。中津市の田園地帯では、そこがかつて大手製鉄会社の大軍需工場があった場所だと知りました。熊本市では、図書館で地歴を調べるうち、沖縄戦の義烈空挺隊の発進基地が近くにあったとわかりました。
 そんなときは、わずか一瞬ですが、仕事を通じて当時に思いをはせる機会になります。

 ところで私には、戦史遺跡を見るたび、思いをあらたにすることがひとつだけあります。それは、『戦争体験から得られる知見は、ただ「ふたたび戦争の惨禍が起こることのないように」というだけではないはずである』、ということです。

 若いころ、幹事をつとめたある酒席で重役の方に乾杯のご発声をお願いした時の、その方のスピーチがいまでも印象に残っています。12月8日のことでした。

 『50年前の今日、日本海軍がハワイのパールハーバーを奇襲しました。ご存じの真珠湾攻撃です。功罪はどうあれ、その後の世界史を大きく変えた重大事件であったことは疑いありません。それを実行した搭乗員の平均年齢は21歳だったと聞きます。時代を動かすのはいつも若者です。私は、みなさん若い方々にそんな大きな期待を持っています。』

(写真は、宇佐市の城井1号掩体壕史跡公園=旧日本海軍の特攻隊基地跡です)


2012年8月2日木曜日

資料の妥当性を判断するということ


 わたくしたち専門職業家が、分析調査の過程で採用する各種のデータは、採用した時点でそれを「専門職業家として」妥当と認めたことになる。それゆえ、その提示資料が信頼するに足るものかどうかの吟味がきわめて重要となるし、資料の妥当性を判断する眼力を養う努力は欠かせない。

 以下は、私がかつて経験した案件。

 借金苦で夜逃げするのはテナントの方というのが世間の常識で、オーナーが夜逃げする時代がくるなど、かつては考えられなかった。しかしながら、不動産市況が長期低迷する中、かかる事態は決して珍しいことではなくなっている。

 ある貸店舗で、オーナー行方不明の状況下、テナント側は月額賃料の数十倍の保証金を支払ったと主張、その証拠として敷金授受の旨を記載した覚書を提示した(なお、月額賃料の何倍程度までが買受人の引き受けになるか、という論点はひとまずおく)。
 これをそのまま採用すれば、保証金の運用益を考慮した実質賃料は、月額支払賃料と相当差のある高額なものとなる。しかし、私はこの敷金授受には疑問があると判断し、その運用益を考慮しなかった。その理由は、家賃の入金口座に保証金授受の記録がなく、かつ提示された覚書は、その当時のテナントの名称ではなく、その数年後に商号変更した現在の社名での記名捺印であったからである(商号変更の経緯は法人登記簿で確認した)。

 資料の妥当性を判断する眼力が求められる点は、ドキュメンタリー作家なども同じであろう。
 澤地久枝氏の『雪はよごれていた 昭和史の謎二・二六事件最後の秘録』は、丹念な文献調査に基づき、これまで闇の中にあった昭和史の真実を暴きだした名著とされる。

 しかしながら、一読者としては、アプローチの見事さに興奮を覚えつつも、他の既出資料が意図的な隠ぺいを仕組んだもので、新たに発見した資料や証言こそが真実を語るものとなぜ言えるのかがわからなかった。当時、二・二六をめぐる軍法会議が統制派の掌中にあったことは当然で、そこから得た情報には相当なバイアスがかかっていると見る方が自然に思えたのである(昭和史の研究者である大江志乃夫先生も澤地説には疑問を呈されていた)。

 事実がどうであったか、それはわからない。明らかなことは、澤地氏が実績あるプロのドキュメンタリー作家として、これらの資料を「妥当と認めた」ことだけだ。







2012年7月23日月曜日

娘の誕生日に


 今日は、長女の十一回目の誕生日です。
 生意気さと子供っぽさが同居しているのがこの年代の特徴かもしれませんが、相変わらず全てを母親に依存する一方、最近えらく母親に口ごたえをするようになりました。まあ、これも成長の一環と見て、母親と娘の間への軍事介入は控えています(宿題を見てやる、夏休みの宿題に協力するなどの宣撫工作は続けています)。

 娘の成長にかこつけて言えば、願わくば娘には「あいつのいうことなら聞いてやろう、力になってやろう」と言われるような人になってほしい。誤解のないように念のため付け加えますが、人脈作りが大事、というのとは少し違う気がします(「人脈」という言葉は人を金づると捉えるような響きがあって嫌いです)。

 残念なことですが、私は優秀なサラリーマンではありませんでした。いまでもたまに思い出す大きな失敗がいくつもあります。でも、退職後に当時上司だった方に聞いたら、お仕事で関係のあったいろいろな方たち(お取引先や関連会社や社内の他の部署の人たち)が「あいつ、可愛いとこあるんだよなあ」「あいつがやりかけたことは無駄にしない、俺に任せておけ。」といろいろカバーしてくださったのだそうです。

 たとえ、さして能力や実績がなくても、可愛げのある奴には手を差し伸べてくれる人もいる、ということでしょうか。ところで、私のどこに「可愛げ」があったか、うまく自己分析できませんが、もしかしたら失礼な言動などを「素直に詫びる態度」が評価してもらえたのかもしれません(それが組織の論理に反する場合があることはご存じの通りですし、そもそも失礼な言動などないに越したことはありません)。

 重ねて残念なことですが、私は心の広い人間でもないので、逆に「あんな奴のために力を尽くして損をした」と思ったことが何度もあります。そう思わない人間になれれば越したことはないけれど、娘にはせめて手を差し伸べてくれた人に、後から「やっぱり助けてやってよかったな」と思われるような人になってほしい、とは切に思います。父親は、読書を楽しむ習慣以外、何も授けてやれないけれど(後掲はイメージ画像です)。




2012年7月20日金曜日

不動産鑑定士の鞄の条件


 よく女性が持っている平底のバッグがありますよね?中に仕切りのほとんどないやつ。私はあれが苦手です。鞄に手を突っ込んでも、なかなか目当てのものが取り出せないからです。まるで「これでもない、あれでもない」と毎度ドラえもんみたく騒いで、相当イライラ感がつのります。
 
 今日は、私が毎日持って歩いている鞄のことを書きます。

 二年半使い倒した鞄が劣化してきて使いづらくなったので、本日とうとう新品に買い替えました。先代は、母がバザーだかフリマだかで1,000円で買ったものを貰い受けたと記憶しています。地価公示分科会の資料でパンパンにしたり、肩掛けにして傾斜35度の山中に分け入ったりといった酷使によく耐えてくれました。唯一の欠点は、自立しにくい(床に置くと倒れやすい)ことでした。


 では、後継鞄としてどんなものを選ぶべきか。現地調査が不可避の仕事柄、不動産鑑定士に高級なレザーの鞄は似合いません。重いし、高価だし。軽くて、雨に強くて、堅牢で、中身を取り出しやすい、安価なナイロン製が一番です。


 先代の鞄にはポケットがたくさん付いていて、電卓はここ、縮尺定規はここ、認印はここ、と常備品の格納場所を全部決めていたので、暗がりでもサッと取り出すことができました。でも、鞄が新しくなって、格納場所がまるで変わってしまったので、慣れるまでしばらく時間がかかるかもしれません。
 今回は、先代以上に機能的な鞄を選んだつもり。水筒も、折りたたみ傘もうまく収納できます。自立します。早く慣れて、ストレスフリーで仕事に集中したいものです。